幼なじみとの再会かなわず
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金淑子・編集部
金日成主席が亡くなって二五年が経った。
訃報を聞いたのは「朝鮮時報」(朝鮮新報社が日本人を対象に出していた新聞)の編集室だった。テレビから流れる「金日成主席死亡」の報に、「いつものでっち上げだ!」「スリョンニムが亡くなるはずがない!」という声があがった。しかしこの時は何かが違った。言葉を失って呆然とする者、うつむいて顔を覆う者、大声で泣き叫ぶ者もいた。
中央追悼式の日は暑かった。会場の東京北区の朝鮮文化会館周辺は終日、喪服姿の同胞や日本の人々で埋め尽くされた。三万人が訪れたと言う話もあった。うだる暑さの中、整理員の指示にしたがって運動場から会館前へ、そして会館の中へ黙々と移動する参列者たち。どれくらい待っただろうか? 大きな遺影の前にたどり着いて、ようやく献花できるかと思った時だった。前列の車いすのハルモニが「スリョンニム、なんで先に逝ったの!」と叫んで泣き崩れた。瞬間、耐えていた涙があふれた。取材先で会うハルモニたちはよく冗談交じりに「スリョンニム、いい男なのよ」と言って笑った。彼女たちにとって「スリョンニム」は、恐れ多い偉人でもあり、身近なアイドルのような存在でもあったのだろう。
その数日後、私は会社に休暇をもらって、予定通りソウルに住む親戚とニューヨークで落ち合った。在米韓国人の家庭を転転としながら十日ほど各地を回った。空港に迎えに来てくれた人に、「韓国人を捜していたから見つからなかったのね。日本人を捜さなきゃいけなかった」と言われたのは、ちょっとショックだった。「ウルトラマンと魔法使いサリーちゃんを見て育ったものな」と心の中で納得したのを覚えている。
▽韓国で官僚を務めたエリートが生活のために市場の青果店で休みなく働いている姿を見て感じる韓国人としての屈辱、▽片言英語で、子どもに接する暇もないほど働き詰めの一世と、韓国語が話せず親の韓国文化を理解できない二世の深刻な乖離、▽アジア人への人種差別に悩む若い世代、▽客を迎えて忙しく立ち回る嫁など再現される家長文化…在日朝鮮人と重なる姿も多かった。一方で就学や就職の話を聞きながら、国や自治体の制度が差別を助長するのか、是正するのかによって、社会が目指す方向が変わるのだということも実感した。
あちこちでウリナラの話が出た。九〇年代初め、南北関係が融和に向かう中で韓国の財閥が相次いでウリナラを訪問した。アメリカを通過して北の故郷を訪ねる北出身者も多かった。残念なことに三〇数年ぶりの再会は、美談よりも悲劇が多かった。
ロサンゼルスで会ったシスターの父は、プロテスタントの牧師だった。韓国では、同じキリスト教でありながらカトリックとプロテスタントの仲が良くない。彼女は父の猛反対を押し切ってシスターになった話を、おもしろおかしく話してくれた。そして話の最後に「そんなアボジが最近ロサンゼルスに来たの。死ぬ前に北の故郷に行って、ソンジュに一言言わなくてはって。そんな矢先にソンジュが亡くなっちゃったのよね」と。「え!? ソンジュ!?」。そう、ソンジュ(成柱)は金日成主席の幼名である。キリスト教の名家で育った二人は、幼なじみだというのだ。朝鮮新報社の記者であることを明らかにしていなかった私は、心の中でアゴが外れそうだった。
金日成主席が亡くなったのは、金泳三大統領との初の首脳会談の準備中だった。南北関係改善の余韻がアメリカの同胞社会に漂っていた。
ところが南の金泳三大統領は、金日成主席の葬儀に政府の慰問団はもちろん民間の慰問団派遣も禁じた。それどころか関係改善を求める人々に対して徹底弾圧を加えた。アメリカで発行されていた韓国紙には連日「チュサ(チュチェ思想)派狩り」の文字が躍っていた。
十日ほどのアメリカ旅行で私は、英語ではなく韓国語がずいぶん上達した。韓国の歌謡「エモ(哀慕)」や「チルガプサン(七甲山)」を覚えたのもこの期間だった。アメリカの家の客間はバストイレ付きで広々としていて、同胞たちはどこでも温かくもてなしてくれた。
戻ってきた東京は蒸し暑かった。1DKの自宅ドアを開けた瞬間「暑さで部屋が縮んだ」と思った。
あれから二五年が経った。56
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