4.24教育闘争70年:アメリカ占領軍に 抵抗し勝利した日
スポンサードリンク
李珍珪
当時・朝鮮総連教育文化部長
「4・24教育闘争10周年記念大会」講演録
編集部より・一九五八年四月二四日、大阪の中之島公会堂で「4・24教育闘争一〇周年記念大会」が催された。「朝鮮民報」(1958・5・1)によると、大会には、東京、大阪、兵庫、京都、滋賀、奈良、岡山、愛知、神奈川、千葉、福井、和歌山、三重をはじめ各県の代表と学生ら四千名が参加し、李珍珪教育文化部長が記念講演を行った。ここに紹介するのは、「朝鮮民報」への掲載(5・13、17、20)に際して、筆者が加筆修正した講演録からの抜粋である。原題は「輝かしい4・24の伝統―それを継承発展させよう」。訳・タイトルは編集部による。
4・24教育闘争は、アメリカ占領軍が在日朝鮮人の民主主義民族教育権を一挙に圧殺しようと阪神一帯に非常事態を宣言し、前代未聞の暴圧を加えたことに対し、すべての在日同胞が血で抵抗し、勝利した日です。
この歴史的な記念日を迎え、私たちは、今から十年前にアメリカ占領軍に抵抗して英雄的にたたかい倒れた金太一少年をはじめ数多くの犠牲者たちと、この闘争に参加したすべての愛国的な同胞に深い敬意を表し、わが祖国の南半分を占領し祖国の平和的統一を決定的に妨げているアメリカ帝国主義者に対する沸き上がる憤激を禁じえません。
周知のように、第二次世界大戦において各国の数千万人民の犠牲とソ連の決定的役割によって戦争は終息し、朝鮮人民も8・15解放を迎えることができました。在日同胞子弟の民主主義民族教育もようやく実施することができるようになりました。
歴史的な8・15以後、在日同胞は解放された新興民族としての気概も高く、自らの言葉と文字で民主主義民族教育を実施し、子どもたちを新朝鮮の凛々しい担い手として育てることに愛国的熱意を傾けました。かくして一九四八年には、各級の学校数が五〇〇余に達し、学生五万名と一四五名(整理者注・一四五〇の誤り?)の教員隊列を揃えることができ、各種教科書など一〇〇万部以上を刊行する盛況を博するようになりました。当時、大阪だけでも六〇余の小中の学校があり、学生数は実に一万余名に達しました。
しかしアメリカ占領軍は日本に上陸した初日から、在日本朝鮮人を迫害し始めました。帰国を不当に制限し、拘束するなど在留同胞の正当な権利を保障せず、教育面においても援助どころか学校建設、教育内容、教科書の検閲などにおいて、直接、間接的な干渉と迫害を加え、弾圧の機会をうかがっていました。
かれらは、新興民族としての自負心を持ち、平和と民主主義を愛し、自主独立国家を建設する愛国者を養成するわれわれの民主主義民族教育に反対しました。われわれの教育政策が自らの戦争と帝国主義侵略政策を追求する教育政策と合致せず、占領政策に有害であるということにありました。
しかしこれはあまりに当然なことでした。世界征服の野望を夢見るアメリカ帝国主義者の教育政策と、長い植民地奴隷民族から解放され民族的独立国家を建設しようとする朝鮮民族の教育政策が同じであろうはずがありません!
アメリカ占領軍の教育担当軍人は、一九四七年から東京と大阪において内々に朝鮮人学校の実態調査を行いながら、弾圧の機会をうかがってきました。
一九四八年、南朝鮮で李承晩傀儡政権をねつ造するための単独選挙の陰謀が露骨化する中で、アメリカ帝国主義は日本における朝鮮人運動と教育事業に対する干渉と弾圧を始めました。
一九四八年一月には日本政府に、朝鮮人教育を否定する指示を下させました。この事実を知ったすべての同胞たちは憤激し、一斉に反対闘争に決起しました。なかでもわれわれの教育の中心地である兵庫、大阪の同胞たちは文字通り挙族的に決起し、その他、東京、神奈川、岡山、山口などにおいても熾烈な抗議運動が繰り広げられ、「朝鮮人教育対策委員会」が組織され、統一的な指導体制を確立しました。
特に、神戸では四月二四日、県下約三万名の同胞が結集し、教育権擁護闘争を繰り広げ、かれらの指示を撤回させることによって輝かしい勝利を勝ち取りました。
この闘争の過程で、同胞たちを解散させて交渉を中断させようと、兵庫県庁に三人のアメリカ占領軍憲兵が走ってきました。かれらは知事室の前で拳銃を振りかざし群衆に退去を命じました。そのとき、群衆の中で数名の頑強な青年と一人の婦人が飛び出し、憲兵の前に立ちふさがり、胸を突き出し「撃てるものなら撃ってみろ!」と叫ぶと、かれらは血の気がひきぶるぶる震えながら逃げ帰っていきました。
「朝鮮民報」(1958・5・1) しかし、アメリカ占領軍は、翌日の早朝、自らのファッショ的占領政策を世界に暴露したいわゆる「非常事態」を宣言し、阪神一帯において朝鮮人であれば手当たり次第、無差別拘束し、その数は実に三千余名に達しました。拘束と同時に朝鮮人連盟とその他の団体の事務所の大部分を破壊し、総額三億八千余万円の民族財産が破壊、略奪されました。
この時の弾圧でわれわれが忘れられない事実は、一部反動団体の悪質分子らがアメリカ占領軍の先頭に立ち愛国者たちの拘束に積極的に協力したということです。それだけではなくアメリカと売国分子たちは在日同胞たちを李承晩売国勢力に加担させるために、拘束された愛国者に、当時、南朝鮮でねつ造しようとされていたいわゆる「5・1単独選挙」を支持すれば速やかに釈放すると騙しました。しかし、周知のように拘束された愛国者たちはこれに反対してたたかいました。敵の過酷な拷問と甘い言葉に騙されず、最後まで弾圧の不当性に抗議した結果、軍事委員会と軍事裁判並びに日本の裁判において、一五年から一二年、一〇年など、延べ一六六年一〇か月という長期刑を受け、獄苦を強いられました。戦いは獄中でもつづき、当時朝聯兵庫県本部の委員長だった朴柱範先生は悔しくも獄死されました。[訳者注・朴柱範先生は仮釈放の数時間後に亡くなった]残りの愛国闘士たちは三年八か月の獄中闘争を経て、出獄を勝ち取り現在も愛国闘争を継続しています。
われわれは愛国闘士たちの業績を高く評価し、かれらに民族的栄誉を捧げます。また、この闘争に参加し、一〇年という長期刑を宣告された神戸市議会議員の堀川氏とその他、日本の民主人士にも熱烈な感謝を伝えます。
兵庫闘争と前後して、大阪でも府庁を囲み学校閉鎖に反対し深夜まで抗議闘争をくり広げました。これに対してアメリカ占領軍はすべての大阪の警察力を動員し、一七九名を拘束し、その中には当時、全逓信労働組合大阪本部委員長の村上氏をはじめ多くの日本の民主人士たちも含まれていました。
これに憤激した大阪同胞たちは阪神一帯に非常事態が宣言され、ものものしい雰囲気だったにもかかわらず、四月二六日、約四万名の同胞が決死的に参加し、大手前公園で人民大会を開催し、拘束者の速やかな釈放と学校閉鎖反対の抗議の声を高めました。しかし、アメリカ占領軍ははじめから耳を傾けず「五分以内に退去せよ!」との宣言とともに、消防車まで動員して放水戦術を使う一方、退去する群衆に拳銃を乱射しました。この時、一六歳になる金太一少年は背後から直撃弾を受け絶命しました。その他、五七名の愛国同胞たちが銃弾で重傷を負いました。
われわれは大阪教育闘争で不幸にも凶弾に倒れた金太一少年に心からの哀悼の意を表し、多くの犠牲者の英雄的闘争に対して民族的栄誉を捧げます。
山口では、一万余名の同胞たちが特別列車まで編成し、県下各地から山口市に集まり、二四時間の徹夜抗議交渉戦を繰り広げ、東京では軍政庁命令違反だとして都内の各学校長と教育会の会長らが拘束されました。岡山でも抗議闘争が繰り広げられ、朝聯県委員長が検束されました。
阪神地方を中心にしたこのような闘争が連日繰り広げられることによって、事態はアメリカ占領軍が当初意図していた方向とは正反対の方向に発展し、アメリカのファッショ的蛮行を糾弾する声は国内外で日々、高まっていきました。
祖国北半部の同胞たちは連日大衆集会と放送を通じてアメリカの犯行を糾弾し、南半部同胞たちは亡国的5・10単独選挙を決死の覚悟で反対し闘争する過程で、4・24教育闘争のニュースを聞き、各地で在日同胞の闘争を支持するデモを行いました。
日本国内においても、各労働組合、民主団体はいうまでもなく、民主的人士らがアメリカ帝国主義の蛮行を糾弾し、鹿地亘氏を中心にした各団体の代表と民主人士たちは「阪神学校事件真相調査団」を組織し、ものものしい警戒網をついて現地に来て直接調査事業を行い大きな反響を呼びました。
国際学生組織をはじめ国際的な声援も少なくありませんでした。
アメリカの国内紙にもアメリカ帝国主義の日本占領政策を批判する記事が掲載され、世論を喚起させました。
こうして在日朝鮮人の教育を武力で圧殺させようとしたアメリカ占領軍の企図は完全に失敗し、その威信は地に落ちました。
阪神教育闘争当時、横浜から伊丹飛行場に乗り込んできたアメリカ占領軍第八軍司令官アイゼンバーカーは怒りに満ちた表情で、「在日本朝鮮人すべてをクイーンエリザベス号に乗せ、南朝鮮に強制送還する」と大言壮語しました。しかし、本国に送還されたのは在日朝鮮人ではなく、アイゼンバーカー自身でした。かれは事件後、何日もせず貨物船で本国に送還されてしまいました。
4・24教育闘争では金太一少年が無残に凶弾に倒れ、数多くの愛国者たちや日本の民主人士らが拘束され、獄中で苦労したが、朝鮮民族がいったん自らの手にした民主主義民族教育権はいかなる犠牲を払うことがあっても奪われないという不屈の闘志を内外に轟かした歴史的な事変でした。
一、教育用語は朝鮮語とする。
二、教科書はわれわれが編纂したものを使用する。
三、学校運営は、われわれが自主的に行う。
四、日本語も教える、という項目は基本的に固守貫徹され、日本文部省との覚書が交換され、以後の教育事業においても一貫して固守発展させました。
4・24教育闘争後、その年の九月には、金日成元帥を首班とする真の人民政権である朝鮮民主主義人民共和国が創建されました。在日同胞も朝鮮民族史上初めて建国された輝かしい共和国政府を熱烈に支持歓迎し、共和国の海外公民としての栄誉と矜持に満ちあふれ、共和国の教育施策に依拠した教育事業を引き続き強化しました。
しかし、共和国を武力で占領しようとするアメリカ帝国主義者たちは、朝鮮侵略の背後基地になっている日本において民主勢力を一掃する目的で日本政府に一九四九年九月に朝鮮人聯盟と朝鮮民青を強制解散させ、ひきつづき一〇月には朝鮮人学校の一斉閉鎖令を下させました。
アメリカ帝国主義の閉鎖令に反対し、多くの学校でたたかった結果、自主学校として残り、一部は公立分校、民族学級を勝ち取り実質的に民主主義民族教育を固守しました。
その後、熾烈な祖国解放戦争の期間、朝鮮人運動が困難な状況の中で、在日本朝鮮人学生たちは、祖国を侵略しているアメリカ帝国主義を糾弾し、平和を守る署名運動と「朝鮮人強制追放反対!」、「朝鮮学校閉鎖反対!」のスローガンを叫びながら愛国的闘争をくり広げました。この闘争の中で、多くの教員と学生が迫害、拘束されたが、学校の数と学生の数は引き続き増加していきました。一九五三年七月、朝鮮人民が勝利的停戦を勝ち取った後…在日本朝鮮人運動も共和国政府の平和的共存の対外政策に依拠し、日本の内政に干渉しない新たな路線に転換し、民戦を発展的に解消し、在日本朝鮮人総連合会を結成しました。
在日本朝鮮人運動が路線転換した後、在日本朝鮮人教育も祖国の直接的な配慮に鼓舞され、新たな発展段階に突入することになります。以下略 50
故金太一のオモニの参加のもとに4.24行事=大阪中西小学校
4・24を迎えた大阪中西小学校(現在の生野朝鮮初級学校)では、当日の4月24日、4.24・7周年記念大会を校庭で開いた。当日、金太一少年のオモニが忘れられない息子―故金太一君の肖像を抱いて参加した。学父兄たちはこの日、4・24の精神を今後も継承発展させる決意を金太一少年の肖像の前で誓った。
父兄たちは、学校の周辺に記念植樹を行う一方、課題になっていた学校の前のどぶに柵を作ることにし、現在積極的に推進している。