朴思柔と生徒の出会い描いたドキュメント:新しい時代に同胞つながるきっかけになれば
スポンサードリンク
朴敦史・「60万回のトライ」共同監督
1978年 京都市生まれ
小中高と大阪・神戸の公立学校に通う
2000年 京都精華大学 人文学部人文学科卒業
2010年 朴思柔とコマプレスを結成
2011年 記録映像「東日本大震災 東北朝鮮学校の記録 2011.3.15-3.20」(コマプレス)制作。「山形国際ドキュメンタリー映画祭2011」で上映
2013年 ドキュメンタリー映画「60万回のトライ」(コマプレス、60万回のトライ製作委員会)共同監督。翌年、日本と韓国で劇場公開
スポンサードリンク
「ボク・アツシ」は異質な存在
金淑子小学校からずっと日本の学校ですか?
朴敦史・大阪と神戸の小中高に通いました。小学校は大阪の北摂地域にあったのですが、大阪の中でも生野区などと違い同胞数が少なく、同胞の方と出会う機会はほとんどなかったです。僕は幼稚園の頃から本名で通っていましたが、当時、本名で日本の学校に通っている子どもはあまりいなかったのではないかと思います。それで余計に接点がなかったのです。
金ご両親は二世ですか?
朴はい。
金二世で、子どもを本名で日本の学校に通わせたというのは、民族心の強い方なのですね。
朴両親ともウリハッキョには通っていないですし、ウリハッキョに子どもを送ろうということも考えていなかったようですが、在日朝鮮人であることを隠すことはないと考えたのか、そういう環境で生きさせるためにそうしたのか。
金ボクさんだったのですか?
朴その頃はボク・アツシでした。「ボク君」とか、「あっちゃん」とか呼ばれていました。
金通名は?
朴朴で通していたと思うのですが、子どもの頃のことなので、あまり定かではありません。僕自身は使っていませんでした。
金ご両親から在日朝鮮人であることについて何か言われていたことがありますか?
朴こういうものだと言われた記憶はありません。子供なりに考えざるを得ない状況になったり、嫌なことがあったりして話した時に、そういうことについて話したのではないでしょうか?隠すことはないと受け止めるようになりました。
金嫌なことってどういうことがありました?
朴子どもの頃は転校が多くて、三つの小学校に通いました。中学校も二つ行きました。新しい学校に行くと、そのたびに自己紹介をしなくてはならず、ただでさえ恥ずかしくて嫌なのですけど、日本の子たちの前で「朴敦史です」と名乗るのがなにより嫌でした。自分を知らない子たちばかりの環境に行って、そこがどんなところかわからない不安の上に「朴って誰?」「何?」っていう。通名とか、日本の名前で過ごさせてほしいと親にお願いしたことがあるということを、最近親から聞いて思い出したのですけれど。
金自分にとって在日朝鮮人というのは?
朴今どう考えるのかというのと、十年、二十年前や、子どもの頃では、同じではないですよね。大人になってウリハッキョ(朝鮮学校)のハッセン(生徒)と出会って、自分の同じ年代の頃と比較することで、はっきり認識できるようになってきたのですけど。僕の場合は大勢の中で異質な存在だというところから出発したと思います。それはやはり、負担で嫌なことだったかもしれません。
金あからさまな差別はなかったのですか? いじめとか。
朴まあ、一通りはやはりありますよ。名前をもじって囃し立てられたり、けんかのような雰囲気になってきたら、相手の口から「韓国人」というような言葉が飛び出したり、知らない上級生の子たちからすれ違いざまに「北朝鮮に帰れ」って言われたり。
当時(一九八〇年代後半~九〇年代前半)は韓国との関係もよくなかったじゃないですか。だからみんな「韓国人」と言っていたのです、いじめる言葉を投げつける時に。今は「朝鮮人」と言いますが、当時は「韓国人」ということで線を引いていたのではないかなと思います。
金全斗煥大統領や盧泰愚大統領が日本に来たり、ソウルオリンピックがあったりして、ニュースで韓国が取り上げられることが多い時期でしたね。
朴在日同胞の置かれている状況は、南北の関係とともに少しずつ変化して行って、韓流のようなことも起こるけれど、底辺を流れている朝鮮人への漠然とした恐怖感とか、そういったものはずっと続いているなと思います。子どもの頃は「韓国人」と言われることが嫌でした。
金私は朴さんより前の世代ですが、私たちの世代で日本の学校に通っていた在日朝鮮人は、貧しくて学べなかった一世のイメージを払しょくしたいという思いから植民地時代の「朝鮮」という言葉を毛嫌いして、新しいイメージの「韓国」という言葉を使っていた人が多かったように思います。韓流後はもちろんそうだし。「韓国」という言葉が多用されたのは、そういう背景もあるのかもしれません。在日朝鮮人に関する研究でも、朝鮮と呼ばれた時代に日本に渡ってきた人たちの研究なので、「在日朝鮮人」と表記しようという人たちが多いのですが、反発もあるようです。
朴言葉のイメージにある先代の人たちの生活があまりにも過酷だったので、二世の方たちが、両親のサトゥリ(方言)混じりのウリマルをすごく嫌がったというのを聞いたことがあります。大きくなって歴史なんかを勉強して「朝鮮」とのつながりがわかった時に、初めてそれがひっくり返ったと。二世の方たちにはそういう葛藤があったのだと思います。
金一緒に暮らしながら一世は朝鮮語しか話せなくて、二世は日本語しか話せないというのは、二世がいかに一世の文化を拒絶したのかということだと思います。聞き取ることはできるというのは、生活の中のあうんの呼吸のことであって、文化の継承ではない。次世代が一世の文化を尊重しようと思えるような環境なら、片言でも話せたのではないかと思うのです。
朴在日同胞の中の葛藤も確かにあったのでしょうね。今もあるかもしれません。
金あると思います。北朝鮮がこれほどバッシングされている状況では。朴さんは三世の世代になるわけですが、朴さんには在日朝鮮人に対する「マイナー」なイメージはなかったのですか?
朴僕自身は、子どもの頃のことであまり覚えていなくて。でも何か違うと思っていました。ハンメ、ハルベは韓国から来た人たちでウリマル(朝鮮語)を話している。当時はウリマルという言葉も知りませんでしたけれど、そういうつながりは意識していました。日本の子どもたちには日本人のおじいさん、おばあさんがいるけれど、自分はあのハンメ、ハルベのつながりでここにいるのだと。小学校高学年から中学にかけて、そのことははっきりイメージしていたと思います。親も、隠すことはないということを、姿勢として生活の中で見せているので。特別な家庭教育はありませんでしたが、「マイナー」というよりは「異質」であって、卑下することはないのだと強く思える期間だったのだと思います。
金卑下してしまいそうなことだから、卑下することはないのだと自分に言い聞かせていたということですよね。
朴ただ、他の在日朝鮮人を知らないので、自分をいわゆるマイノリティというマイナーな存在だと思っていたのかどうかはわからないですね。ある意味、家族の中で関係的には閉じていたところがあるかもしれないです。同胞たちとの付き合いもなかったので、ネガティブなイメージすら持ちづらかったのではないかと思います。例えば一世を生活の中で直接見ればその貧しさを卑下するというのはあったかもしれませんが、それが無かったから。ハルモニ、ハルベとは離れて暮らしていたけれど、好きな存在だったので。だからそこまでネガティブかというとそうでもなくて、拒否するほどではなかったのですよね。でもからかわれたりするのは嫌だというような受け止め方だったと思います。
スポンサードリンク