金福童ハルモニとウリハッキョ
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日本軍従軍「慰安婦」制度の被害者・平和人権運動家
金福童ハルモニ追悼企画
文在寅大統領の追悼文(抜粋)
ハルモニは被害者に留まらず、日帝蛮行に対する謝罪と法的賠償を要求して歴史を正す先頭に立ちました。朝鮮学校に奨学金を寄付し、他の国の性暴行被害女性たちと連帯しました。人間の尊厳を取り戻すことに余生を尽くしました。
中大阪朝鮮初級学校の弔意メッセージ(抜粋)
私たちは金福童ハルモニにもらった愛情を忘れません。異国でも民族を守ります。
城北朝鮮初級学校の弔意メッセージ(抜粋)
金福童ハルモニは城北学校の永遠のハルモニ! この言葉は私たち児童と教職員の心です。
もくじ
金福童ハルモニを忘れない!
金淑子・編集部
ソウルで千人あまりの人々が、日本軍従軍「慰安婦」制度の被害者で人権運動家の金福童さん(一月二八日没)と被害者の李さん(一月二七日没)を見送った二月一日、東京でも昼と夜の二回、追悼集会が行われた。衆議院議員会館前で行われた夜の会に参加した。
久しぶりの寒い夜だった。時折吹き付ける風が体の深くまで凍みた。そんな中約七〇人が亡くなられた被害者たちの写真や、日本政府に謝罪や賠償を求めるスローガンを手に歩道に並び、約一時間半、ハルモニへの思いを共にした。多くは朝鮮大学校の学生や留学同盟の若者で、男性が半数近くを占めていた。日本の女性たちも多数駆けつけてくれた。無償化連絡会の長谷川和夫代表の顔も見えた。
主催者の言葉やマイクを握った参加者のメッセージ、各地から寄せられた七〇通のメッセージは、海を越えた向こうにいた金福童ハルモニではなく、いつも心の中で温かさを感じていたハルモニを失った喪失感と悔しさと、そして朝鮮人の尊厳を取り戻して平和な世界を築くというハルモニの志を受け継いでいくという決意にあふれていた。
「いつもは日本人のように生きている。自分の祖母から少女が慰安婦として連れていかれるのを見たことがあると聞いた。日本は事実を認めて謝罪し、歴史教育をしっかりすべきだ」(大阪から駆け付けた男性参加者)
「加害国でこうして集まってハルモニを追悼することに意義がある。私たちがソウルの追悼式に参加できないのは、朝鮮が分断されているから。」(女性参加者)
「学ぶこともできないで性奴隷の被害者にされたハルモニが、同じ日本政府の被害者である朝鮮学校の生徒たちに奨学金を送ってくれた。朝鮮半島の平和を実現して、日本の戦争責任を糾そう」(女性参加者)
「生野朝鮮初級学校に来られた時、私たちに靴下と鉛筆をくださいましたね。私たちは日本に住んでいますが、朝鮮人としてしっかり生きていきます。これからも頑張って勉強してハルモニの思いを受け継いで闘っていきます」(朝鮮学校生徒)
「解放から七〇年経つけれど、植民地の歴史を忘れてはいけない。多くの人が、ハルモニの姿から力と勇気をもらい、ハルモニの声に歴史を見直した。これからは空の上から私たちを見守ってください」(朝鮮学校生徒)
…
九月末、朝鮮学校への無償化適用を求める裁判で、大阪高裁が敗訴の判決を下した時の報告集会で、病身でありながら演壇に立って同胞たちや日本人の支援者を元気づけたハルモニ。あの時、最後に「ファイティング!」と叫んだハルモニの温かい姿が、今も心の中で生き生きと蘇る。
植民地時代の被害者であるハルモニが、現代の被害者である在日朝鮮人に手を差し伸べてくれたことで、日本による朝鮮人への弾圧が百年以上に及んでいることが、朝鮮学校への弾圧が南北朝鮮と海外同胞を含む「朝鮮」への弾圧であることが、誰の眼にも明らかになった。その認識が、若い世代の女性にも男性にもしっかりと受け継がれていることが頼もしかった。(2019・2・4)54
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在日の子どもたちに格別な愛情
■ハルモニの姿を思い、今日まで闘いを…
朴>>>fb1・29
「一生懸命勉強してしっかりした朝鮮人になって」「日本政府は、なぜ今も私たちの朝鮮学生たちを差別するのか!」「学生たちには祖国がある」「いつか南北が統一されてマンションも建てて、学校も建てられれば」といいながらいつも私たちの朝鮮学校学生たちに希望を与えて下さった金福童ハルモニム…初めて朝鮮大学校に迎えた時、私たち大学生たちと親しく懇談もして、写真も写して、支援金までくださいました。
あまりにも悪質で、執拗な日本政府による朝鮮学校差別に心が折れそうになるたびに、ハルモニの姿を思い、今日まで闘いを受け継いできました。
このような日がいつかは来ることを知りながら、愛されるばかりで何もできなかった毎日が本当に悔やまれます。それで今からでも何をしなければならないのか、今日もまた悩んでいます。
金福童ハルモニ、いつも私たち在日同胞学生たちを考えてくださって、愛してくださって本当にありがとうございます。ハルモニのその微笑み、その声、そのお言葉…もう一度お目にかかりたいです。申し訳ありません。愛しています。ぜひお安らかに。
■在日朝鮮学校の生徒に奨学金
「ハンギョレ」日本語版1・30(抜粋)
平和運動家金福童にとっては、在日コリアンも他人ではなかった。幼くして日本軍に連れて行かれ、学校教育をまともに受けられなかったためか、日本政府の支援を受けることができない在日朝鮮学校を特に不憫に思っていた。二〇一六年から在日朝鮮学校の学生六人に奨学金を支援した金福童は昨年一一月二二日、新村(シンチョン)セブランス病室で病魔と闘っている最中にも、在日朝鮮学校の生徒たちの奨学金に使ってほしいとして、三〇〇〇万ウォン(約二九〇万円)を寄付した。昨年、公益社団法人チョン(理事長キム・ジェホン、キム・ヨンギュン)は「日本軍『慰安婦』被害者として、苦しみを抱えながらも、ほとんど全財産を遅れている教育のために寄付し、平和と統一の信念と韓日の歴史問題に対する正しい歴史観を広めた」九二歳のキム・ボクトンを「正しい義人賞」の初受賞者に選んだ。
■城北朝鮮初級学校の追慕映像から
正義記憶連帯>>fb2・1
女性運動家・金福童市民葬 葬儀委員会 四日目の報告(抜粋)
一月二九日から三一日まで約六千名が弔問
金福童ハルモニを記憶する三回目で最後の夜を迎えて、日本軍性的奴隷制問題解決のための正義記憶連帯は、夕方七時から追慕祭を催しました。追慕祭は、二〇一八年九月に金福童ハルモニが直接訪問して伝えた支援金で、台風被害を多少でも復旧することになった日本の城北朝鮮初級学校の教職員らと児童たちが送ってきた追慕映像で始まりました。一九九〇年挺身隊対策協を結成し、初代共同代表に就いたイ・ヒョジェ先生からの追慕の手紙を代読し、ピョン・ヨンジュ監督とユン・ミヒャン、チョン・ウイヨン代表による「私にとっての金福童」に繋がりました。
■残された最後の言葉。「朝鮮学校を守れ」
モンダンヨンピル>>>fb2・1
クォン・ヘヒョ代表と事務局家族が金福童ハルモニの葬儀に行ってきました。
今日午後四時ハルモニムにお目にかかってきました。マスコミがたくさん扱かったこともあって、多くの方々が来ていました。私たちが行った時も、全国あちこちから、日本からも、また他の海外からもたくさんの方が来ていました。 ハルモニムが、私たちの社会にどれくらい大きな光であったか改めて知りました。
あちこちに多くの弔花が飾られていました。弔花を送られた方々の中には、社会を動かす大きな力を持っている名前が多かった。 しかしハルモニの葬儀らしく、ハルモニを追悼する場らしく、ハルモニの霊前のすぐそばには「中大阪朝鮮初級学校」、「朝鮮学校オモニ会」、「城北朝鮮初級学校」など、ウリハッキョから送くられてきた弔花が置かれていました。ハルモニの平素の心遣いを知る知人たちの配慮ではないのかと思います。おかげで温かく、深い趣のある場でした。
一人を送る場が、こんなに美しい香りを発するなんて、その方の人生がどれくらい熾烈で深かったかを物語るようでした。 ハルモニの息づかいや声は、私たちの心の中に永遠に残り、それぞれの人生にもう一つの指標を立ててくれました。病床でも最後まで思いを馳せられたウリハッキョの子どもたちが、この場を共にすることができないことがあまりにも辛かったです。これからもいろいろなことをやろうとしていらしたハルモニ、私たちはとても心強く思っていたのですが。
ハルモニの霊前にあいさつをしながら、代表をはじめ事務局家族は各々静かに誓いました。
ハルモニが残された最後の言葉。「朝鮮学校を守れ」
その言葉を絶対に忘れないと。 モンダンヨンピルの会員たち、ウリハッキョの子どもたち、オモニとアボジたち、先生と共に手を繋ぎ、険しいこの道を笑って歩いていきます。金福童の希望が現実になる時まで、最後まで手を離さないと。
■私たちが守ります、朝鮮学校と同胞
日本の「ウリハッキョ」を守る在外同胞>>>fb2・1
今日追慕祭で、ハルモニの意志によって、朝鮮学校に対する話があちこちに伝えられました。ソウルの鍾路のど真ん中に、日本大使館までの移動の道に、あふれる旗バナー。
ハルモニ見ていますか… 私たちが守ります、朝鮮学校と私たちの同胞を。
「在日朝鮮学校に支援を!」、「朝鮮学校の子どもたちに希望を!」、「日本は朝鮮学校差別するな!」、「在日朝鮮学校は民族の宝」
■力いっぱい学び民族の気概を轟かす
朝鮮大学校学生一同名義の追悼文(2019・1・30=抜粋)
金福童ハルモニが私たちを訪ねて、貴重な話を聞かせてくださったのは二〇一四年六月三日でした。
「皆さんが海外で勉強するには本当に苦労が多い。しかし皆さんには祖国がある。だから寂しがらず、一生懸命勉強することを望む。」
「皆さんに力を与えようとしてきたのに、かえって私が力を得た。」
大学生の小公演を観てくださった後、明るく笑われ、学生たちを鼓舞して下さったハルモニの姿とお言葉を思いだし、胸が張り裂けんばかりです。
私たちは、その日ハルモニとした約束を今日数十倍の強度にして霊前に謹んで決意を新たにします。
日本で生まれ育った私たちはハルモニのお言葉どおり自身の歴史的ルーツをはっきり確認し、祖国の統一と民族の真の幸福が実現される将来を見通し、力いっぱい学び民族の気概を轟かす大きい歩みを誇りを持って歩んでいきます。
■慈愛深い微笑で見守ってください
金>>>fb2・1
集会(衆議院議員会館前での追悼集会)で、金福童ハルモニへの手紙を読みました。
二〇一一年三月一一日、思いもよらぬ東日本大震災によって、私の母校・東北朝鮮初中級学校の校舎は崩れました。私が一四才の時でした。
宮城県の同胞は希望を失い、私たち児童生徒も明日を心配しながら、その日その日を生きました。
そんな時、金福童ハルモニは支援金を送って下さいました。それだけではなく、ハルモニは不自由な体にもかかわらず仙台を訪ねてきて下さいました。
その日集会に行く私に、母は、「チマチョゴリを着て行け」と言いました。その時は母の言葉の意味が分かりませんでしたが、数年後にハルモニが日本軍に引っ張られて行ったのが、その時の私と同じ一四才、花のような歳だったと知りました。
地震被害で凍てついてしまったようだった幼い私の心を、ハルモニがおっしゃった暖かい言葉、ハルモニの慈愛深い微笑が太陽のように溶かしてくれました。
ところがその日! 集会には思いもよらぬ日本右翼が集まってきました。
かれらはハルモニムを見て、「このババアは嘘つきだ! 言うことを信じるな!」と、叫びました。
幼なかった私の胸に燃え上がった、ハルモニの尊厳を踏みにじる日本のチンピラに対する憎悪は、今もはっきりと覚えています。
愛する金福童ハルモニ、これからは私が、ハルモニが最期まで大切にして慈しんでこられたウリハッキョ(私たちの学校)と私たちの子どもたちを守って行きます。
天国では、弾圧を受けることなく幸せに暮らされることを心より願います。
そして厳しい日本の地でも、朝鮮人として堂々と生きる私たちを、その慈愛深い微笑でいつも見守ってください。
■日本の社会にも「希望」伝わる
金福童の希望>>>fb2・14
日本軍性奴隷問題解決のための1374回水曜デモに、日本から訪れた青年による自由発言。日本社会に金福童ハルモニが希望を伝えています。
◇
こんにちは。私は日本から来ました古橋と申します。発言をする前に、先日お亡くなりになられた金福童ハルモニのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
金福童ハルモニは日本の朝鮮学校を支援されていたと聞いています。
朝鮮学校は、解放後、植民地支配によって奪われた言葉や文化を学び、守り通していくために同胞たちによって作られた学校です。しかし、戦後一貫して日本政府は朝鮮学校を弾圧し、現在も日本の教育行政の中で厳しい状況に置かれています。そんな在日同胞にとって金福童ハルモニの支援は大きな助けになっていたと思います。
日本の教育では植民地支配のことについてほとんど教えません。
一方、メディアやインターネット、書店では韓国・朝鮮をバッシングする言説を数多く目にします。
そんな日本で生まれ育ってきた僕が今この場に立っているのは大学時代に朝鮮学校に訪問したことがきっかけでした。
朝鮮学校で、自らの文化、歴史を学ぶ在日コリアンの学生たちの姿を見て、メディアで報じられてきたイメージとは全く違う姿を見ました。また、朝鮮学校の歴史を学ぶ中でこれまで知らなかった日本の姿が見えてきました。
今、日本では歴史を歪曲しようとする動きが非常に強まっています。
また最近では徴用工判決やレーダー照射問題で韓国バッシングが強まっています。
今こそ被害者の声に耳を傾けて、過去を直視しなければなりません。
私は今回、3・1独立運動一〇〇周年にあたり、日本の植民地支配について学ぶために日本の青年たちと韓国に来ました。
このツアーで日本が何を行ったのかを学び、日本に帰ってから多くの人に伝えたいと思います。
今後の社会を作っていくのは僕たち若者です。
私は、一刻も早く日本が国家責任を認め、誠実な謝罪をするよう声をあげ続けます。
■匿名で朝鮮学校に二千万ウォンを寄付
金福童の希望>>>fb2・13
匿名で一二日、「金福童の希望」に二千万ウォンを。この寄付者は、金福童ハルモニが病床で、朝鮮学校に全財産を差し出し、最期の瞬間、「在日朝鮮学校の子どもたちを支援する問題を私に替わって最後まで成し遂げてくれ」というハルモニの遺言を聞き、「金福童」の名で朝鮮学校を支援したいとの意思を伝えてきた。
この寄付金は寄付者の意思に沿って金福童ハルモニの名前で、在日朝鮮学校支援に使われます。「私は希望を掴んで生きている、私に従って」と語っていた金福童ハルモニに続き、希望を作っていくことでしょう。
■これからは吉元玉が代わりになります
Meehyang Yoon(正義記憶連帯)>>>fb2・14
吉元玉ハルモニが、私たちに新たな感動を与えてくれました。今日、吉元玉ハルモニは私たちに偉大な活動家の姿を見せてくれました。フランス記者のインタビューに長時間応えた後、大きな決断を話してくれました。福童ハルモニがやり残した在日朝鮮学校支援を続けていく、そのため来週には直接大阪を訪問すると話されました。ハルモニが暮らす「平和のウリチプ」の介護士に、着ていく服がないので一緒に服を買いに行こうとも話されました。そして、本当ですかと尋ねる私に映像メッセージで応えてくれました。皆さんにも感動をおすそ分けします。
「在日朝鮮学校の皆さん、私はソウルに暮らす吉元玉です。金福童ハルモニがあの世に行かれましたが、これからは吉元玉がいます、代わりになります。皆さん、元気を出して、これからも頑張ってすばらしい国を作ってください。
私たちが心を合わせましょう。人の心は誰でも、自分の国がよくなれば、私もよくなり、すべてがよくなるのだから、わが国がよくなるようがんばってください。年を取ると言わなくてもいいことまでしゃべっちゃうよ」54
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金福童ハルモニと朝鮮学校
―同胞と朝鮮学校生徒に伝えたハルモニの願い
チョ・ヘジョン記者(ソウル発「民プラス」2019・1・30)
*原題のまま、訳は本編集部による。
金福童ハルモニが他界したニュースに、在日本朝鮮人総連合会機関紙「朝鮮新報」の記者たちがハルモニと会った時のことが思い出された。
一二月[二〇一八年]、南北と海外の共同写真展「平壌が来る」開幕式に参加して取材するためにソウルを訪れた朝鮮新報社記者たちが、最初に訪ねたのはソウル市マポ区にある「平和のわが家」。金福童ハルモニと吉元玉ハルモニが暮らす家だ。初めて故国を訪問した在日同胞記者たちがハルモニを最初に訪ねた理由がある。
日本軍の性奴隷被害者で女性人権運動家の金福童ハルモニは、一月二八日に亡くなる前に、「日本軍『慰安婦』問題の解決のために最後まで闘ってほしい」「在日の朝鮮学校の子どもたちへの支援も自分に代わって最後まで続けてほしい」と言い残した。
「朝鮮新報」記者たちが「平和のわが家」を訪問した日、ハルモニは強い鎮痛剤の副作用でクッションに寄りかかって座っていた。席をともにした尹美香正義記憶連帯理事長は「辛そうだけれど、最近は気力が少し戻ってきたようだ」と述べた。
ハルモニと「朝鮮新報」記者たちの対話が記録されたメモ帳を開くと、ハルモニはこの日もいつものように落ち着いた口調で朝鮮学校を心配し、支持した。
「会う人ごとになぜ朝鮮学校の話をするのかと聞かれる。私も朝鮮人だから、朝鮮学校の話をする」「本国にある同胞たちが力を出すべきだ。団結すればできないことはない。団結して日本に勝たなくては」。朝鮮初中高級学校そして朝鮮大学校で言葉と歴史を学んで、卒業した後、記者として活動しているという二十~三十代の記者たちに勇気と激励を送った。
「朝鮮新報」記者たちは、金福童ハルモニが昨年九月に大阪を直接訪ねて高校無償化控訴審裁判で敗訴した生徒たちに会い、「裁判で負けても失望してはいけない」と言ってくれたことが、保護者と子どもたちをどれほど元気づけたことかと感謝した。この時は翌日、台風被害を受けた朝鮮学校も訪ねて激励した。ハルモニは入院中にも、朝鮮学校のために使ってほしいと「金福童の希望」に三千万ウォン、退院後にも二千万ウォンを寄付した。日本政府が「高校無償化制度」を施行して朝鮮学校だけを除外するなど抑圧や差別を受けながら学校生活を送っている朝鮮学校生徒たちを思いやった。
「朝鮮学校で一人でも立派な人を育ててほしいというのが私の願いだ。私が思うようにずっと繫がっていくだろうか…。後援者が必要だ」
ハルモニは夢の中でも朝鮮学校を見るという。夢で「朝鮮学校をこうして、ああして、しっかり支援します」と言う人にたくさんあったという。ところが目が覚めると夢だった。「正夢にしなくては。ずっと思っていれば本当になる」
そうして記者たちに頼んだ。
「今日本では、私たちの民族が、亡国の悲しみを体験するようなひどい状況だ。南北が統一して、戦争のない世界、平和な世界、互いに往来できるそんな世の中を実現しなくては」
「誠意を尽くして記事を書きなさい。誠意で、心を尽くして朝鮮学校を守ろう」
ハルモニの言葉と頼みを一文字一文字ノートに刻んでいた「朝鮮新報」記者たちが、ペンを置いてハルモニに近づいた。ハルモニの手を握ると涙があふれた。記者たちは「長生きしてください」「日本で一生懸命闘います」と誓った。
三〇分の短い取材を終えて記者たちが帰る準備を始めた。横で記者たちの質問と対話を見守っていた金福童ハルモニの「相棒」吉元玉ハルモニが言った。「外国に住んでいるからいろいろ大変だろうけど、元気を出してしっかり一生懸命生きて、立派なウリナラ(わが国)を作って行かなくては」
一九九二年に日本軍性奴隷被害者に登録した後、二七年間を女性人権平和運動の象徴となって日本軍性奴隷問題解決の先頭に立ってきた金福童ハルモニ。尹美香理事長はハルモニが亡くなった日にも「貯めておいた政府の生活資金を全額、在日の朝鮮学校支援に使ってほしいと、『正しい義人賞』の賞金もやはり在日の朝鮮学校の子どもたちのために使ってほしいとおっしゃいました」と伝えた。
金福童ハルモニは朝鮮学校の生徒だけでなく戦争、紛争地域の子どもたちや性暴力被害者らのための寄付を続けてきた。「ひどい痛み、全身に広がったガンで臓器が機能しない状況でも、金福童ハルモニは最後まで人々に希望を与え、手ぶらで旅立つことを幸いだと思っていました」という尹美香理事党の言葉通り、ハルモニは幸せな顔で亡くなった。
ハルモニ死亡のニュースに誰よりも胸を痛める朝鮮学校の児童生徒たち。ハルモニはチョウになって朝鮮学校の児童生徒たちの肩に止まり、そして生前あれほど願った「戦争の無い、平和で、統一した朝鮮半島」を飛ぶのではないだろうか?
女性人権運動家・金福童ハルモニの冥福を祈る。54
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「空で私たちを見守ってください」
朝鮮学校児童たちの金福童ハルモニ追慕
イ・ソヒィ記者(ソウル発「民衆の声」2019年1月31日)
*原題のまま、訳は本編集部による。
二八日[二〇一九年一月]、日本軍「慰安婦」被害者で女性人権・平和運動家の金福童ハルモニが亡くなり、日本にある朝鮮学校の生徒や関係者が弔意を表した。
三一日、フェイスブックの奨学財団「金福童の希望」サイトは、日本の城北朝鮮初級学校、中大阪朝鮮初級学校児童たちの弔意メッセージをアップした。
日本の大阪にある中大阪朝鮮初級学校の教職員、児童、園児たちは「会いたい金福童ハルモニが亡くなったという悲報に接した」という言葉で始まるメッセージをアップした。
彼らは「私たちに温かい愛を施してくれた金福童ハルモニが亡くなったと聞いて胸が痛く、悲しい、全校が涙にくれた」と学校の雰囲気を伝えた。
「感謝のあいさつもできないまま亡くなられたと聞いて、悔しいです。悲し過ぎます。胸が痛みます」と綴った。
そして「私たちは金福童ハルモニにもらった愛情を忘れません。異国でも民族を守ります」と誓った。
大阪府内のもう一つの朝鮮学校・城北朝鮮初級学校の児童と教職員も三分三〇秒ほどの映像メッセージで弔意を伝えた。映像では紺色の制服を着た初級部児童たちがイスに座って先生と一緒にカメラに登場した。
映像は「金福童ハルモニは私たちの希望でした。城北初級学校児童たちは金福童ハルモニを永遠に忘れません」という言葉で始まった。
最初に発言した児童は「私たちは城北初級学校の一年生です。ハルモニ、私たちの城北学校を訪ねてくれてありがとうございました。私たちは金福童ハルモニを忘れません」と述べ、「金福童ハルモニが私たちに残した言葉通り、私たちは日本の地でしっかりと生きていきます。空で応援してください」と語った。
またもう一人の児童は「豪雨の被害を受けた私たちに胸を痛めた金福童ハルモニ、私たちはこの学校で一生懸命勉強して民族の魂をしっかり守ります。私たちは、私たちの言葉と文字をこれからもしっかり学びます」と感謝を述べた。
高学年に見える男子児童は「ハルモニは私たちの学校を訪ねて、私たちに夢と勇気をくださいました。私たちは異国に暮らしても差別に負けずにしっかりと生きていきます」と誓い、ある女子生徒は「病身でありながら私たちの講堂の演壇に上がっておっしゃった貴重な言葉を胸に刻みます」と述べた。
映像で児童たちは「金福童ハルモニ、空で私たちを見守ってください」「金福童ハルモニは城北学校の永遠のハルモニです」と声を合わせた。
最後に「金福童ハルモニは城北学校の永遠のハルモニ! この言葉は私たち児童と教職員の心です」とメッセージを残した。
奨学財団「金福童の希望」によると、これらの学校は二〇一八年に台風で大きな被害を受けた。当時財団では金ハルモニの志を受けてこれらの学校を訪問して児童を激励し、修理費用を支援した。
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慰問金を伝達しに城北のウリハッキョを訪れた金福童ハルモニ(同校fbより)
金福童ハルモニは生前に奨学財団を設立し、差別を受けている在日の朝鮮学校児童生徒たちを手助けすることにした。
二〇一三年六月六日、「私は戦争のせいで勉強したくてもできなかった。金持ちにはわずかな金額かも知れないが、私はこれを集めるために苦労した。子どもたちは私のような生涯を送らなくていいようにしなければ」という宣言で始めた活動だった。
二〇一四年、金ハルモニは、大阪朝鮮初級学校全児童に学用品をプレゼントし、二〇一五年には五千万ウォンを寄付した。これが種となり、その後市民たちが賛同して「金福童奨学基金」が創設され、「金福童奨学会」を経て奨学財団「金福童の希望」となった。
金ハルモニは亡くなる前の二〇一八年一一月に「金福童の希望」に五千万ウォンを寄付した。同年九月にも台風被害を受けた朝鮮学校復旧のために一千万ウォンを寄付したばかりだった。同月二日に「正しい義人賞」を受賞した時に受けた賞金も「金福童の希望」に寄付した。
亡くなる前に最後に残した遺言でも「在日の朝鮮学校の子どもたちを支援する問題を私に代わって最後まで続けてほしい」と述べたという。54