私の静岡朝鮮初中級物語⑥
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もくじ
静岡チョジュンのはじまり
1967年度・下
校長先生の「思想総括」
新校舎の竣工式は、七月一日に行 なわれます。その一か月前、中央で聡聯第八次全体大会がありました。大会では、スリョンニム(金日成主席)の思想体系をしっかり確立する方針が決まり、大会を機にスリョンニムの党服を着た新しい肖像画を普及させる事になりました。
竣工式は、大会直後の行事として、中央の方針を知らしめる重要な場です。その日は、スリョンニムの新しい肖像画をお披露目する場でもあったのです。そのため中央は大会用の大きな肖像画を優先して学校に送って来て、その肖像画は竣工式まで校長先生が大事に保管管理する事になりました。
ようやく新校舎が建ち、古い校舎からの引越しが始まりました。
この日をどんなに待ちわびたことか。先生も、子供たちも踊り出すかのようにウキウキして、鼻歌も出て喜びの歓声が響きわたります。
運動場に竣工式の舞台も出来上がり看板も取り付け、式典の準備は、ほぼ整いました。後は、スリョンニムの新しい肖像画をお迎えするだけです。ところが、大事に保管したはずの肖像画がどこにも見あたりません。さほど広くも無い学校なので、どこに隠れてもすぐに出て来るだろうと思ったのですが、どうしても見つかりません。校長先生が保管したと言う場所は、もう数十回探してみました。でも、何度見ても無いのです。なにかキツネにでもつままれたようでした。とうとう校長先生は「もう、これ以上保管した場所を思い出せない」と、頭を抱えこんでしまいました。こうして竣工式では、中央が準備したスリョンニムの肖像画をかざる事ができず、いままでの古い肖像画で式を行なう事になってしまったのです。
時期がちょうど、八全大会の直後だと言う事もあり、これは重大な問題になってしまいました。このため校長先生は、竣工式の後、数日間集中的に「思想総括」をさせられました。顔色が黒く変色し、あれほど気落ちした李舜行先生を見た事がありません。「総括」で「죽을 죄를 졌습니다」(死に値する罪を犯しました)と言った言葉は、今だに忘れる事は出来ません。
「죽을 죄」と言ったその台詞は、いまでこそ韓ドラの時代劇で王様の前で罪を犯した臣下がよく使い聞きなれていますが、当時の私は校長先生の口から簡単に「死」なんて言葉が出てきたのでびっくりしました。「肖像画を紛失したぐらいでなんと大げさに…」と思っていたのです。
ところが、校長先生は口先ではなく本心で反省し、厳しい批判を深刻に受け止めていました。私はふだんとは違う、校長先生のその神妙な態度から事の重大さを悟りました。これは単に肖像画をどうこうしたと言うの問題ではなく、日ごろからスリョンニムをどのように思い、どのように敬って来たかと言うスリョンニムに対する観点と態度の問題なのです。
過ちは校長先生が犯しましたが、私たちは校長先生の思想総括を機に、自分たちの思想もかえりみて、今までの姿勢を改める事になりました。
校長先生の思想総括が学校内にスリョンニムの思想体系をしっかりと確立する良いきっかけになったのです。
新校舎竣工
竣工式は、聡聯中央韓徳銖議長をお迎えし、大々的に行なわれました。学校に同胞たちがつぎつぎ押し寄せ、運動場がいっぱいになりました。静岡県内でこれほど多くのトンポたちが集まった事はありません。
竣工式の会場は、大きな花輪に囲まれ、晴れやかな雰囲気に包まれています。
韓徳銖議長も、この日ばかりは嬉しさが溢れて、テープカットをする時も、教室を巡廻する時も、また玄関先の植え込みにあけぼの杉の記念植樹をする時も終始にこやかでごきげんでした。
新校舎は、鉄筋三階建てです。打ちっぱなしのコンクリート肌がむき出しで、どっしりと重みがある建物です。形も他の学校とはチョット違います。私が知っている校舎と言うのは、多くがただマッチ箱を立ててだけの単純なもので、玄関もないのですが、静岡チョジュンの新校舎は階段とトイレの部分を箱型の外に付けた形で個性があってカッコがいいのです。教室は、幅四間、奥行き四間と広く取り、縦横六列ずつで三六席の机を並べられます。これなら、学生数が増えても充分収容出来ます。
一階には広い玄関があって運動場に抜ける通路にもなっています。玄関の左側は一つの部屋を半分にくぎって校長室と教育会室にして、玄関をまたいだ右側は教員室です。そして、二つの教室を中二と中三が使いました。二階には、四つの教室と小さいけれど少年団室までありました。一つだけは廊下を足した分ほどの広い教室があって、人数が一番多い中一が入り、後の教室は初級部一、二、三の低学年が入りました。三階の教室には、初級部四、五、六年生が入り、大きな一部屋は特別にあつらえて「金日成元帥研究室」にしました。
屋上もありましたが、危険なので出入りは禁じていました。屋上からは、遠く太平洋につながる広い海が見え、耳をすませば波の音も聞こえます。
その頃は、教室を確保するのが精一杯で、音楽室と理科室まで考えが及びませんでした。それでも、当時の学校としては素晴らしい建物で、とても誇らしく満足出来る校舎です。
台風に遭った少年団キャンプ
李舜行校長先生はカンパニア事業が大好きです。少年団キャンプも指導員をそっちのけにし、率先して準備します。キャンプ地も校長先生自ら探し出し、静岡県の最南端、御前崎岬に決めました。ここは映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台にもなった灯台がある有名な所です。景色がよく、海もきれいで広い砂浜があって、とてもいい所なのですが、なんせここはキャンプ地ではないので、水場がなくトイレもないのです。トイレは、砂地に穴を掘って板を渡し、周りを幕で覆いなんとかそれらしく出来たのですが、水場が遠くて大変でした。多少不便はありますが、これもキャンプの一つの形かも知れません。やって出来なくもないです。
学校から持ってきた行事用の大きな天幕をデーンと張り本部にして、その上には共和国の旗をどうどうとなびかせました。そして天幕の右側に女子、左側に男子のテントをきれいに並べて設置して、まるで海へ向かって戦でも始めようかと言う「鶴翼の陣形」をしきました。
海は太平洋、波が高いです。しかもこの海は遠浅ではなく急に深くなる所もあって危険です。海水浴には細心の注意を払わなくてはなりません。男の先生が先に海に入り、胸の高さにロープを張って、水泳区域を決めしっかり監視します。男の子たちは深みに行きたがりますが、先生たちが押し返し、潜水も禁止しました。そして三〇分毎に笛を吹き、みんなを陸にあげて人員点検をします。子供たちには少し窮屈な海水浴ですが、安全のためには仕方ありません。
それでもこの子たちは、一日中飽きずに水遊びをします。海からあがっても砂浜にお城を作ったり、砂山にトンネルを掘ったりして、楽しそうです。もうみんなの顔は日に焼けて真っ黒になりました。夜はキャンプファイヤーを焚いて、遅くまでフォークダンスをしました。少々の不便はありましたが、生徒たちは充分満足しています。
キャンプ場に教育会の理事何人かが遊びにきたと言うか偵察しに来たと言うか、ひょっこり訪ねてきました。水遊びもして持ってきたスイカも食べて、結構楽しくすごしましたが、帰り際に「ここはキャンプする所ではない。台風が来るそうだし早く切り上げた方がいい。」などと、校長先生にはチョット耳の痛い言葉を残して行きました。
キャンプ三日目、夕飯を済ませたころから風が強くなり、台風の影響が徐々に出始めました。子供たちを早く安全な場所に移動させなくてはなりません。避難場所を確保するため、何軒かの民宿と海の家と交渉して、なんとか借りる事が出来たので、生徒たちを急いで避難させました。
ひとまずこれで安心です。ところが校長先生には、先日理事たちが帰り際に残した言葉が頭に引っかかっています。このままキャンプを打ち切ったのでは、また理事たちに何を言われるか知れたものではない。絶対このキャンプを失敗に終わらせてはならないのです。それで、校長先生の指示で宿舎別に生徒たちの討論会を開く事にしました。討論の題目は「このキャンプで学んだ事、良かった事」。つまりは子供たちの口からこのキャンプが「良かった。成功だった」と言わせたいのです。
先生たちは、手分けして討論を指導しました。私が受持った宿舎では、あらかじめ何人かに討論の方向性示して先陣を切らせました。すると、次に発言する子もそれに倣い、討論会は意図通りに進行されました。もう生徒たちだけでも大丈夫です。私は一緒に討論を指導した庾麗順先生に「討論は生徒たちに任せて部屋を出ましょう」言う意味で「海辺でも散歩しましょうか?」と声をかけました。すると、その言葉をどう思ったのか、恥じらうように「いやですョ。人に見られたらどうするんですか…」と言って背を向けたのです。アチャー。なんか思い違いしてる。
私はすぐにそんな意味で言ったんじゃないよと釈明しました。同窓生だという気安さがあり、たぶん私の言い方が悪かったかも知れません。庾麗順先生が怒り出しました。私はなんとか誤解を解こうと懸命に弁解したのですが、それがかえって火に油を注いでしまいました。庾先生も同窓の私に遠慮なんてしません。どんどん言葉使いが荒くなって「先に誘っておいてナンダその言い草はーふざけるなー」と目を吊り上げすごみました。
もうこうなっては、何を言ってもむだです。声も大きくなり、生徒たちにも聞こえています。私が謝れば済む事なのですが、それは絶対いやでした。かと言って、庾先生を言い負かす事も出来ません。このまま言い争ってもラチがあかず、互いに傷つけあうのもバカみたいです。私は「もうやめよう」と言って、その場を立ち去ろうとしました。しかし、庾先生の怒りはまだ収まっていません。
「まて、ジュウ(柱宇)! にげるかッ!」と、罵声を放ち追っかけて来ました。でも、庾先生とのこんな立ち回りは初めてではありません。そこは気心知れた同窓生同士、次の日には二人とも昨日の事はケロッと忘れていました。
학생인입사업(学生引入事業)
新しい校舎も建ち、これからは生徒の数を増やさなくてはなりません。その為の余白は、東部地域―伊豆半島にあります。伊豆半島は広く、未だに組織の手が届いてない所が多いのです。そこには日本学校に通う朝鮮の子供たちがたくさんいます。その未開の地を開発すると言う名目で、伊豆半島へ向け、大々的な학생인입사업(学生引入事業)を展開する事になりました。
伊豆へ行くとなると、学校からの日帰りは無理だし、行ったり来たりもできませんから一度行けば、三~四日は泊り込みで出歩かなくてはなりません。仕事は大変ですが、チョット旅行気分も味わえて、楽しみも多いのです。
校長先生はこういう「おいしい仕事」には目が無いので、すぐに飛びつき早速、分会長の李誠弼先生を連れて、伊豆へと出発したのです。しかし、校長先生たちの학생인입사업は予定の四日を過ぎ一週間にまで延びました。よっぽど楽しかったのでしょう。
校長先生たちが帰って来てからは、「募集事業」の話より熱川の温泉は最高だったとか、西伊豆の海はきれいだとか、何処何処の家で食べたアワビがおいしかったとか、そんな話ばかりでした。しまいには「松崎に済州道出身の器量のいい娘さんが居たのだが、同郷の柱宇先生にどうかな?」なんて話までするので、私は耳をふさいでしまいました。いったい伊豆へは何しに行ったのだ。仕事しに行ったのではないのか! 私は 不信感を抱いてしまいました。
ところが次の年、その東部地域から多くの生徒たちが入って来ました。校長先生たちは、伊豆半島にただ遊びに行っていたのではなかったのです。校長先生の巧みな話術と押しの強さで、日本学校に通わせる子供の父母をねばり強く説得し多くの人から「入学願書」をいただいたのです。
よく話を聞くと、伊豆のトンポたちは皆人が良く、遠くからはるばる訪ねてきたウリハッキョの先生をあたたかく迎え、貧しいながらも精一杯のもてなしてくれ、かえって申し訳なかったと言っていました。楽しんでばかりでは無かったようです。
東部地域から来た子たちは、ほとんどが寄宿生です。もう寮生だけでも一〇〇人は越えました。昔の仮校舎を改装した寄宿舎も満杯です。
全校生もすでに二五〇名を超えました。校長先生は三〇〇名を目指すといいます。すると、伊豆半島への「引入事業」は続く事になります。そしたらこんどは私が行く番です。
「決起集会」と言う名の教員旅行
先生たちは忙しい合間を縫って、よくみんなで旅行へ出かけました。教員旅行と言うと、なにか気が引けるのか「궐기모임」(決起集会)なんて名目を付けて、遊びに行くというのをカモフラージュしていました。あの頃の旅行といえば、お金のかからない山登りが主流で、いたって健全です。校長先生も李誠弼先生も山が好きで、時間ができれば登山しました。
しかし、たまにはあったかーい温泉にどっぷり浸かり、風呂上りに冷たいビールでもキューと引っかけて、日ごろ溜まった疲れを取りたいナーなんて、思ったりしました。それで近場の温泉を探して見たのですが、県内ではほとんどが伊豆半島に集中していて、静岡市の近くには無いのです。それでも地図を広げ、よくよく探して見たらありました。安部川の上流、梅ヶ島と言う所に、温泉マークが付いているのを発見したのです。ここなら行けると思い、早速朝青教員たちで、一泊旅行を計画しました。静岡駅前から市営バスに乗り、安倍川に沿って北へ一時間ほど行くと、終点が梅ヶ島です。ここまで来ると、もう南アルプスの南端で、山深い秘境です。この先には舗装された道は無く、目の前には高い山がかぶさるように迫っています。こんな山奥に温 泉があるのです。しかし、ここには大きな旅館は無く、小さな民宿と療養所があるだけです。人にあまり知られていない秘湯と呼ぶにふさわしい温泉地なのです。泉質は重湯のようにぬるぬるして、なにか効能がありそうです。療養所があるくらいですからそうなのでしょう。
民宿は値段も安く、お金が無い私たちにはうってつけです。療養所は自炊も出来るので、長く湯治に来る人もいるようです。もしもの時にはここに身を隠し、湯治場としても使えそうです。
私たちは、この梅ヶ島を拠点として、登山もしましたし、また「決起集会」の場として、何度か使わせてもらいました。
「동무는 무디오(あなたは、にぶい)」
李誠弼先生と李星麗先生が不健全な関係だと言う噂が立ちました。だけど私は、そんな噂などぜんぜん信じませんでした。あの李誠弼先生にかぎって、そんな事は絶対ありえないと思ったからです。いつの日だったか、真夜中に参考書を取りに教員室に入り、電気をつけたら、あの二人の先生が向かい合って座っていました。私はびっくりして、何か変だなとは感じましたが、そんな光景を見ても、疑問には思いませんでした。李誠弼先生が暗い部屋で仮眠を取る姿を何度も見て来たからです。なので、その日も「なんですか、暗いのに電気ぐらい点けましょうよ。」と、言って何事も無かったように、参考書を持って教員室を出ました。
これに似た場面は、私だけではなく、他の誰かに見られたかも知れません。だから変な噂が立つのです。小さな都市なので、二人が喫茶店でコーヒーを飲んでも、すぐ誰かに見られます。教員と言うのは聖職です。特に静岡では、その傾向が強いように思います。若い男と女の先生が二人で手をつなぎ歩いていたら、不謹慎に映り、悪い噂が出るのは当然です。二人の噂は、羽をつけて飛んで行き、ある事ない事いろいろ付け足して、雪だるまのようにドンドン膨らんでいきました。もう何がほんとで何がうそで、また関係はどこまで進んでいるのか誰にもわかりません。そうなっては誰の言葉も信用できなくなります。
とうとう中央から「視学」という偉い先生までもが真実を確かめるために、出向いて来られました。「視学」とは地方の学校に中央の教育方針を守らせるよう監督指導する先生の事です。その先生が真相を明かすため教員を一人ずつ呼んで、個別談話をします。まず最初に呼ばれたのが私でした。李誠弼先生と一番近くで生活していて、誰よりも二人の関係を知っているからです。しかし、話を始めてみると、どうも私の答えが気に入らないようです。誰もが知っていることまで知らないと言うし、李誠弼先生はそんな人では無いと言い張るし、どう見ても李先生をかばっているとしか思えないのです。「視学」の先生は、私が何かを隠していると思い、「正直に答えなさい。」と執拗に追求してきました。それでも私は「本当に何もありません。」と言いました。すると「視学」の先生はメガネを掛け直して、私の目を射るようにジッと見つめました。私の目から嘘か本当かを探っているのです。そして、私が嘘をついていないと察したのかメガネをはずし座りなおして私に一言いいました。「疑走澗 巷巨神(あなたは、にぶい。)」
李誠弼先生と李星麗先生がこんな「騒動」を起こしたので、静岡チュジュンには居られなくなりました。次の年には東京へ移動になり、李誠弼先生は第一チョジュンに赴任しました。その後、二人は東京で結婚し、幸せな家庭を築きました。
李誠弼先生とは、一九七五年に第三次教員訪問団として共に祖国を訪問し、引き続き行なわれた中央学院での幹部教員講習にも、一緒に参加しました。その後、東北に職場が移っても夫婦で民族教育の発展に尽くし、李星麗先生は「模範教員」として全国に知られる先生になりました。
あの二人の先生があんな問題を起こさず、静岡に残っていたら静岡チュジュンの教育事業はもっと発展した筈です。そう思うと、少しおしい気がします。(以下次号)34
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朝鮮学校近くに住んでいましたが、静岡の朝鮮学校懐かしいですね。
自分は中島小学校に通っていたので、朝鮮が校には数回しか行ったことありませんが。
運動会の日に、日本人の友人を数人誘って人であふれかえったグラウンドに遊びに行ったことを覚えています。そんな俺も三十代。懐かしや