発掘資料:中央師範学校訪問記
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整理者・1954年12月14日付の「解放新聞」からの転載。原題は「中央師範学校・訪問記」「師範学校 事業物質的に保障しよう」、「生活費滞納金28万円」、「食事にすら困難に瀕している学生たち」。訳は整理者による。
*1955年当時の物価:大卒の初任給1万1千円、高卒・6千6百円 はがき・5円、電車の初乗り・10円、新聞の購読料・330円、ビール・125円
未来の祖国を担う在日朝鮮人青少年を教育教養する働き手を養成する中央朝鮮師範学校(千葉県船橋)は、この間数々の隘路と難関を退け、すでに今年三月には五〇余名の第一期生を教育戦線に送り出している。
しかし、第二期卒業を数か月後に控え、中央師範学校は経済的に非常に差し迫った状況だ―との話を聞いて、記者は年末差し迫った九日、同校を訪れた。
同胞の血と汗の結晶で増築された寄宿舎と校舎が雨の中たたずんでいた。記者が校門に入ると、どこかの教室から元気な歌声、オルガンの音が聞こえてきた。今、同校の学生数は八九名(女子学生二八名)、そのうち通学生が五名、その他は九州から北海道に至る遠方からの学生なので、寄宿舎生活を送っている。学生たちは、様々な困難の中でも共和国公民としての自覚を高め、顕著な思想的、政治的発展を育んでいる。講師一六名(朝鮮人一二名、日本人四名)、専任講師四名の陣営では若干不足を感じているという。一方、学生たちは平和運動に献身しており、日本学校と各労組と共に「歌声の集い」、「懇談会」、「スクエアーダンス」などを数多く催し、交流する過程で相互発展をもたらしている。
その他、国語補習班、ロシア語班、舞踊班、学習班、合唱サークルなど、専門部があり、これらを中心に「講演会」、「師範の歌の会」などを催している。
しかし、これらにおいて難題が提起 されている。九月以降生活費(学費を含め一人当たり五千円)が一か月平均三〇パーセントしか納金されておらず、現在滞納金は二八万円に達する。最近ではコメ、総菜、パン屋からつけで売れないと、全面的にボイコットされている。しかたなく店を替えてようやくやりくりしている状態だ。それで学父兄、県民、各地方、各機関に実情を訴えているが、いまだ対策を立てられないでいる。
記者は、ある先生の案内で、まず理数学科専門部の教室に立ち寄った。教室に入ると、冷気に身体が震えた。理科実験道具のいくつかが教室の隅に置かれているだけで、どうみても貧弱だ。こうした中でも、ましてこの日雨が降る初冬にもかかわらず、みなが素足で一生懸命講義に耳を傾けていた。
キム・スヒョン君―日本学校で教育を受けていたので、ウリマルを理解するのが難しいが、それが困難だとは思わない。
アン・ヨングン君―実験道具が足りなくて、大きな支障を来している。入学時は国語の実力がまったくなかったので、児童を教育することができるのか心配だったが、今は確信を持っている。
平和擁護委員会書記長―困難であればあるほど、敵と対決し闘わなければならず、共和国公民としての自覚を高めなければならない。そして講師と 教務陣営の強化が先決であると思う。
理数科教室から出た記者は、専門部門と本科予科室を訪れた。
この教室でも確信と希望に満ちた頼もしい顔が学習に熱中していた。
文科のピョン・ヘウォン君―滞納金が一万五千円にもなるが、これを解決するためにも全力を尽くし、民族教育に従事することを決意した。
本科のキム・グァンヨル君―ただ国語を学ぶという目的で入ったが、学ぶ過程で敵が誰であり、誰がわれわれを苦しめているのか知るようになった。
キム・サンジュ君―私も滞納金が二万円位あり、責任を感じ、トンムに知られないように四週間も昼食をとらなかったが、トンムたちにばれて、私が食べないと自分たちも食べないというので仕方なく…。
記者は、目頭が熱くなった。重い足取りで文科教室を出た。がらんとした食堂の前に数株の白菜と幾束の長ネギが冷たい雨に濡れていた。
大きな発展李珍珪校長談
困難な条件下で、多くの同胞の期待に報いるために全力を尽くしてきました。わずか六か月間しか学ぶことは出来ませんでしたが、共和国の公民としての自覚を高めることができ、理論的にも、実践的にも発展できたと思います。これは特に日本の講師の先生たちが高く評価しています。
入学時とは異なり、今すべての学生たちが教育戦線に従事することを固く決心しています。大衆に無条件貢献することを誓っているので、より一層同胞たちの物心両面の支援を要請します。
期成委員会の強化を尹徳混委員長談
師範学校がこのように経済的困難に瀕していることは、期成委員会自体の活動不足によるものだと、自己批判しています。期成委員会があるという言葉だけで、有名無実でした。師範学校は第一に、大衆的であるべきであり、したがって各県別に期成委員会が組織されなければなりません。同時に、今後各級機関がこれに対して一層関心を高め、特にPTA、教育部門担当者はこの問題を先決的に扱うべきであり、したがって期成委員会が機関化されてこそ解決すると思います。
教育者に支援を李大宇書記長談
予科、本科、専門部を合わせれば約二〇名の学生たちが三~四か月ずつ学費を出せずにおり、米屋、惣菜店、商店に多くの借金をしている。学生たちは数か月後の卒業期を控え、生活の大きな脅威のため勉強を思い通りにできないでいる。私たちは教育闘争の一環としてかれら教育者を支えるためにコメひと握り、数百円の金を集めかれらを支援しなければならない。この様な困難な学生は東京朝高とその他の学校でもたくさんいるが、多くの同胞たちがこれに対してより大きな関心と相互援助の精神を発揮することが何時にも増して求められている。55
ミニ解説 「中央朝鮮師範学校」の歩み
*「朝鮮大学新聞」3号(1959年1月1日付)に掲載された「朝鮮大学が歩んできた栄光の道」を参考に整理
1953年初・「朝鮮綜合大学」建設問題が提起されたが、「大学不必要論」によって頓挫。
1953年10月・在日朝鮮人PTA全国連合委と在日朝鮮人教育者中央委を中心に「中央朝鮮師範学校」を創立。東京第6朝鮮人初級学校(当時都立)の一部教室をかりて授業を始める。
*日本文部省と東京都教育委員会が退去を要求。拒むと、武装警官隊が襲撃し退去を強要。
*日本の労働者の協力を得て、産別会館の一室を教室にして続行。
1953年12月・学校閉鎖令で廃校になった、船橋朝聯小学校の教室を改修し移転。2階建て32室の寄宿舎を新築。
1955年4月・「朝鮮師範専門学校」として充実、3期にわたり250余名が卒業。
1955年9月・総連中央委員会第2次会議で「朝鮮大学」創設を決定し、建設委員会を組織。
1956年4月20日・2年制の「朝鮮大学校」。「朝鮮師範専門学校」の卒業生を2学年に編入。
*「朝鮮大学が歩んできた栄光の道」は、『朝鮮学校のある風景』36号の特集「創立60周年を迎える朝鮮大学校 開校と新学舎移転・その苦難と喜び」に、「深刻な教員不足解消のため『師範学校』を開設」(「師範新聞」1号)、「新学舎祝賀宴での韓徳銖初代学長の記念講演」などと共に掲載。
中央朝鮮師範学校の学生募集要項