KBSの「朝鮮学校」特集・憂慮される「視点」:北が支援し在日同胞が守ってきたウリハッキョ
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金明俊・モンダンヨンピル事務局長
*訳と見出し、写真、[ ]内は、編集部による。
KBS「南北の窓」で朝鮮学校問題を扱った。タイトルは「4.24企画」在日朝鮮人、そして朝鮮学校。これ自体が事実、大きな驚きだった。4.24教育闘争を具体的に指摘しているからだ。二〇〇二年から朝鮮学校にかかわってきた私の記憶に公共放送が4.24教育闘争を扱ったことは一度もないからだ。
映像を見ればわかるように、今回の映像は前回放映された「時事企画 窓」(KBS)の内容に少し手を加えたものだ。朝鮮籍の部分のチョ・ギョンフィ教授のインタビューと神奈川朝鮮学校の生徒の祖国訪問映像を除くと、ほぼ同じだ。お分かりかもしれないが「時事企画 窓」の記者が「南北の窓」に移動して、南北の窓で朝鮮学校をもう一度扱ったのだ。
前回「時事企画 窓」もそうだったが、やはり今回も少し引っかかる部分があった。朝鮮学校が少しずつ言論に紹介されるようになった今、一度指摘しておかないと、そのまま「定説」になってしまうのではないかと憂慮する部分があった。
もくじ
差別の根源は「北の援助」ではなく
日本社会の「在日朝鮮人への嫌悪」
気になるのは「朝鮮学校」を、どうにか「北[原文は北韓]」と結びつけないようにしようという制作陣の「視点」だ。ここには、依然「北」を「善と悪」という基準で「悪」と規定し、いわゆる「朝鮮学校は北と親密だから弾圧を受けている」という思考方式が存在する。ここ二十数年の事態(ミサイル危機、拉致問題など)はまだしも、一九五〇年代から弾圧されたというように描いているからだ。事実関係に基づいてわれわれの視点について改めて考えてみようと思う。これはあくまで個人の見解であり、すべての在日同胞の立場とは無関係だということをあらかじめ明らかにする。
結論からいうなら、朝鮮学校は創立初期から「弾圧と差別」の対象であったし、これは日本の長年にわたる「在日朝鮮人への嫌悪」が決定的原因であり、北と関連があるから差別を受けているというイメージでは根本的にこの問題を解決できない。
番組の冒頭、司会が原稿(構成作家の視角でしょう)を読む。
「朝鮮学校を日本にある北の学校だと思っている方が多いと思います」
「国語講習所が朝鮮学校の前身でした」
なるほど「朝鮮学校は北の学校ではない、同胞たちが自発的に国語講習所から始まった」と言いたいようだ。
また4.24教育闘争の部分で、「一九五〇年代に北の援助を受けて、日本国内の世論が悪くなり」と、さらに中間部分でもう一度「日本社会の一部で北と総連、朝鮮学校を一つに見る理由がまさにこの教育援助費と奨学金です」とナレーションが流れ、結局「朝鮮学校は北の学校ではない。同胞たちが自発的に作った国語講習所から始まった。ところが同胞が苦しいときに北から援助費が送ってきたため、日本では北と総連、朝鮮学校を一つに見ている。日本での世論悪化と差別の原因はここにある」と結論付けている。
このような結論が、朝鮮学校をよく知らない多くの韓国人にどのように伝わるのか、深く憂慮する。これは事実関係にも全くそぐわない、場合によっては危険な思考方式でもある。なぜならここには在日朝鮮人「自らの選択」が、そして日本社会の根深い「在日朝鮮人への嫌悪感」が抜け落ちているからだ。
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朝鮮学校建設の主体は
「北」を支持した人たち
朝鮮学校の母体が国語講習所だったことは事実だ。解放直後、同胞たちが自発的に建てたのも事実だ。しかしその主体たち、国語講習所を建てて維持し、それを朝鮮人学校という体系的な教育施設にした人々の大部分は、一九四八年に創立された南と北の両政府の「北」を支持した人たちだった。初期の朝鮮学校建設運動を力強く推進した「在日朝鮮人聯盟(朝聯)」の活動家たちは本来「北側政府」を支持し、朝鮮学校がその体系を築いていった頃から、その様相は明らかだった。
この頃(一九四〇年代後半)「日本共産党」の影響下にあった「朝聯」は、GHQと日本政府の弾圧の対象だった。冷戦という新たな局面で、すでに朝鮮半島の半分を失った米国の立場では、占領地域内の活動家たちが心血を注ぐ「朝鮮学校」をなくさなくてはならなかった。そんな流れを背景に起こったのが一九四八年4.24教育闘争だ(4・3抗争の歴史的背景と無関係ではない)。改めて北から送ってきた教育援助費という五〇年代の事件が「世論悪化」のきっかけではなく、すでに朝鮮学校はできた当初から占領者の目の上のたんこぶだったのだ。
では朝鮮学校が北の援助を受けた時期はどうだったのだろう? 日本社会の世論は、よくなかったのだろうか? これは事実に反する。実際に五七年の教育援助費と奨学金支給直後、五九年からは北への「帰国事業」が始まるが、この事業は、日本赤十字社と国際赤十字社、そして国連など国際社会の積極的な援助で実現したということを知るべきだ。(帰国事業の歴史的評価、日本政府のこの事業に対する政治的利害関係はここでは論外)。
北の援助を通じて地位と権利を確保
「赤狩り」「棄民」で一貫した南の政府
一九五五年に発足した「在日本朝鮮人総連合会(総連)」は、以前の「朝聯」とは違って「日本の社会主義革命」活動と距離を置き、在日朝鮮人の権利と北の発展に集中する組織綱領を発表し、日本社会で以前より安定した地位を得ていった。
当時繰り広げられた「各種学校認可獲得」運動で朝鮮学校が認可を受けていく過程をみても、美濃部東京都知事(認定)と日本政府(不認定)の葛藤の様子からもわかるように、世論はかえって朝鮮学校と在日朝鮮人の運動に友好的だった。もちろん「朝鮮人部落」「チョンコー」など在日朝鮮人を嫌悪する雰囲気が日本社会全般に広まっていたことは否定できないが、これは「北」との関連ではなく、「朝鮮人」だという理由によるものであり、そのような情緒はすでに植民地の頃から蔓延していた。
「朝鮮学校」と「北」の関係を画期的に規定した事件が一九五七年の「教育援助費と奨学金」であることは間違いない。このときをきっかけに「北」が一般同胞に真の祖国となったのは事実だ。一方、南の政府は「アカ」狩りに躍起で、在日同胞に対しては「棄民」で一貫した。その後われわれは「朝鮮学校」を認めて受け入れるさまざまな機会があったにもかかわらずそれを逃し、「識者」たちはこれを隠すことに忙しかった。
結局七十年という歳月、朝鮮学校は北の援助を通じてかろうじてその地位と権利を確保してきた。これは動かしようのない事実だ。朝鮮学校のウリマル教育は北の「平壌文化語」を基本にしており、北の歴史観を学んでいる。朝鮮学校の先生たちは朝鮮大学校を卒業した教員希望の学生たちで、北で実習し、総連で任命を受けて配置される。こうして北を祖国として学んでいるのだ。修学旅行で北に行ってきたのは当然だ。朝鮮学校は「北の学校」、北の言い方を引用するなら「共和国海外公民の教育機関」だということは否定できない。
事実ごまかす反北イデオロギー
子どもたちを政治的人質にしていいのか
日本が朝鮮学校を法的、制度的に露骨に弾圧する理由も、われわれが半世紀の間朝鮮学校を知らなかった理由も、朝鮮学校に韓国籍の同胞児童生徒が七〇%近くいることを知って驚く理由も、朝鮮学校が「北の学校」だからであり、朝鮮学校が北の学校でないような「論理」で「わかった」ふりをしているわれわれも、実は心の中ではその事実を知っているのではないか。
ある人は、なぜわれわれが北の学校に気を留める必要があるのかと言う。
私も「九〇%以上が南出身だ」という事実と「七〇%が韓国籍だ」という論理で問題を解決しようとした時期があった。しかしよく考えると、そのような接近方法は結局、北の努力については話す必要がないという思い、反北イデオロギーに浸った考えによるものだった。
しかし今は
「北の学校であることを認めなくてはいけない。しかし北の学校に生徒たちが通っているからと言ってその子どもたちが差別を受けても当然なのだろうか? 日本の学校と同じようなシステムを備えていて、先生も十分に資格にかない、すでに七十年あまり維持しているのに、『北と近い』という政治的理由で子どもたちが不当な差別を受けていいのだろうか?」
と反問したい。
「日本が大震災で大変だったとき、私たちは誰かれなく普遍的人類愛を発揮した。なのになぜこの子たちに普遍的愛を発揮してはいけないのだろうか? 子どもはみな同じではないのか? 大人が作った政治の枠に子どもたちを押し込んで政治的人質とするなんてことがあっていいのだろうか?」
それでもウリハッキョだと思えるとき
在日同胞の歴史と現実が見えてくる
こう話せるようになったのは、長い間朝鮮学校のために頑張ってきた日本の良心たちのお蔭だ。映像に登場した長谷川代表のように、彼らは南と北を二分法で判断しない。「子どもたちの人権」に関する問題だと強調する。そこには「朝鮮学校」が日本の帝国主義植民政策の産物であり、その歴史を清算できていない日本人の良心の痛みがある。
これは私たちも同様だ。
朝鮮学校が「北の学校」ではなく、またそうではないかもしれない、あるいはそうでないかのように作り上げたい、そうでなければという望みを引き続き話すのではなく、「北の学校」「北が援助する在日同胞が守ってきた学校」であることを認めて、それでも「ウリハッキョ」だと思えるとき、差別している日本の本質がようやく見え、在日同胞の歴史と現実がようやくはっきり見えてくると思う。
最近日本政府は「保育無償化」を宣言して、今年一〇月から全国的に実施すると発表し、この政策からもまた「朝鮮幼稚園」だけを除外した。本質は「朝鮮人嫌悪」を利用した対北政策の一環という「政治的目的」であることを誰もが知っているにもかかわらず、公には「資格条件」を云々する。全世界がしっかり見ているにもかかわらず、子どもたちをこうして露骨に、恥ずかしげもなく政治的道具に利用している、そんなことが可能な理由はなんだろうか? 日本の市民たちが、そして私たちが何も言わないせいではないだろうか?
司会者のコメントやナレーションのいくつかを除いて、本当に素晴らしい「南北の窓」企画だった。それでも「憂慮される部分」についてははっきりとさせておくべきだと思った。南北の窓チームに敬意を表する。またこの文はあくまで私の見解であり、朝鮮学校を運営し、子どもを送る同胞すべての考えではないということを、もう一度明らかにする。55
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