IoT時代の教育環境
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一月一五日の「日経電子版」に女性アイドルの写真が三枚並んでいた。アイドルらしい顔をしているがそれぞれ違う個性がある。テレビ番組で踊っているのを見たような気もするが、実は彼女たちは架空の存在。京都大学発のスタートアップ企業、データグリッド(京都市左京区)が開発した「アイドル自動生成AI」が「生成」したものだ。デザイナーやクリエイターのように絵を描いたりキャッチコピーを作ったりする仕事は、人間の仕事の最後の砦のように言われてきた。しかしAIの技術革新はめざましく、何かを創り出すAIが作れるようになってきたという。今は顔だけだが、「全身」をAIで生成して動かすことを想定している。CMに出ている家族はみなバーチャルヒューマン、人気のモデルはAIの「生成」によるものなどということも、近い未来にあり得る。お父さんがイヌというCMはコミカルでもあり注目を浴びたが、ヒューマンとバーチャルヒューマンの世界の境界線は果たして認知可能なのだろうか?
情報はニュースサイトやYouTube、Google、fbから、連絡はSNSで、買い物はネットショップで。スマホを手にするようになって私たちの生活は、無意識のうちに大きく変わった。スーパーのレジの無人化や、飲食店の人員削減、AI活用による金融機関のリストラなど、単純労働はAIに取って代わられ、多くの人々が扶養される時代が来るなどという説もある。
そんな時代に人に求められるのは、「人にしかできないこと」だという。ではAIと人間の違い、ロボットと人間の違いは何なのか?
私が育った家庭は、祖父母と、中学生から大学生の叔父や叔母たちが同居する十数人の大家族で、父が一人古鉄屋をして生計を維持していた。貧しい中でやりくりしながら食べ盛りの三食を準備するのは至難の業だったと思う。母が市場の裏に捨てられた白菜の皮を集めてきてキムチを漬けていたのを覚えている。そんな母がよく言っていたのは「お金で解決できる苦労は苦労と違うんやて」という言葉だった。叔父や叔母は、貧しい大家族の家に嫁いできて苦労している同じ年代の母に申し訳ないと思っていたようで、いつも思いやりを忘れなかった。そんな家族の優しさが母には慰めだったのだろう。
最近、アメリカの医療ドラマで、ある女性医師の「それでも私は病気で苦しんで世を去りたい。人の温かさを感じて逝きたいから」と言うセリフにドキッとした。私には想像すらできない境地の話だが、そういうことを考える医療関係者もいるのだろうか。
では人にとって最も耐え難い苦しみとは何なのだろうか? 貧しさよりも、病よりも恐ろしいこと、それは孤独かもしれない。辛いことはいろいろあるが、寄り添ってくれる人がいれば慰められる。しかし孤独は癒やされることがない。
三十年前に中級部の教員をしていた頃、生徒たちの悩みに関するアンケートで圧倒的一位は「友だち関係」だった。それは今も変わらないのではないだろうか。二年ほど前にインターネットサイトでロボットの学習をした時は、ロボットに家族や友人のような役割を求めるレポートが何件もあった。誰かを思いやったり、思いやられたりする関係を築くのは難しいことではあるが、最も求めていることでもあるのだ。
心の交流を通じて喜びや幸せを、時には怒りや悲しみ感じることは、「人にしかできないこと」だ。感情を持ったAIの開発が進められているという話も聞くが、人間の深い感情や思考をコピーしたとしても実際のそれを超えることはあり得るだろうか。
朝鮮学校の子どもたちは、差別が吹き荒れる日本社会で、祖国朝鮮の配慮を、同胞や日本の支援者、そして南の支援者の愛情を、実感しながら育っている。彼らの多くが驚くほど後輩思いなのは、その結果なのだろう。「人にしかできないこと」が求められるIot時代に生きる世代だからこそ、朝鮮学校のようなのびのびとした環境が求められるのではないだろうか。53
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