朴英植理事長と「静岡チョジュンのはじまり」
スポンサードリンク
金柱宇・「静岡チョジュンのはじまり」筆者
追悼文を見て知りました。本が届いて何気なくページをめくると、「在日朝鮮学生支援会の朴英植代表理事を偲ぶ」という見出しが目に飛び込んできたのです。まさかと思いながら読み進むと、間違いなく私が知る朴英植理事長でした。それでも信じられず即刻、金日宇(本誌編集長)氏に電話をして聞き直したほどです。
私が朴英植理事長に最後にお会いしたのは、昨年の四月、朝鮮文化会館で行われた「祖国からの教育援助費と奨学金六〇周年記念大会」の場です。その時は、圧倒されるくらい気力にあふれてとても元気でしたので、こんなに急にお亡くなりになるなんて思いもしませんでした。まだ、やり残したことがたくさんあったと思います。まことに残念でなりません。
私は一九六四年に東京朝高の師範科を卒業して、開校したばかりの静岡朝鮮初中級学校で教員生活を始めたのですが、理事長は、その二年後に朝大を出て、朝青静岡県本部指導員に配置され、やがて委員長として活動したのです。しかし、私とは同じ静岡にいたとはいえ、学校と本部はだいぶ離れており、ほとんど会うこともなく、たまたま学習会や集会で、顔を見る程度、あまり話をしたことはありません。でも、理事長の妹の朴美愛先生とは静岡チョジュン(初中)で一緒に働いていたので、朝青委員長には親しみがありました。朴先生は私と同じ年でしたから、職場では何の気兼ねもなく、楽しく仕事をしました。私にとって理事長は、朝青委員長というより、朴美愛先生のお兄さんという印象の方が強かったです。
私は草創期の静岡チョジュン(初中)で五年間勤務した後、浜松チョジュンに移動してしまい、朴理事長も父親の事業を受け継ぎ、地元の富士市で商企業を始めたので、お互い遠く離れて、会うこともなくなって、記憶もだんだん薄れていました。
朴英植理事長に再会したのは、それから四〇年近くも過ぎてからです。
二〇〇六年一一月に行われた、中央教育会会長の集まりだったと思うのですが、ある大会で、高い壇上に朴英植朝青委員長によく似た人が中央の偉い幹部たちと並んで堂々と座っているのを見たのです。まさかと思いながらよくよく見たらやっぱりそうです。大きな丸い顔に、太いべっこう縁のメガネ、あの朝青委員長に間違いありません。なんでそこに座っているのだろう思ったら、なんと朝鮮大学校の運営委員長か理事長をしていらっしゃるとのことでした。それにはびっくりしました。
そういえば、朴英植理事長が静岡チョジュンの教育会会長になったという話を聞いたことがあります。でも、あの小さな学校の教育会会長がどうやって民族教育の最高学府の理事長になられたのでしょうか。とても信じられませんでした。凄いことです。
私は四〇年という月日の長さを実感しながら、雲の上の人になってしまった理事長をまぶしく見つめていました。でも、「あの朝青委員長」と思うと、なんか懐かしく、静岡の同胞社会にかかわった者としてとてもうれしくて、ちょっと誇らしい気持ちになりました。
親しい人と何十年ぶりに会ったのに、知らんぷりは出来ません。すぐにでも話しかけたい気持ちにかられました。でも、あのころと違って、私の髪は薄くなり、だいぶ老けたので理事長は、私をわからないかも知れません。それでも、挨拶だけはしたいと思い、大会が終わるとすぐに理事長のもとへ駆け寄り、恐る恐る声をかけました。
「リサジャンニム(理事長) スゴハシムニダ。私、わかりますか?」と、遠慮気味に声をかけると、「あれぇ~トンムは…静岡の学校にいただろう。知っているよ…よく知っているとも。静岡ではトンムたちの面倒をみてあげたじゃないか…で、今は何をしているの?」「東京チェサム(第三初級)教育会の副会長か…たいへんだろ~教育会は難しい仕事だけど、お互い頑張ろうな~」と、肩をたたきながら、私の手を力強く握ってくれました。
私は懐かしさと、理事長が私を覚えていたのに感激し、涙が出そうになりました。
その次に、理事長と会ったのは、それからまた一〇年たった、昨年の四月、「教育援助費六〇周年記念大会」のときです。その時も高い壇上に堂々と座っていたのですが、前より貫禄がついたみたいで、私はなんとなく近よりがたい感じになっていました。
しかし、帰り際に十条駅前で偶然みかけたので、この時とばかり駆け寄ってあいさつしました。
そうしたら、「お~トンム、トンムだろ…あの『静岡チョジュン』のことを書いた…あれ、面白かったよ~だけどウソばかりじゃないか~」と、言うのです。でも、目は笑っているので、わたしをからかっているのではないかと思い、「ホントの話よりウソの方がおもしろいでしょ」と言い返しました。これには理事長も「それもそうだな~」と大笑いしてくれました。
すると、今度は真顔で「だけど…なんで私のことは書かれていないんだ…トンムたちの面倒をよく見てあげただろう~それなのに…」と、少し怒っているようでした。
言われてみると、「そういえば…」。返す言葉が見つからず、ただ「ミアナムニダ」と、謝るほかりませんでした。これが理事長との最後のやりとりになりました。
× ×
私が「静岡チョジュン」について書き始めたのは、二〇一四年一〇月五日、静岡朝鮮初中級学校創立五〇周年祝賀行事に招かれ、参加したのがきっかけでした。
私たちの民族教育は、日本当局の敵視政策と民族的差別を受けて、どの学校も困難な状況に陥っていました。とくに地方の学校は、児童・生徒数が激減して、存続すら危ぶまれるほどです。
静岡のハッキョも例外ではなく、初・中で全校生が二〇人だと聞きました。どうやって記念行事を行うのだろう、また当日は大型台風が東海地方を直撃して大荒れの天候でしたので、静岡に向かいながらも、心配で心配で、気持ちは軽いとは言えませんでした。ところが、ハッキョに着くと、大雨にもかかわらずたくさんの人が集まっていました。にぎやかで、活気にあふれていました。私はホットしました。様々な困難にもめげず、ウリハッキョを守ろうとがんばっている静岡の同胞、学父母、ソンセンニムたちに深い感銘を受けました。
県本部の李明裕委員長が忙しく動き回っていました。今年十年になる朱寧春校長もです。うれしいことに、東京朝中時代の教え子だった、任善愛がここで先生をしていました。東京チェサムの出身です。静岡と東京チェサムの縁は、ここでもつながっているのだなと、自分ひとり感心していました。当時の教え子や、あの時一緒に教壇に立ち苦労を共にした先生たちと懐かしい昔話に花をさかせることができました。本当に楽しいひと時を過ごしました。そして静岡のハッキョを守るために尽力している人々の姿に胸を熱くしました。
五〇周年記念事業は、台風の中でしたが、激しい風をはねのけ、大盛況を収めました。その帰り道に、金日宇氏とばったり会って、あれこれ話し込むうちに、静岡ハッキョのことを何か書いてくれないかと、頼まれました。
私は静岡朝鮮初中級学校が開校した時、この学校で教員活動をはじめたので、静岡チョジュンの草創期を知る、数少ない一人です。創立五〇周年を迎えた今、数々の困難をいかに克服し、学校事業を発展なさせてきたのか、後世に語り継ぐのは、私の使命だと思いました。
しかし、私は日本語が得意ではなく、書く自信がいりませんでした。でも金日宇氏が手直ししてくれるというので、忘れかけた記憶をひとつひとつ拾い集めながら書き始めました。
こうして「静岡チョジュンのはじまり」が二〇一四年一一月発行の28号から35号まで、八回にわたり『朝鮮学校のある風景』に連載されたのです。
私が書いたこの話は、静岡にハッキョが建設されて五年間の草創期の物語です。しかし、内容は、私の体験談で、そのほとんどが私事、恐縮するばかりなのです。それでも五〇周年にあたり、学校創立の歴史を語るという意味で、学校 教育に関係した人々をなるべくたくさん紹介し、みんなに知ってもらおうと心がけました。
学校建設にあたって、多額の資金をだされた商工人やトンボ[同胞]たち、学校運営を担った教育会長や役員、通学バスの運転手や食堂のアジュモニ、また教育部長をはじめ総連県本部の役員たちの姿をできる限りたくさん書きました。
ところが朴英植理事長の名前がどこにも出てこないのです。
朴理事長は一九八五年から二〇〇四年まで、なんと一九年間、静岡朝鮮学園理事長、静岡朝鮮初中級学校の教育会会長を務められた方です。静岡チョジュンを語るとき、朴英植理事長抜きには決して語ることが出来ません。それなのに私が書いた「物語」は、草創期の話ですから朴英植理事長が静岡チョジュンに携わっていた時期とは異なるので登場しなかったのでしょう。でも、学校草創期の頃、朴理事長は朝青委員長をしていたのですから、当然、名前を載せなくてはならなかったと思います。
朴理事長は「静岡チョジュンのはじまり」を読みたくて、わざわざ『朝鮮学校のある風景』のバックナンバーを取り寄せたと聞いています。五〇年も前の懐かしい人たちに会えて、楽しく読まれたと思います。ところがいくら探してもそこに自分の名前がないのが、どれほどがっかりされたでしょう。
あの日、十条駅前で「ウソばかりじゃないか~」と、皮肉ったのは、私への恨み言だったのかも知れません。
しかし、理事長!
じつは、「静岡チョジュンのはじまり」にも当時の朝青委員長の話が載っているのです。
『朝鮮学校のある風景』35号の二七二ページの下段に、
「李勝美トンムは、日本の高校を出た後、高松部落で若い連中のガキ大将になり、フラフラしていたころ、朝青委員長に諭され、高松班の班長として朝青に引きこまれた」
というエピソードが記されています。そうです。その朝青委員長というのがまさに、朴英植理事長なのです。そのころ、委員長を名前で呼ぶのではなく、みんな親しみをこめて「委員長! 委員長!」と呼んでいました。それで名前が抜けてしまったのだと思います。
李勝美トンムはその後、青年学校でウリマルを学び、中央学院にも行って、朝青中部支部委員長にまでなりました。理事長が朝青委員長の時、一人の青年を正しく導いたのです。そうやって、どれだけ多くの若者を朝青組織に引き入れ、立派な朝鮮青年として育て挙げたことでしょう。本当に理事長は朝青トンムたちを兄貴分のようによく面倒をみたことでしょう。
実に申し訳なく、残念です。
理事長とは五〇年前の懐かしい昔話をたくさんしたかった、「静岡チョジュンのはじまり」の感想や厳しい意見もちゃんと聞きたかったです。もうそれができなくなりました。とても悲しいです。
朴英植理事長のご冥福を心からお祈りいたします。49