四日市ハッキョの歩みを辿る:沿革史整理作業記(18)
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何かしらの形で「七〇年史」を出せれば
申正春・初級部49期・中級部二〇〇三年卒の46期生
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去る五月二九日に「四日市朝鮮初中級学校創立七〇周年記念事業実行委員会」が発足された。記念祝典は七〇周年(九月一日)を迎える九月一八日に行われる 。そこで十分とは言えないが、七〇年史を調査した成果を何かしらの形で出せればと思う。(https://www.facebook.com/yokkaichi1946/)
一九八〇年代以降に関する歴史は依然述べたとおりまだ漠然と年表にある事実関係にとどまり、文章に起こすほどのものもない。九〇年代以降は筆者自身が園児、児童、生徒として過ごしたので歴史というよりも記憶・思い出としての側面が強いのかもしれない。
年表や記憶から時系列に事実関係を述べると、以前も述べたように近隣の学校との交流会が始まり、九六年には創立五〇周年を迎えて校舎や体育館の補修、記念行事が行われた。
五〇周年を迎えた当時筆者は初級部三年生であったが、運動場が人であふれかえっていた印象がある。全編ではないが、残っていた記念行事のビデオをみても、かなりの人々が集まり、歴代の校長も多く参加していた。思えばその後六〇周年、六五周年と参加したものの、参加人数が減っていることもそうだが、年表や歴代の卒業写真、年代別の漠然とした写真の展示以外ハッキョの歴史はいくつかのエピソードを除いてはあまりしっかりと聞いた記憶がない。
思えば連載の最初に述べた沿革史整理の動機もそれであった。
あまり事実関係を並べても意味がなく、創立七〇周年を前にしてはこの稿が最後となるので、一度七〇年史を概略的に振り返ってみたい。
解放前、三重県には二万五千名を超える朝鮮人が在住していた。その経緯は様々だが、四日市ハッキョ周辺は一九二〇年前後に珍島の曺氏四日市の万古焼工場で働きだしたことから珍島出身者の集住地となり、桑名の場合は一九一七年に慶尚北道清道郡出身の李氏が大橋鋳物工場で働き始め、親類、縁者が集まったというような経緯と共に、県内各所への強制連行があったようだ。
一九四五年8・15解放以降、四日市では日本人の部屋を間借りして朝鮮語などを教えていたが、解放直前の四日市や桑名への空襲により街が破壊され、「寺子屋」式のハッキョすらもままならない状況であった、阿倉川駅西側にあった同胞所有の家畜小屋が寄付され一九四六年九月一日、「ウリ學校」の看板が掲げられ、ハッキョの歴史がスタートした。
朝聯の指導下で教育体系の整備がすすめられ、四日市市内各所の朝鮮人児童が阿倉川のハッキョへ編入した。児童・生徒の増加に伴い校舎の移転に着手、妨害などありながらも小高い丘であった阿倉川東側を削り、一九四九年九月初めに新校舎を建設する。当時同胞こぞって祝いの宴が行われたのも束の間、一九四九年九月八日の朝聯強制解散とそれに続く「学校閉鎖令」によって県内各所のハッキョは閉鎖、四日市では一三名の児童が日本学校への分散入学を拒否し、一九五〇年には県の「黙認」の下、県下唯一の「自主学校」として残った。(注2)
注2・この時に他のハッキョは全て閉鎖・接収されてしまったため、四日市のハッキョの創立日が現四日市朝鮮初中級学校の創立記念日となっている。
「自主学校」としての運営の苦しさは筆舌につくしがたく、五二年の市長・教育長の視察後の教育長「所感」からその惨状が垣間見える。その後「PTAへの寄付」(補助金)を獲得した。
五五年には中級部が併設、総連結成後の五七年には校名が「四日市朝鮮初中級学校」に。その後、共和国への帰国運動の高揚とともに児童・生徒数が約五〇〇名まで激増した。
六〇年ごろには校歌も作られ、六〇年代には全国有数の「模範校」として名を馳せた。(注3)
注3・校長と二名の教員の「模範教員」称号授与、模範クラスの特別修学旅行、全国初の「模範教員集団」、「模範教育会」称号同時受賞、共和国の最模範校「ヤクス中学校」との姉妹校提携など華々しい。
六五年には鉄筋三階建ての現在の本校舎が落成、教育の質を高めるための運動も活発に行われた。
七一年には中等教育実施二五周年に際して金日成首相(当時)から表彰状と贈り物が送られ、七二年に幼稚班併設、七五年には第二校舎と体育館が落成し、現在の形となる。
八〇年代以降は前回と今回冒頭で少し述べたような流れだ。
概略でこの程度であればもう何も見ずとも語れるレベルにはまとまってはいる。いずれにせよ七〇周年が目前に迫った。どのようにまとめて残すか、非常に悩むところであるが、記念事業にかかわる方々の意見も聞きながら、九月にその成果を形にしたい。(2016・7・2)38
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