東日本大震災五年 チャリティーライブ開いた 朝鮮大学校音楽科同期生
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プロフィール
朴昭暎
1984年6月23日生まれ
1997年 横浜朝鮮初級学校 卒
2000年 神奈川朝鮮中高級学校 中級部卒
2003年 神奈川朝鮮中高級学校 高級部卒
2005年 朝鮮大学校 教育学部音楽科(2年制)卒
会社員をしながら、神奈川文芸同MU(ミュー)に所属し、神奈川を中心に演奏活動中。
都内をはじめとするウリハッキョにて講師として、歌唱指導も行っている。
金嬉仙
1984年5月17日生まれ
1997年 京都朝鮮第二初級学校卒
2000年 京都朝鮮中高級学校 中級部卒
2003年 京都朝鮮中高級学校 高級部卒
2005年 朝鮮大学校 教育学部音楽科(2年制)卒
2007年 国立音楽院 演劇科卒
カフェ勤務の傍ら、音楽ユニットASHMORE(アシュモア)のボーカルとして都内を中心に演奏活動を行う。
現在公開中の映画「蒼のシンフォニー」の主題歌を担当。
金秀一
1985年3月29日生まれ
2000年 長野朝鮮初中級学校 中級部卒
2003年 東京朝鮮中高級学校 高級部卒
2005年 朝鮮大学校 教育学部音楽科(2年制)卒
2014年まで 金剛山歌劇団所属
現在フリー活動中
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もくじ
同胞たちに寄り添って細く長く続けていきたい
被災したハッキョ卒業式に歌を
金淑子東日本大震災の後にYouTubeで、朴昭暎トンムと金嬉仙トンムが歌う「オンジェ・オディソナ(いつ どこでも)」には泣かされました。「力を落とさないで」という同胞への思いがひしひしと伝わってきたというか。朴英二監督の映像も被災地の様子をよく伝えていて。金秀一トンムの奏でるテピリが心にしみて。
朴昭暎嬉仙は自分のオリジナル曲ももっていますが、私はあんなふうに何かを作ろうとしたのは、あの時が初めてでした。
金嬉仙普段、曲作りは日本の友人としているのもあって、今までウリマルで曲はあんまり作ってきませんでした。
朴昭暎オモニが会津出身で福島ハッキョの一期生です。母方の叔母や叔父が会津に住んでいました。福島で女性同盟の活動家をしているオモニの同級生や、同じ神奈川出身で東北ハッキョで教員をしている母の友人の息子さんもいたり、とてもゆかりがあったので、震災の前から仙台の運動会に行ったりしていました。私の朝大時代の同級生も被災地にいて、学生時代に仲の良かった先輩は福島ハッキョに勤めていました。自分にいったい何が出来るだろう、どうしたら被災地の力になれるだろうと悶々としていた頃、震災で延期されていた被災地のハッキョの卒業式が三月二七日に決まったと、当時東北の朝青トンムが発信していたブログを通して知って、今だ!と、思いました。ちょうど震災から2週間を迎える日(二五日)でした。卒業式までに間に合わせて映像と一緒に歌をプレゼントしようと「ビビビビッ」と思いついて、その日の昼に「仕事終わったら集まろう」と嬉仙に声をかけました。
金嬉仙あの頃はテレビが被災一色だったんですよね。一人暮らしでテレビを見ていると辛すぎて、テレビを切ってFMラジオを聴いていたんです。すると被災地を励まそうと、励ましの音楽をずっとかけていたんです、合間にメッセージを流したりして。それを聞きながら、自分は東京にいて、被災したわけじゃないけれど、勇気づけられて、曲が持つ力の大きさを改めて感じました。でも自分が作ったところでと思っていたんですが、そんなときに昭暎から連絡が来て。
朴昭暎無謀なのはわかっていました。でも今やることにやはり意味があると思って。やっとの思いで曲を完成させて、それをもって土曜日に動画を作成し完成させるというスケジュールで準備を始めました。動画の編集も朝青の活動家をしている同級生に協力をお願いしたり、とにかくそこからの動きは早かったです。急なことで、それぞれ予定もあったので、用事が終わり夜の一一時に渋谷のスタジオで待ち合わせました。
金嬉仙集まる前に曲の始まりのメロディーがふと浮かんで「これ行ける!」って思ったのを覚えています。
朴昭暎そうそう、それで歌って行ったんだよね。何しろ音源がないと動画を作れないので、その日は一晩寝ないで朝の八時までかかって曲を仕上げました。作業をやりながら、楽器があった方がよくないかということで、その場で秀一に電話したら、ぎりぎりで終電に間に合って。何しろ決めた後からは時間がありませんでした。
金秀一今から渋谷の音楽スタジオに来られるかと電話をもらったのです。かなり遅い時間でした。焼き肉店でアルバイトをしていたのですが、アルバイトを終えて、劇団に楽器を取りに帰ってから終電で何とかスタジオに駆けつけました。
朴昭暎徹夜で歌ができあがると、一旦家に帰った後また動画を作りに神奈川県本部に行って、動画製作に必要な写真を各ブログや朝鮮新報から拾い集めて、一日かけて動画を完成させました。ところが結局容量が重すぎて、うまく送る手段がなくて、結局卒業式の日の昼食の時間にメッセージを添えて音源だけを流してもらいました。全校生が食堂でクッパを食べながら聞いたそうです。その後私が三月三一日に神奈川県本部の支援隊の一人として被災地に入ったんですが、その時に映像をDVDに焼いたものをようやく届けました。
YouTubeで「被災地同胞応援ソング『언제 어디서나…』」を検索すると、この時のバージョンもアップされています。音声もジージー雑音が入ってしまっていますが。
金嬉仙一発勝負で私が伴奏をして昭暎が歌って。それがこの時のものです。性能もそれほど良くない小さなボイスレコーダで録音して。タイトルも「ハンマウム」でした。サビの部分は一番も二番も三番も「前を見よう、歩こう、手をつなごう」で、何しろ伝えたい言葉を全部詰め込んだ曲になっています。その後、落ち着いてもう少し手を入れようということで、崔玉姫先生にお願いして、今の形になりました。その直後、ちゃんとした音源がほしいと総連の映画製作所に言われて、急いで改めて録音しなおしました。
子どもたちが歌ってくれている
金淑子反響はどうでしたか?
朴昭暎東北の知り合いや同級生の中には最初のバージョンがいいと言ってくれる人もいます。思いが詰まっていて。歌詞も拙いし、曲としては本当に未熟なのですが・・・、そう言ってもらえて素直に嬉しかったです。
金嬉仙実際に被災して最初に聞いてくれたので、その印象が強いんだと思います。
朴昭暎震災間もないころにリアルな映像をあちこちで見ていて、その気持ちで歌っていたので、技術とかクオリティーよりも何しろ思いで歌った歌でした。
金嬉仙思っていた以上に反響が大きくて、金剛山歌劇団からも使っていいですかという問い合わせが来て驚きました。
金秀一僕はその時、金剛山歌劇団にいたのですが、被災地に喜んでもらえるような歌はないかと聞かれたんですけど、勝手にやっていたことなので、黙っていたんです。ところがYouTubeで曲を知られて「なんで黙っていたんだ」って叱られました。
朴昭暎いろんな人がいろんなところで、それぞれの思いで曲を作っていましたね。広島の歌舞団の団長が福島出身で、「コッシルル シモッスムミダ(種を植えました)」(詩は群馬在住・金敬淑)を作ったり、朝大の軽音楽団の「ウリ ハムケラミョン」はすごい反響が大きかった。
金嬉仙何よりもうれしいのは、私たちが作った歌が、ウリハッキョで歌われていることです。初級部に通っている親戚の子がなんとなく歌っているのを聞いて「その曲ヌナたちが作ったんだよ」っていうときの喜びというか。自分たちが初級部の頃も朝大の軽音楽団の「ソンモクシゲ(腕時計)」とかを聞いて、朝大のオッパ、オンニたちが作ってくれたんだって、楽譜を入手して歌っていたなと思って。自分たちが作った曲をまた今の子どもたちが歌ってくれているんだと思うと、感慨深いものがあります。ただ被災した学校に届けたいという思いだけで作った曲を。そんなこと考えもしていなかったので。
震災支援ソングに涙する同胞たち
金淑子またテピリの音色がいいですよね。ウリナラでもこんなコラボはないですよね。
金秀一偶然が偶然を呼んだんですね。テピリという楽器は、民族器楽で合奏するときには、低音でチャンセナプの引き立て役だったり、洋楽のチェロのように下支えする役割の楽器なんです。
朴昭暎テピリが前に出るような楽器でないということは私たちも知っていたけど、この音色が大好きで、これをきっかけにテピリの魅力を知ってもらえたのはよかった。おそらく多くの人はテピリの音色も知らなかったと思う。でも「オンジェ オディソナ」でたくさんの人が知ってくれたのはよかった。
金秀一昭暎と嬉仙の声と一緒になるといいねと言われます。
金淑子民族教育ならではの取り合わせで、こんな素敵な曲になるんですね。曲を作った後の活動は?
金嬉仙震災の翌年の三月に、朝青東北地方委員会の主催する文化公演があって、現地の朝青員ともコラボして一緒に演奏しました。その前日には福島のハッキョにも行って、児童たちの前で「オンジェ オディソナ」「チャブン ソン(つないだ手)」それ以外にも何曲か披露してきました。六月には青商会のウリ民族フォーラムin宮城の大きな舞台でもオープニングを飾らせてもらって。この時は、秀一は行けなかったんですが、昭暎と私で行ってきました。その年の九月に福島ハッキョが創立四〇周年だったんですが、その記念式典にも行って歌ってきました。去年五月にも福島ハッキョで総連六〇周年の行事があったので、そこにも行ってきました。
金秀一いろんな演目をするのですが、被災地の応援ソングになるとみんな涙しますね。歌っている嬉仙も感極まって喉を詰まらせたことがあります。
金嬉仙被災された同胞の前で初めて歌った時に、泣きながら聞いてくれているのを目の当たりにして我慢できなくなって…。歌い手としては失格なんですけれども、ちゃんと歌えなかったことがありました。
金淑子曲の広まりとともにテピリという楽器も知られるようになったのではないですか?
金秀一嬉仙と昭暎に比べればそれほどではないですが。でも本来は朝鮮の民謡、舞踊音楽を多く演奏していたのですが、こうして違うジャンルのメロディーを奏でるのも好きです。そんな機会を与えてくれた昭暎と嬉仙に感謝しています。
金淑子三人のグループの名前はあるんですか? 呼ばれるときはどんな名前で呼ばれるんですか?
朴昭暎正式なものはないです。
金秀一「オンジェ オディソナ」の三人って感じですかね。よく聞かれるのですが、特別なグループ名はないです。
金嬉仙三人でバンドを組んで活動しているように思われるんですが、そうではなくて、震災を機に集まって、その後結婚式に呼ばれたり、依頼があれば一緒に演奏することはありますが。
金淑子今後も一緒にやる予定は?
金秀一金嬉仙機会があればぜひ
金淑子三月にやったライブを定期的にやるという予定はない?
金秀一そこまで話は詰まっていないですね。
金嬉仙関西でやれたらいいね、みたいな話はしていますけど。まだ現実的には…。
平壌で通信学部に通う
金淑子三人は朝大音楽科の同級生ということですが
金嬉仙昭暎は初級部の頃から知っていました。私たちの頃は初級部から中央芸術競演大会があったので、独唱部門で一緒でした。昭暎は当時から競演大会で目立っていたので、一方的に知っていただけですが。
朴昭暎高校時代、嬉仙とはウリナラの通信教育で会いました。神奈川高級学部には歌のクラブが無かったんです。だからバレーボール部の傍ら三年間、通信教育で声楽を習いながら、歌を続けていました。一年から三年まで夏休みに一か月ずつ、通っていました。
金秀一僕は二年から、一年遅く通い始めました。長野初中級学校を卒業して東京高級学校に行ったんですが、そのころから楽器を始めたんです。それで二年から通信教育を受けました。課程が三年なので。大学一年まで通いました。
金淑子二人は高級部三年の時に卒業したんですか?
金嬉仙はい、私は大衆歌謡専攻でした。卒業公演もウリナラでしました。楽器部の生徒たちが伴奏してくれて、いい舞台で歌わせてもらいました。
朴昭暎私は民謡でした。最初にウリナラの先生たちの前で歌を歌って、その人の声に合わせて専攻や指導の先生が決まるのですが、私は民謡を習いたかったので、民謡を歌いました。卒業公演、今はもっと良くなっているそうです。私たちは音大の講堂で、途中で停電したりしていましたが、今は音大が立派に建て替えられて、舞台もさらに豪華になったようです。
金淑子全国のウリハッキョから集まるんですよね。何人くらい行っていたんですか?
金嬉仙私たちの学年が二一人でした。舞踊が九人、声楽が七人、楽器が五人。私たちの学年は多い方だと思います。ほかの学年は二十人足らずでしょうか。
朴昭暎今は万景峰号が出ないので費用が倍以上に跳ね上がってしまいました。当時は一二~三万円でしたが。課程が三年間なので、三年間通い続けなくてはいけません。だから実際のところ負担は大きくなっていますが、今でも通信教育は生徒たちみんなの憧れ・夢です。
金淑子みな同じ宿所? じゃあ、仲良くなりますね。
金嬉仙.専攻が同じだったり、学年が同じだと仲良くなります。私たちも同期生でお揃いのTシャツ作ったりしましたし。でもそれ以外の人たちと交流する暇がないんです。観光もほとんどでせずに、音大に通って習って、オフの日も一日中練習していました。
金淑子指導は音大の先生?
朴昭暎はい。私は通信があったから歌を続けられました。中級部の時は高級部に声楽部があったので、三年間民族器楽をやって、高級部になったら声楽をしようと思っていたのに、入学する前に廃部になってしまいました。それで道を閉ざされて、どうしようと思っていた時に通信学部の話を聞きました。民族器楽は競演大会の日程が声楽と重なるのでやめて、クラブをしないで通信学部に通いながら競演大会を目指そうと思ったんです。ところがクラブはしなければいけないと言われて、中央大会の日程が重ならない運動クラブのバレー部に入りました。歌をやりたいって思いと同じくらい、芸術競演大会に出たいという気持ちが大きかったです。
金淑子楽しかったですか?
金嬉仙楽しかった。通信に行ったことが、人生で大きかった。
ソルマジ(迎春公演)友達との再会
朴昭暎ソルマジ公演で一緒だったトンムと再会したりして。
金嬉仙私は中級部三年の時と高一の時に行きました。
朴昭暎私は初級部六年の時。
金淑子ソルマジ公演は印象に残っていますか?
金嬉仙ソルマジって、一回決まったことでも当たり前のように覆されて、例えば主人公が突然変わったり、独唱の子が急に変わったり、そういうことがしょっちゅうでした。「これじゃだめだ」と思ったらスパンと切り替える、それは子供でも容赦ないんです。私は二重唱の演目で行ったんですが、もう一人のトンムが、本当に歌がうまくて、独唱になって自分は降ろされるんじゃないかと一か月間びくびくしていました。最終的には二重唱で出られましたが。あれはどちらかというと日本に住む子どもたちが一緒に出ていることに意義があるプログラムだったと思います。
朴昭暎私たちは舞台の上にはいるんですが、舞台の下には大勢のオーケストラがいて、一緒に私たちの伴奏をしてくれて、より素敵な舞台にしてくれました。スポットライトを浴びるのは日本に住む私たちですが、祖国の子と一緒に演目を作り上げている喜びというか。子供ながらにそんなことを感じていました。
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