「第二の4.24闘争近づいている」ペ・ヨンエさん、ソウルで特別招聘講演会
スポンサードリンク
モンダンヨンピルが4.24教育闘争70周年ペ・ヨンエ先生特別招請講演を開催
「統一ニュース」(4.21)チョ・ジョンフン記者
一九四五年、解放の喜びもつかの間、分断された祖国に帰れなかった在日同胞たちは、子どもたちの教育に力を入れた。一九四八年、日本全域に五五六の朝鮮学校ができたが、連合軍総司令部(GHQ)と日本政府はこれを歓迎しなかった。結局閉鎖令が下され、これに在日同胞たちは強く抵抗した。「4.24教育闘争」の始まりだった。
「4.24教育闘争」当時の一枚の写真に幼い女子児童が日本の警官によって教室の外に投げ出されている場面がある。写真の中の人物である朝鮮学校の元教師・ペ・ヨンエさんは、「ウリハッキョを奪われるわけにはいかなかった」と振り返った。
「4.24教育闘争」七〇年を迎えて「モンダンヨンピル」(クォン・ヘヒョ代表)は、二一日午後、ソウル麻浦区東橋洞の青年文化JUにて、朝鮮学校で三一年間教鞭を執ったペ・ヨンエ先生の特別招請講演を開いた。
「姓はペ、名前はヨンエ」と自己紹介したペ・ヨンエさんは一九二九年に日本に渡った両親の五番目の娘として一九四三年に日本の岐阜県で生まれた。一九四八年に愛知県守山にあった「朝聯守山初等学院(守山朝鮮小学校)」に入学した彼女は、八歳だった一九五〇年一二月二〇日、朝鮮学校閉鎖令で学校に押し寄せてきた日本の警察によって教室から投げ出された(写真)。
ぺさんは「三年生になった頃、米国の指示を受けた日本の警察が朝鮮学校をつぶして弾圧していると聞いた」「植民地から解放されたのに、私たちが自分の民族の言葉や文字を学ぶことの何が悪いのだろうと思った。日本人が悪い、アメリカ人が悪いと思った」と当時を振り返った。
「オモニが毎日学校に行った。警察が先生を捕まえていくと言って交代で先生を守った。(一九五〇年一二月二〇日)朝起きると下の姉さんと真ん中の姉さんがいなかった。私は何かあると思って学校に走っていった。同胞のオモニが、キム・ヒョスンオンニの家で待っていなさいと言ったので、そこで様子を見ることにした」
八歳のペ・ヨンエの目に映った当時の状況は、緊迫していた。赤いヘルメットに拳銃を携帯し、警棒を手にした日本の警官たちが三台のトラックに乗って学校から出てきた。中級部の上級生たちが「警官が行った」と叫ぶのを聞いてヨンエは家を出て学校に走っていった。
一九五〇年一二月二〇日、守山朝鮮小学校を襲った日本の警官たちが、児童を窓の外に投げ出す場面の赤い円の中の子どもがペ・ヨンエさんだ。
前日までの、授業をしていた学校の姿はなかった。「入り口は細い針金でぐるぐるに巻かれて、窓には厚い板が貼り付けられた。全身が震えた。寒気がした」
中級部の上級生たちがペンチで針金を切って、板をはがした。他の所で勉強しなくてはと思って、教室に入って机やいす、黒板などを外に出す上級生たちを手伝っていると再び三〇人ほどの日本の警官たちが押し寄せてきた。
「警察が前から、横から、裏門から入ってきて、上級生たちを手当たり次第に殴りながら怒鳴った。上級生たちが抵抗すると、警棒で殴った。上級生たちに手錠を掛けて、トラックに乗せた。私はどうしていいかわからずに『オンニ、オッパを連れて行かないで』と叫んだ。警察が私を抱き上げて運動場に投げ出した。運動場の朝礼台に頭をぶつけて全身が痛かった」
当時愛知県にあった三つの朝鮮学校は閉鎖され、日本の学校の分校という形になった。ペ・ヨンエさんが通った守山朝鮮小学校は、日本人の教員と朝鮮人の教員が一緒に働く自主学校となった。その日の記憶がペ・ヨンエさんの人生の土壌となった。
ペさんは「総連の活動をしていて急死した二番目の姉が『あなたは大きくなったら民族教育のために働きなさい』といつも言っていた。私の心の中には姉の言葉が残っている」「お金がなくて他の人たちが電車を乗るときも、一時間掛けて自転車で朝高に通った。教員養成所で勉強して、働きながら朝鮮大学校通信学部で学んだ」という。
名古屋の私立学校の分校で教鞭を執った彼女の逸話。ある日、一年生の児童の手を取って一時間歩いて日本脳炎の予防接種を受けるために本校に行った。学校に着くと本校の児童たちが朝鮮人の児童たちに汚物を投げつけた。腹が立ったペさんは、校長先生を訪ねて抗議し、児童の謝罪を取り付けた。
六年生を担当していたある日、児童たちが日本人の教員の授業を拒否した。日本人の教員が植民地になったから朝鮮は発展できたと話したからだった。ペさんは、教員と保護者を呼んで緊急集会を開いた。そして日本の学校の分校を朝鮮人の自主学校に作っていった。
ペさんは、その後も自主学校を作るために積極的に働いた。福岡初中級学校、北九州初中級学校の教育環境を変えて、小倉朝鮮幼稚園の園長をしながら朝鮮学校の発展に貢献した。
三一年間の教員生活を終えたペさんの「4・24教育闘争」は七〇年目の今も続いている。日本の安倍政権下で強まる一方の朝鮮学校差別との闘いだ。
「第二の4.24闘争」が近づいている
彼女は「第二の4.24闘争」が近づいている。口にするのもおこがましいヘイトスピーチが公然と行われている。子どもたちがチマチョゴリを着られない」と憤慨した。
在日朝鮮人への差別は北と日本の関係が悪化する度にさらにひどくなる。ペさんは二七日に板門店で開かれる南北首脳会談に大きく期待している。
「氷がとけるでしょう。統一のために最後の韓国のヒモ、北朝鮮のヒモ、すべての力を合わせて統一を実現しよう」
そして七〇年前に守山朝鮮小学校に入学して習った歌を歌った。
「白頭山は朝鮮の山、朝鮮の一番高い山、忘れないで守ろう、私たちの山、取り戻した白頭山、私たちの国の山、忘れないで守ろう 私たちの国の山」
この日の特別招請講演には、クォン・ヘヒョモンダンヨンピル代表、金明俊監督ら五〇人余りの市民が集まった。49
スポンサードリンク
祖国の分断が日本における民族教育を、より困難なものにした。南北祖国の融和と統一へ全民族の力を結集するために、在日同胞の一人として微力をささげたい。