なぜ、金太一少年と朴柱範先生が「無名戦士の墓」に合祀されたか
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4.24教育闘争時から71年、当時朝連兵庫県委員長だった朴柱範先生の「獄死」70周忌を迎え、朴先生と共に、警官隊の発砲で犠牲になった金太一少年らが合祀された青山霊園「解放運動無名戦士の墓」について、「愛国烈士」達を忘れずに、慰霊訪問することを願い、合祀された経緯と体験者としての願いと共に、五問五答という形でまとめてみた。
(呉亨鎮・在日朝鮮人歴史研究所 顧問)
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もくじ
問1東京の青山霊園「解放運動無名戦士の墓」は、誰が、何の目的でいつ建立したのか?
東京青山霊園内の「無名戦士の墓」は、日本の社会運動家たちが一九三五年三月二八日に建立した。
戦前、日本でベストセラーとなった小説「女工哀史」や「工場」、「奴隷」の作者細井和喜蔵(享年29歳)の死後、友人達が「遺志会」を結成し、遺作の印税で、青山墓地の権利を買って建てた墓で、墓石に細井の名ではなく、「無名戦士の墓」の文字を刻むことで、官憲の目を避けて密かに参拝していた。
第二次世界大戦後、共産党と関わりの深い「日本国民救援会」が「遺志会」から譲り受け、墓石の頭部に新しく「解放運動」の四文字を刻んで、社会の進歩と革新、平和と民主主義、国際連帯の運動等で犠牲になった人たちの共同墓所「解放運動無名戦士の墓」とした。毎年パリコンミュン記念日の三月一八日に墓前祭を開催し故人達の業績を称えその遺志を受け継ぐことを誓いあっている所である。
在日朝鮮人の愛国者たちが「解放運動無名戦士の墓」に合葬されるようになったのは七一年前の一九四八年三月からである。
当時は在日本朝鮮人連盟(朝聯=1945・10・15~16結成)や「在日朝鮮解放救援会」(解救=1948・6・15結成)、在日朝鮮統一民主戦線(民戦=1951・1・9結成)が活動していた。在日朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成(1955・5・25)後も数年間続いていた。
第一回「解放運動無名戦士の墓」合同追悼会の決定によって、一九四八年三月の第一回合葬式から、日本の社会運動犠牲者だけでなく、日本国内で日本の官憲、反動勢力によって犠牲になった在日朝鮮人をはじめ外国人たちも所属機関中央本部、解放救援会中央本部等が推薦書類を提出し、審査が通れば合葬出来るようにした。
これには有名な人権弁護士の布施辰治先生(長年、朝鮮問題、在日朝鮮人問題の弁護を担当、社会運動犠牲者たちの名簿「解放のいしずえ」編集、発行等に携わった)の尽力も大きかった。
当時は、在日朝鮮人運動に携わった活動家の多くが共産党員だったため、没後、「解放運動無名戦士の墓」に合葬されることは光栄だった。
「解放運動無名戦士の墓」には、第二次世界大戦中に日本で情報活動をしていて逮捕され、巣鴨刑務所で獄死した有名なソ連の英雄リヒアルト・ゾルゲや中国人等も合葬されている。
在日本朝鮮人総連合会が結成され、主体的な路線がより明確になった後は推薦することは無くなった
青山の「解放運動無名戦士の墓」には、4.24教育闘争に逮捕され、軍事裁判で重労働一五年の刑を受けた元朝聯兵庫県西神戸委員長で、後に総連兵庫県本部委員長となり、共和国帰国直前に逝去された金台三先生をはじめ、日帝植民地時代から解放後にかけて日本で獄死したり、暗殺、虐殺された同胞や殉職した全国各地の同胞、愛国者たち一〇〇余名が合葬されている。
二〇代、三〇代、四〇代が多く、一〇代の若者や女性闘士たちも含まれている。
問2なぜ4.24教育闘争時の犠牲者である金太一少年(当時16歳)、朴柱範先生(64歳)が、出身地の関西の墓地ではなく、東京にある「解放運動無名戦士の墓」に合葬されたのか?
在日本朝鮮人連盟中央総本部と解放救援会中央の推薦で故金太一少年が合葬されたのは第二回目の一九四九年三月一八日、朴柱範先生が合葬されたのは第三回目の一九五〇年三月一八日である。
一九四八年の4.24教育闘争時は、在日朝鮮同胞たちの高い民族的気概と愛国精神、団結力と勇敢性を世界に示した、民族教育史上最大規模の民族教育擁護闘争であった。
延べ一一二万人が闘争に参加し、三、〇七〇人余りの愛国者、同胞、進歩的な日本人がGHQと日本警察に逮捕され、多くが軍事裁判などで重刑を科せられた大弾圧事件であった。南朝鮮に強制送還され犠牲になった愛国者たちも多数出た激烈な愛国闘争であった。
弾圧の規模において、決死的闘争の熱烈さ、激しさにおいて、また勝利の内容において在日朝鮮人運動史、海外僑胞運動史に永遠に記録され、記憶される大事件である。
金日成主席は、一九四八年一二月二三日、共和国創建在日朝鮮人慶祝団を初めて接見した席上、在日同胞たちが4.24教育闘争時で発揮した熱烈な愛国心と民族的気概、不撓不屈の闘志を高く評価して祖国人民の名で敬意を表し、一致団結して神聖な民族教育を最後まで守り抜くよう鼓舞激励した。
金太一少年、朴柱範先生は、4.24教育闘争、尊い命を捧げて民族文化、民族教育の権利、原点を護った愛国烈士、象徴的闘士として、在日同胞をはじめ国内外同胞たちから大きな共感と尊敬を集めた。
在日本朝鮮人連盟(朝聯)と在日本朝鮮解放救援会(解救)は、遺族の承諾を得て、4.24教育闘争時の象徴である金太一少年と朴柱範先生を東京の有名な青山霊園の「解放運動無名戦士の墓」に合祀することによって、その場を4.24教育闘争時の不屈の精神と勝利の伝統を永遠に語り伝える「歴史的な教育の場」、「民族教育擁護闘争犠牲者の聖地、メッカ」の様な場所にしようと試みたのではないかと思うが、定かでは無い。
当時の「解放新聞」、「朝聯中央時報」等の資料を見ると状況が良くわかる。
大阪で金太一少年(1948年4月28日)、神戸で朴柱範先生(1949年11月30日)の「人民葬」を盛大に行ったあと、犠牲者の肖像画を掲げて、朝鮮学校閉鎖令を出して「非常事態」を宣言しフアッショ的弾圧と朝鮮人狩りを強行した占領軍最高司令部(GHQ)と日本政府に抗議し、大規模デモを敢行したこと(「解放新聞」1949年3月21日号、12月10日号)や、東京青山霊園「解放運動無名戦士の墓」前で、朝聯中央本部議長団のメンバーや解放救援会中央役員、大阪、兵庫同胞組織の代表、遺族等らの参加のもと国際解放運動犠牲者追悼式が厳かに行われたこと(「朝聯中央時報」1949年3月21日号)が写真入りで報道されている。
また兵庫県知事たちとの不退転の交渉で朝鮮学校閉鎖令取り消しを含む五項目の要求を勝ち取った四月二四日を、毎年永遠の「教育闘争勝利の日」、「学校記念日」に定め、集会、教育、文化行事を「伝統化」したこと、教育賞として「金太一賞」や「朴柱範賞」等を制定して優秀な学生や教育関係者を表彰し、「4・24의 노래(4・24の歌)」「4・24교육투쟁의 노래(4.24教育闘争時の歌)」「작별의 노래(惜別の歌)」等を作詞作曲して大衆に普及するなど、4・24の闘争精神と闘争伝統を受け継ぎ永遠に輝かすよう呼び掛けた事も報道されている。国内と海外での抗議集会の様子、激励電等も紹介している。
二〇一七年発刊された「大阪における朝鮮同胞愛族・愛国の歩み 1930~2007』(金炳淑編、22頁)の一九四九年の欄には次のように記されている。
3・18―「解放救援会が青山墓地で第2回合同葬式を行った。朝鮮同胞10名を含む合同葬式に故金太一君が祀られた。葬式に金太一君の父母と民青府本部金斗鉉と民青布施支部委員長洪禹平が一緒に上京した。
解放救援会は、1948年3月に解放運動の最前線で犠牲になった無名戦士の功績を永遠に残すべく青山墓地に無名戦士の墓を建て第1回合同葬式を行った。」(「民青大阪」1949年4月1日、「解放新聞」3月24日)
かつては、青山霊園に、遺族をはじめ、大阪、兵庫など関係本部や日本全国の組織活動家、同胞、青年たちが多く訪ね、朝鮮学校学生たちの修学旅行のコースにもなっていた。
問3東京青山霊園「無名戦士の墓」の事が近年、あまり知られていなかったのはなぜか?
一九五五年に結成された朝鮮総連は日本の内政への不干渉を明らかにして、民戦と共に「解放救援会」を解散した。この時に「解放救援会」が担っていた本来の機能、合祀者書類等の引継ぎが十分出来無かったことが要因のようだ。
また遺族たちが帰国、死亡,離散、住所不明、世代交代等で「解放運動無名戦士の墓」を訪れる家族も少なくなり、年々関心も薄れたようである。
「解放運動無名戦士の墓」は、長い歳月が流れ、世代が交代し、組織からも同胞達からも忘れられてしまった。
朴柱範先生の遺族は、4.24事件後、南朝鮮に帰国した。慶尚北道義城郡には朴先生夫妻の墓もある。一〇余年前に同胞が訪問して確認した。
金太一少年の父母は死亡、弟、妹達が現在も大阪近辺に住んでいるらしい。「解放新聞」、「朝鮮民報」によると、4.24教育闘争時10周年ごろまではオモニと一〇歳違いの弟が大阪の4・24記念大会に参加し、花束を受け取っていた。
「解放運動無名戦士の墓」に眠っている愛国者たちを敬い,慰霊することは在日愛国同胞たちの当然の課題の一つでなかろうか。
問4当面の課題は何か?
当面の課題は三つある。
先ずは、在日愛国者たちが、青山の「解放運動無名戦士の墓」に合葬された歴史的経緯について正しい認識を共有することである。
4.24教育闘争60周年、65周年、70周年をはじめ機会あるごとに「朝鮮新報」、雑誌「이어」、「朝鮮学校のある風景」等へのインタビュー、寄稿等を通して、金太一少年や朴柱範先生らが青山霊園「解放運動無名戦士の墓」に合葬されている事実を知らせて来た。
しかし未だ十分に浸透しておらず、無関心、理解不足、誤解もある。71周年、4.24教育闘争時71周年、総連結成64周年…。南北朝鮮、朝鮮と米・日間の一〇〇余年対決が最終段階に入っている今日、民族教育を守ることは、我々に突き付けられている愛族愛国の大事な課題の一つでもある。
高校無償化適用闘争、補助金差別反対闘争は、解放前三六年間や4・24教育弾圧後七〇余年間の延長線上の闘いであり、先烈達の尊い遺志を実現する闘いである。
「解放運動無名戦士の墓」に対する関心をもっと広め、慰霊者を増さなくてはならない。
祖国が統一され、犠牲者たちが愛国者墓に埋葬されるなどの変化があるまで、当面「解放運動無名戦士の墓」が同胞達、特に若い世代の「民族教育擁護闘争の歴史を学ぶ大事な場の一つとして存続することを願っている。
一度でも 「解放運動無名戦士の墓」に来た人たちは、在日朝鮮人の「闘争の歴史を再認識した」「大変勉強になった」「高校無償化闘争をもっと頑張る!」との決意を新たにする。
特に在日朝鮮人運動を担う若い世代たちに関心を持って貰いたい。
二〇一三年以降、『朝鮮学校のある風景』編集部と共に毎年、有志達を募って4.24教育闘争時記念日に合わせ、金太一少年や朴柱範先生の追悼集会「그날을 기리며 되새기는 마당(今、再びその日を称え、心に刻む場)」を設けている。
4.24教育闘争71周年、朴柱範先生の「獄死」から70周忌を迎える今年は七回目となる。
昨年は、私の後輩で、長年闘病生活をしている魏正(77歳)さんが心魂込めて描いた美しい花の絵六枚が墓前に捧げられ、参拝者達に大きな感動を与えた。
最近 ウリハッキョのオモニ会やアボジ会のメンバー、朝青、青商会、朝大生、朝高生、留学生同盟など若い世代の関心が高まっていることが何よりも嬉しい。
さらに合葬者達の遺族を一人でも多く探し出し、先烈たち、愛国者たちの犠牲の歴史を伝え、その尊い遺志を継いで行くようにする事である。
私の耳には、一日でも早く「この墓から出して、親兄弟や同胞たちの墓地に入れて欲しい! 懐かしい祖国、故郷に早く帰りたい!」という叫びと、民族教育をしっかり守り、高校無償化を必ず勝ち取れと励ましている愛国先烈たちの声が聞こえるようである。
問5青山霊園「解放運動無名戦士の墓」へのアクセスの仕方は?
住所
〒107―0062 東京都港区南青山二丁目三二番二号
(青山霊園管理所)TEL:03―3401―3652
解放運動無名戦士の墓の位置は、1種ロ12号14側
最寄駅、地下鉄東京メトロ千代田線、乃木坂(のぎさか)駅 青山霊園側改札口下車、階段上って右方向へ→約五分程歩く、左側に青山葬儀場が見える、すぐ横の階段を上った所(レストラン、デニーズの前に見える高台)54
第七回今再びその日を称え心に刻む場
2019年4月24日11時30分~
「解放運動無名戦士の墓」前
連絡先・『朝鮮学校のある風景』編集部
03・6279・3356
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