朝青活動を日常化させたい 今は受け皿づくりの段階(朝青茨城・金才皓さん)
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在日本朝鮮青年同盟 茨城県本部委員長
金才皓さん
プロフィール
- 1990年7月 生まれ
- 2009年3月 茨城朝鮮初中高級学校卒
- 2013年3月 朝鮮大学校 政治経済学部卒
- 2015年3月 同 研究院 修了
- 2015年4月 朝青茨城県本部 指導員、組織部長
- 2018年7月から現職
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同胞の権利守る弁護士目指して
金淑子今年何年目ですか?
金才皓委員長茨城に来て五年目です。その前に二年間、朝鮮大学校の研究院にいました。
金研究院ではどんな研究をしていたのですか?
金委員長法律を専攻していました。
金弁護士を目指していたのですか?
金委員長はい、弁護士になろうと思って政治経済学部の法律学科に入学したのですが、三年生の頃から朝青活動家になりたいと思い始めて。でも弁護士を目指して入学したので、大学四年間は一生懸命勉強して、法科大学院に合格した上で両親に了解を得ようと思ったのですが、ダメでした。
金どっちがだめだったのですか?
金委員長大学院は合格したのですが、両親の承諾を得られませんでした。せっかく大学院にも合格したのに、弁護士を目指しなさいといわれたのですが、そのときすでに入学手続きの書類もすべて捨てた後でした。だから活動家にさせてくれと強く主張したのですが、受け入れてもらえず、大学の判断も研究院ということになり、二年間、予備試験と言って法科大学院を卒業しないで合格するコースを目指しました。その頃は、予備試験制度ができたばかりで、このコースで司法試験に合格した朝大卒業生がまだいなかったので。
金じゃあ、活動家になる希望を持ちながら、一方でチャレンジしていたのですね。
金委員長はい。当時は前人未到の道だったので。そのあと、大学院卒業前に予備試験で合格した朝大卒業生は多数出ています。朝鮮大学校法律学科卒業生たちは本当に優秀です。
金なぜ朝青活動家になりたいと思ったのですか?
金委員長実家が学校から徒歩二分くらいの距離にあって、両親が仕事で遅く帰ってくるので、いつも夜遅くまで学校に残っていました。すると朝青サッカーやアボジサッカー、オモニバレーボールや歌の練習に同胞たちが集まってきて、そんな大人たちの姿を端で見ていると一緒に遊んでくれたり、参加させてくれたり、ご飯食べに連れて行ってくれたりして。そんな初中高級部生活を送ったので、自分は同胞とウリハッキョに育てられたという強い思いがあって、同胞社会のために何か役立ちたいと考えていました。父親には、中学からでも高校からでも日本の学校に行きなさいと言われていましたし、私には姉三人いるのですが皆、旅行や貿易、通訳・翻訳などの仕事をしているので、目が海外に向いていて、留学に行けばという意見もありました。しかし自分がウリハッキョを大好きで、どうにかこうにか説得の末に朝高に通わせてもらいました。それで朝高に通い学ぶなかで、高校三年生の頃には同胞社会に貢献する弁護士になろうと思いました。
説得の末ようやく朝高に進んだものの、朝大などとんでもないという雰囲気でした。アボジに、法の勉強をするなら中央大の法律学部を受けなさいと言われて、受験して合格しました。両親にも報告し、入学手続きは全部自分でやるからと印鑑をあずかりました。しばらくして入学手続きの受付期間が過ぎた頃に、実は中央大の手続きはしていなくて、朝大の法律学科を受験して合格した、朝大の法律学科は実績もあるし、自分はそこに進学したいと伝えました。人生で一番ひどく叱られましたが、そうして朝大に進学できることになりました。
朝大に進学し勉学に励む中で、また弁護士になって同胞社会のために活躍する先輩たちを見ながら、弁護士という職業が同胞社会のためにどれだけ必要で重要な職業なのかを強く感じる一方で、同胞のために使える時間が二四時間のうちどれくらいだろうと、自分の生活の二四時間を同胞社会のために使いたいという気持ちが強くなりました。そのような葛藤のなかで本当に弁護士という職業が同胞社会に必要であり、両親も親族もそれを応援してくれているが、自分は朝青専従活動家になりたいという結論に達しました。
金ご両親は肩透かしばかり食わされている感じですね。
金委員長はい、だから活動家になりたいと言ったときは、まさかそんなことを言うとは思っていなかったと驚いていました。朝大まではどうしようもなくて許したけれど、活動家はないだろうと。本当にやめてくれと。
今日のぼくがあるのは同胞たちのおかげ
金そんなに同胞社会がいいのですか?
金委員長今日のぼくがあるのは本当に同胞たちのおかげなのです。茨城同胞社会は本当に温かいです。それに中学二年の時に迎春公演で、高級部二年の時に代表団で行ったウリナラで祖国の愛を実感したというのもあります。
金特に印象に残っていることは?
金委員長初級部四年の頃から朝青サッカー部の練習に一緒に参加させてもらっていたのですが、終わるのが九時頃で、それから「一緒に焼き肉食べに行くぞ!」と連れて行ってくれて、一一時頃に家に帰ることもたびたびありました。今、朝青委員長の立場ではそういうことはだめだと止めるのでしょうが、当時はそれがとてもうれしかったです。
中学二年の時に、全国のウリハッキョ生徒の選抜チームが、グァムで開かれた国際大会に朝鮮の国家代表として出ることになって、その代表にぼくが選ばれたのですが、それを聞いた朝青サッカー部とアボジサッカー部のメンバーたちが喜んでくれて、二〇人ほど集まって焼き肉屋を貸し切りにしてお祝いパーティーを開いてくれました。中級部二年の自分を中心にして、みんな「よかった!」「おめでとう!」と言いながら焼き肉を食べて、飲んで、煙草を吸って(笑い)。車で通りかかった同胞が「ご飯食べたか?」と声をかけてくれて、食事に連れて行ってもらったことも一度や二度ではありません。
初級部や中級部の頃の担任の先生は両親の帰りが遅いことを知っていて、夕方六時くらいにハッキョでぼくを見つけると、食事に連れて行ってくれたり、勉強を教えてくれたり、遊んでくれたり。高級部の先輩たちも夕方、ハッキョでぼくを見つけると一緒にサッカーしたりしてよく相手をしてくれました。ハッキョの生活を通じて、いろんなことを任せてくれる先生たちの信頼や期待も感じていました。
本当に同胞がいなければ考えられない日々でした。おかげで両親の帰りが遅くても、不安になったり寂しかったりすることはありませんでした。両親が自分のことを心配して、とても大切に思ってくれていることを教えてくれたのも、同胞たちでした。
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