静岡チョジュンのはじまり ⑦1968年度
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金柱宇・東京朝鮮第3初級学校 教育会顧問
均衡が合わない教員配置
昨年度恋愛騒動を起こした李誠弼先生と李星麗先生が東京へ転勤させられ、他にも朴世辰、金科力、夫永實先生も静岡チョジュンを離れる事になりました。みんな期待された先生達なので、静岡チョジュンとしては痛手です。代わりに、新任の金斗千、朴美愛、金兌順、金永分先生と三多摩から私と同窓の朴珠玉先生が赴任してきました。しかし、出て行った先生たちが優秀だっただけに、戦力ダウンは否めません。
特に教職同分会長の李誠弼先生の抜けた穴は大きいです。
その穴を埋めるため、県本部は浜松チョジュンから許宗海先生を引き抜いて配置しました。たぶん校長先生の強力な要請があったからだとは思いますが、これでは浜松チョジュンとのバランスが崩れてしまいます。
許宗海先生は新任のときから四年間、浜松チョジュンの少年団指導員として学校事業の先頭に立って活躍し、子どもたちだけではなく父兄からも絶大な信頼を受けて、当時は大黒柱と言っていいほどの存在でした。そんな先生を引き抜いてしまうと、浜松チョジュンはガタガタになる恐れがあります。
代わりに静岡から夫永浩先生が少年団指導員として行かされましたが、とても許先生の代役は勤まりそうにありません。夫永浩先生も充分指導員をやれる資質は持っているのですが、許先生の後釜となると力不足なのです。
これはどう見ても不均衡な人事配置と言わざるを得ません。
案の定浜松では、父兄たちだけではなく、教育会と聡聯西部支部までもが、一緒になって「許宗海先生移動反対運動」を起こしたと言います。
それでも本部は浜松の言い分を受け入れませんでした。一九六四年、静岡に学校ができて、その三年後には新校舎も建ち、本部の人たちの関心は完全に静岡チョジュンに移ってしまったようです。
秋に浜松と合同の「決起集会」として、一緒に井川峠を「行軍」し、旅館で宴会をしたのですが、思ったとおり静岡の先生方が賑やかで騒がしかったのに反して、浜松の先生方は静かで、雰囲気がとても暗かったです。同じ県内の学校なのにこれは良くないと思いました。
静岡チョジュンは、許宗海先生が教職同分会長を勤め、李誠弼先生の代役を担うようになり、教員の頭数も揃って、なんとか体制は整いました。
また待望の吹奏楽の指導教員として、金斗千先生が配置されてきました。しかし、金先生は高校で吹奏樂部に居たというだけで、音楽に精通してはいないようでした。専攻は文学で「국어」(国語)の先生なのです。それでも吹奏楽は指導できるようで、柱鉄の負担は少なくなりそうです。
静岡チョジュンの全盛期
新校舎が建ったのと伊豆半島での積極的な「学生引入事業」を展開した結果、生徒の数は目標の三〇〇名を目前にするまで増えました。
児童生徒の数は、この時が一番多かったです。次の年から減り出したので、児童生徒の数だけを見ると、この時が静岡チョジュンの全盛期だったと言えます。
教室は大きく造りましたが、机は三六席並べればいっぱいです。定員をオーバーするクラスが続出し、教室は児童生徒で溢れかえり、それこそ嬉しい悲鳴を上げていました。四〇名を越えるクラスもありましたが、二階に大きな教室を一つ造っておいたおかげで、なんとか収容できました。
その二階の教室は道路側に面していて、車の騒音が激しく、夏でも窓を開ける事ができませんでした。新校舎が建った頃から学校前の道路はダンプとか大型の車がよく通るようになりました。近じかこの道路も道幅を二〇メートルに拡張し、安倍川に新しく橋を造るようです。へんぴだったこの辺も新しい店や家が建ち始め、少しずつ変わろうとしています。
李舜行校長は、相当な野心家で、学校教育で成果をあげ名を成そうと必死になっていました。まずは目前のライバル浜松チョジュンに並々ならぬ対抗心を燃やしていました。
年に二度ほど両校で教育研究会が開かれましたが、その研究発表でも相手側の論文を批判して教育成果を認めようとせず、自分たちの成果はほんの小さなことでも過大に公表し、中央に上げる報告書も数字を水増ししたりしてなんとしても浜松チョジュンを打ち負かそうとしました。
しかし、どれだけあがいても児童生徒たちの学力だけは勝つ事ができません。前年から全国統一試験が実施されるようになりましたが、そこでハッキリと成績が数字に表れてしまうのです。
李校長はなんとか学科成績でも浜松チョジュンを上まわろうといろいろ手を打ちました。試験が近づくと、先生達が試験に出そうな問題を選び出し覚えるまで何度もテストさせたり、できる子とできない子を「二人組」にして教え合わせたり、そして最後には学校で合宿までさせて集中的に学習指導をし、解るまで徹底的に教え込んだりしました。
そんな一夜漬けの試験勉強で、学力が身につく筈は無いのですが、おかまいなしです。「成績主義」と言われようが誰かになんと非難されようがひたすら試験の成績を上げる事に専念し、できる事は何でもやったのです。
そして学力はさて置き成績だけは浜松チョジュンを上まわる事ができました。浜松より上と言う事は全国的にもかなり上位です。
このように李舜行校長が来てから二年目にしてとうとう数字の上では静岡チョジュンが浜松チョジュンを追い越す事ができたのです。
その他も少年団活動、クラブ活動とか「学生引入事業」とか多くの事柄で成果をあげ、静岡チョジュンは中央からも評価されるようになりました。そしてその年、静岡県で初めて中級部の教員集団が「模範教員集団」として表彰されたのでした。誇張され水増しされた成果も広く知れ渡れば実績に成るものです。中央から評価されると自信にもなり、学校にもそれなりの風格が出てきました。
生徒数が増え学科成績も上がり数々の実績を成して静岡チョジュンの名は全国に広まりました。もう何処へ出て行っても堂々と胸をはれます。
開校して五年目、まだ学校としては成熟仕切ってはいませんでしたが、この時が静岡チョジュンが一番明るく輝いた全盛期だったと思います。
これは李舜行校長の功績と言えるでしょう。
中島小学校との交流
ウリハッキョを存続させるためには学校周辺をはじめ日本の人たちから広くウリハッキョの民族教育を理解していただかなくてはなりません。その第一歩が日本学校との交流なのです。
交流と言うと、今までは大里中学校とのバスケットボールの練習試合だけでした。開校当時、金茂顕先生が作った籠球部が学校から近い大里中学に出向き、いきなり練習試合を申し込んだのが交流の始まりです。
大里中学校は学校からは二キロ位離れていましたが、生徒たちは歩いて行きました。大里中学校には立派な体育館があって、設備が整い練習には素晴らしい環境です。そこで定期的に試合をして練習もさせてもらったのです。
大里中学校でも金茂顕先生の指導を受けられたので喜んでいました。
金茂顕先生が去った後は、李誠弼先生が籠球部の指導を引き継ぎましたが、ほとんど主将の金成根が中心になり生徒たちが自主的に練習していました。
金成根は少年団委員長もしていましたが、少年団の事より籠球部の方に力が入って、大里中学校とのバスケットボール交流は続きました。その交流は次の年の三代目卞長春委員長の時まで続きましたが、その後チョジュンの籠球部が衰退するにつれ、交流は途絶えてしまいました。
当時のウリ学校はまだ未熟で、バスケットボール以外でも交流を発展させる状況ではなかったのです。
立派な校舎も建ち、運動場も垣根ができて広くなり、静岡チョジュンも学校らしくなって、日本学校との交流を始められるようになりました。
静岡チョジュンから一番近い学校と言えば、中島小学校です。早速、ウリ学校に招待して、子どもたちが交流する事にしました。
しかし、交流と言っても、ただ仲良く過ごすだけでは意味がありません。校長先生は交流を通して、ウリハッキョ、民族教育の素晴らしさを見せ付けたいと思っていました。それで、万端な準備をして待ち構えたのです。
中島小学校からは六〇人ほどの六年生が交流に出向いてきました。まずは、ウリハッキョからこの日の為にたっぷり練習した民族舞踊とカヤグム併唱、そして吹奏樂を披露しました。日本の子どもたちは始めて見る民族舞踊におどろき、迫力ある吹奏楽に圧倒されていました。
中島小学校の子どもたちは合唱をしましたが、とても素朴でウリハッキョとは比べものになりません。
スポーツの交流はウリハッキョの運動場では狭くてドッジボールがやっとです。それで男女一〇人ずつ二〇人を選んで試合をしました。李舜行校長は何日も前から六年生の選手に必ず勝つように言い聞かせ、この日のために徹底した練習を積ませました。田舎の学校とは言え、向こうはウリハッキョより生徒数では倍以上です。決して侮る事はできません。
しかし、始めて見ると、まったく試合にならいのです。勝つ気まんまんのうちの生徒とは違い、中島小学校の子どもたちに戦意はまったく感じられず、ただ逃げ回るだけなのです。たぶん練習も準備も何もしていなかったのでしょう。それでもうちの子どもたちは手を緩めず、無抵抗な相手をメッタメタに打ちのめしました。子どもたちに手加減しろと言うのは無理です。
校長先生はそんな一方的な試合を見て、「勝った、勝った」と手を叩きながら喜んでいましたが、私はなんかいやな気分でした。こんなんでこれから中島小学校とうまく付き合って行けるのだろうか少し疑問です。
柱鉄の慢心、そして脱出
この年の少年団委員長選びも難航しました。候補として上げた金成文は団委員長としてはチョッとひ弱で珍しく選挙で支持されず、却下されてしまったのです。元々この学級は金富植と言う子がリーダーでしたが、東京に転校してしまい、その後新しいリーダーを育てられませんでした。
次に上げた候補は金柱鉄でしたが、この子は前年中二の時転校してきたばかりで、まだ静岡チョジュンに馴染んでいないと言うのが問題でしたし、何よりも少年団指導員である私の弟だというのが引っかかります。
しかし、いくら見渡しても他に候補がいませんでした。それでしかたなく金柱鉄を静岡チョジュン五代目の委員長にせざるを得なかったのです。
ところが、この柱鉄が委員長になって慢心したのか、態度が大きくなり、生意気だと、女の先生方から何かとひんしゅくを買うようになりました。東京第一チョジュンにいた頃は吹奏楽に専念し、おとなしかったのに地方の学校に来て、目立つようになり、少年団の委員長にまで選出されたので、チョッとテングになったのかもしれません。
担任の鄭福寿先生は、柱鉄は手に負えないと兄の私に「何とかして!」と食って掛るし、音楽を教える金永分先生も柱鉄のいる所では、授業をしたくないと、教室を飛び出してきました。
金永分先生は学校に音楽の先生がいないので、無理を承知で音楽を担当させたのですが、柱鉄が知ったかぶりして、授業中になんやかんやといちゃもんを付けるようです。聞いて見ると、たしかに金先生が間違っていましたが、それをみんなの前でバラされては先生なんてやってられません。
しかし、そんな気使いを柱鉄に要求するのは無理かもしれません。こいつはそれほど気の回る子では無いのです。柱鉄には人を小ばかにする悪いくせがあります。それが金永分先生だけでなく、鄭福寿先生までも困らせていたのだと思います。
柱鉄の慢心に兄の私が少年団指導員だと言うのはなかったです。私も柱鉄を弟だと特別視はしなかったし、かえって他の子より厳しく接したつもりです。柱鉄も私の前ではいつも素直で話も良く聞きました。ですから私がいる間は柱鉄を抑える事はできます。
ところが、私は中央学院に召集され、七月には学校を離れる事になります。そうすると、誰が柱鉄を制御できるのかそれが気懸かりです。
許宗海先生が「私に任せろ」と言ってはくれましたが、少し心配です。その心配が現実のものになってしまいました。
四ヶ月間の中央学院生活を終え帰って来てみると、柱鉄が学校から脱出して戻って来ないと言うのです。
柱鉄が何か問題を起こして許宗海先生にきつく叩かれたようなのですが、それに反発して朴鐘錫と言う子を連れて学校を飛び出してしまったのです。
朴鐘錫は日ごろから柱鉄がよく面倒を見て上げていた子で、柱鉄が学校を出ると言ったら一緒に行くとついて行ったようです。
柱鉄たちは勢いにまかせて学校を飛び出しては見たのですが、何処も行く当てがありません。うちのアボジは厳しかったので、もし柱鉄が家に帰って来たら逆に叱り飛ばされ、学校に連れ戻されてしまいます。柱鉄はそれを知っているので、しかたなくただ電車賃が続く限り遠くへ行ったそうです。そして、着いた所が大阪でした。
お腹をすかせ、大阪の町をブラブラ歩いていたら、すぐに誰かに「仕事しないか?」と呼び止められました。当時、大阪は二年後の万国博覧会の準備で沸き返っていて土木の仕事ならいくらでも有りました。柱鉄たちは体が大きかったので高校生だと言っても充分通用したようです。こうして柱鉄たちは何処かの飯場に住み込み、万博の土木工事をしながら暮らしたのです。
私が中央学院から学校に戻って来たのは、一一月でした。二学期が終わる頃で、学校では私にできる仕事は特に有りませんでしたので、校長先生が「一週間ほど時間をあげるので柱鉄を捜して見たら?」と言ってくれました。
とは言われても、大阪に居るらしいと言う事だけではどこをさがせば良いのか見当も付きません。でも、学校は私が居なくても大丈夫なようだし、この機会に「大阪見物でもして見るか」と、当ての無い旅に出たのです。
大阪と神戸には父のいとこに当たる「삼촌」(おじさん)たちがいます。あいさつも兼ねて親戚の家を転々と訪ねながら、柱鉄たちが居そうな所を歩いてみました。勿論無駄でしたが、中三と言えば、もう子どもでもないし、その内帰って来るだろうと、捜すのをやめました。
脱出して三ヶ月が過ぎ、一二月になると、さすがに柱鉄たちも友達が恋しくなってか、みんなに会いに静岡へ戻って来ました。ところが、友達はちょうどその時学期末試験を控え、学校で合宿学習の最中でした。
学校に電話して、友達を呼び出そうとしたのですが、それが先生にばれてしまい、あわてて静岡を離れる事になりました。ところが、この時は電車賃が名古屋までしか無く、とうとう名古屋駅で御用となってしまったのです。二人を引き取ったのは、許宗海先生と金斗千先生でした。学校に連れてこられた二人はやっと逃亡生活が終わり、ホッとしたのと、友達に合えたのがよっぽど嬉しかったのか、みんなと抱き合いながら涙を流していました。
柱鉄の脱出、たくさんの人を心配させ、学校にも多大な迷惑をかけ、決してほめられる事ではありませんが、柱鉄には学校では学べない良い社会勉強ができて、人間的にも大きく成長させる貴重な体験だったと思います。
中央学院への「召集」
私が中央学院に召集されたのは、七月でした。一学期の途中で期末試験やら少年団キャンプやらすべてが中途半端なままです。ですから正直私は行きたくなかったのですが、指名されると、拒絶はできません。
中央学院とは、朝鮮聡聯の政治教育機関で、聡聯や朝青の役員たちが主に受講するのですが、ときたま教員も呼ばれ幹部候補に養成されるのです。
なので、中央学院に召集されるのは名誉な事でもあるのですが、一度入ってしまうと終了するまで缶詰めにされ、外に出る事が許されない監獄のような所なので、行くとなればよっぽどの覚悟が必要です。
私が入ったのは朝青班二七期で、人数は六〇人ほどでしたが、ほとんど朝青で活動している人たちで、教員の私には場違いな感じがしました。そんな時、師範科同級生の姜正模トンムを見つけたときは、「地獄に仏」と思えるほど嬉しかったです。
姜正模トンムとは、珍しい事に七月一六日、誕生日が同じです。学院で逢ってからその後の祖国訪問や何かの講習でも行く先々で、いつも一緒になりました。はては約束でもしたかのように結婚相手も同窓生どうしだし、式もひと月しか違わないので、何か深い縁を感じるトンムでした。
私はチェサム[東京朝鮮第三初級学校]、彼はチェグ[東京朝鮮第九初級学校]とチェパル[東京朝鮮第八初級学校]で共に長く東京単設初級学校校長をしながら、様々な仕事を共にこなし、また時には楽しく酒を酌み交わし遊びもした無二の親友であり、絶対負けたくない最大のライバルでもありました。
特に林韓主トンムと三人で、夏休みの暑い最中、冷房もない湯沢のマンションで、ウチワ片手に、夜を明かしながら社会科の教材を編纂したのは、今でも忘れられない思い出です。
そんな姜正模トンムと親しい関係になる出発点が中央学院での出会いでした。
中央学院には、静岡から李勝美トンムも呼ばれていました。このトンムは、私より三ツくらい歳下で、朝青活動の経験は浅いのですが、ガッチリした体つきで男気があり、面倒見の良いトンムです。日本の高校を出た後、高松部落で若い連中のガキ大将になり、フラフラしていたところ朝青委員長に諭され、高松班の班長として朝青に引き込まれました。そして青年学校でウリマルも習いまじめになって本格的に専任として朝青活動を始めようと、中央学院に入ってきたのです。
中央学院では毎日学習と討論で明け暮れましたが、息抜きとして運動やリクレイションもありました。
九月には全国的な中央体育大会が開催されたのですが、中央学院の聡聯班に中央蹴球団の金英植主将がいたので、学院でもにわかにサッカー部を作って大会に出る事になりました。学院生の中には学生時代サッカー部で活躍した人もいて上手な選手もいましたが、人数が足りず初めてボールを蹴る人も混じっていました。私も参加しましたが、私の子どもの頃はサッカーより野球ばかりしていたので、足より手を遣う方が得意で、ゴールキーパーとして出させてもらいました。李勝美トンムもボールを蹴るのは初めてでしたが、数合わせに防護手として出場しました。
寄せ集めのサッカー部でしたが、予選では結構頑張って一勝一敗で、最後の朝鮮新報社に勝てば中央大会に出場できるところまで来ました。
その最後の試合も一対一できて、引き分けでも予選を突破できます。
もう時間切れ寸前、審判が笛を鳴らそうとしていたところで、私の前に力の無いボールが転がってきました。これを拾って外に蹴り出せば試合終了です。私は「マイボール」と言って手を上げて待ち構えていたのですが、李勝美トンムがほっとけばいいのに親切にも私にパスしてくれたのです。それがなんと変な方向にそれてしまいコロコロとゴールに転がって行きました。私は慌てて飛びつきましたが、届きませんでした。
これで中央学院でのサッカーは終わったのです。あのオウンゴールがなければ、もう少しサッカーを楽しむ事ができたのに残念でした。
面倒見が良すぎる李勝美トンムの性格があだとなったのです。李勝美トンムは中央学院を終了した後、朝青中部支部委員長になりました。
日本の高校を出て、ウリマルもよくできない中、よく頑張ったと思います。
いざ! 浜松チョジュンへ
中央学院では主にスリョンニム(金日成元帥)の革命歴史を勉強しました。幼年期から祖国解放まで時間をかけたっぷりと教わり、そして夜は自己総括してスリョンニムに対する観点と態度を正しました。
こうして私たちはスリョンニムの教えに忠実な「革命戦士」に養成されて行ったのです。しかし、たった四ヶ月間で人が簡単に変れる訳がないのですが、学院を出てみると、何か偉くなった気分になり、また周りからもそんな目で見られました。みんなに期待されると「それに応えなければ…」と、思うようになるものです。
年度が終わってすぐ、私は浜松チョジュンの教職同分会長に任命されました。教員人事はいつも年度末ギリギリになって行なわれるのに今回はすこし早すぎます。本部の急いだ人事配置に事の緊迫性と、私に対する期待の大きさが伝わってきます。
浜松朝鮮初中級学校は、一九四六年四月二三日に創立された伝統ある学校です。
一九四九年の「学校閉鎖令」の試練を乗りこえ、静岡県同胞の血のにじむ闘いを経て民族教育を死守してきました。
一九五五年には高校まで併設され、多くの優秀な人材を輩出して、静岡での民族教育発展に大いに貢献し高校が廃止された後も静岡朝鮮初中級学校と称して、静岡県同胞に愛され誇りと希望を与えてきました。
ところが、一九六四年に静岡市に新しい学校が創設されると、同胞たちの関心は静岡チョジュンに移ってしまい、前々年(一九六七年)静岡に新校舎が建った後は浜松チョジュンの存在は薄くなってしまいました。そして前年は浜松で一番の働き頭であった許宗海先生まで静岡に移ると、学校は口の開いた風船のように急激にしぼんで、創立以来最悪と言えるほど落ち込んでしまいました。やる気をなくした学校は、事業の方向さえ定まらず、前年は校長が二人も交代すると言う混乱ぶりまでさらけ出しました。結局、浜松チョジュンは静岡チョジュンにはるか先を越され、父兄や生徒からも信頼を失い、先生方は自信を無くし深い敗北感に陥っていました。
私が浜松行きを命じられたのは、ちょうどそんな時です。
新校舎が建ち、教育設備が揃い生活条件も整っている学校から様々な問題を抱え運営も苦しい学校への転勤は誰も望まないものです。しかしその時の私は難しい職場で自分の力を思う存分発揮したいと勇んでいたので、浜松行きを喜んで受け入れました。
私に任された使命は、教職員同盟分会長として、沈んでいる浜松チョジュンの教員集団に「カツ!」を入れ、 みんなに勇気と希望を与え、力強く学校事業を推し進める事です。いつか静岡チョジュンで、李誠弼先生が旋風を巻起したように、今度は私が浜松チョジュンで改革の嵐を吹かせて、浜松チョジュンにかつての活気と失った輝きを取り戻すのです。
私は嬉しい事に浜松のトンポたちからは始めから「改革者」として、大きな期待され、暖かく迎えてもらえました。静岡チョジュン生え抜きの教員として、草創期から五年間の間に積み上げた実績があり、中央学院を終了したばかりと言う事もあり、私が崩れかけた浜松チョジュンを必ず立ち直してくれるものと信じているのです。
私は父兄や生徒たちからも敬われ、教員たちからも慕われ、私がやろうとする事はなんでも支持され、どんな事でも快く受け入れてもらえます。
こんな幸せな事はありません。
私はその信頼に誠心誠意応えなくてはなりません。
学校は落ちるとこまで落ちたので、これからは上昇するだけです。
キチンと仕事さえすれば、元々地力のある学校です。伝統ある浜松チョジュンの栄光と誇りをかならず取り戻せるはずです。
私は「ここでいっちょうオトコをあげたろカー!」という野心を胸に秘め、堅い決意と覚悟を持って新たな「戦場」へと向かったのです。
いざ! 浜松チョジュンへ!!
(おわり)35
学校創立五〇周年記念行事に参加して
- 静岡チョジュンのはじまりは私の教員生活のはじまり *28号
- 静岡チョジュンのはじまり① 一九六四年度・上*29号
- 静岡チョジュンのはじまり② 一九六四年度・下 *30号
- 静岡チョジュンのはじまり③ 一九六五年度 *31号
- 静岡チョジュンのはじまり④ 一九六六年度 *32号
- 静岡チョジュンのはじまり⑤ 一九六七年度・上 *33号
- 静岡チョジュンのはじまり⑥ 一九六七年度・下 *34号
- 静岡チョジュンのはじまり⑦ 一九六八年度 *35号
- 朴英植理事長と「静岡チョジュンのはじまり」