4.24教育闘争ら70年:15のQ&A
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今年の4・24教育闘争70周年は、4つの観点で特別な意味があると思っている。
一つは、朝鮮学校閉鎖令に反対して決死的に闘い抜き、輝かしい「4・24の闘争伝統と闘争精神」を築きあげ後世に伝えた70周年であること、二つ目は、金日成主席がはじめて朝聯と各階在日同胞代表団と接見し、在日朝鮮人運動の重要性と、4・24教育闘争の歴史的意義を強調した70周年であること、3つ目は、4月24日を、在日同胞と学生たちの「永遠の記念日」に決めた年から70年になること、四つ目は、民族教育擁護闘争で尊い命を落とし犠牲になった金太一少年の70周忌の年であることだ。
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呉亨鎮
在日朝鮮人歴史研究所 顧問
公益財団法人朝鮮奨学会 顧問
もくじ
- 1 その1 4・24教育闘争は、在日朝鮮人の民族教育擁護闘争史上でどのような意義があるのか?
- 2 その2 4・24教育闘争について語った金日成主席の「教示」などはあるのか?
- 3 その3 総連中央の故韓徳銖議長や故李珍珪第一副議長が、4・24教育闘争について発言した記録等は残っているのか?
- 4 その4 4・24教育闘争に対する祖国同胞たちの支持、声援はあったのか?
- 5 その5 4・24教育事件当時、在日朝鮮人学校弾圧に対する日本の国民世論、国際世論はどうだったか?
- 6 その6 4・24教育闘争は、現場にいた一部交渉メンバーが挑発的に行動するなど暴力的行為を行った結果、不必要な弾圧と被害を招いた事件だという見方もあるようだが?
- 7 その7 4・24教育闘争の先頭に立って闘った同胞たちの中で、南朝鮮に強制送還された人はいるのか? その人たちはその後どうなったのか?
- 8 その8 4・24教育弾圧を主導したのはGHQのか、日本政府なのか?
- 9 その9 「4・24教育闘争」「阪神教育闘争」、「4・24教育弾圧事件」「4・24事件」などさまざまな名称があるが?
- 10 その10 四月二四日を、「永遠の民族教育記念日」と決定したのはいつか?
- 11 その11 4・24教育闘争に関する歌があると聞いたが?
- 12 その12 「4・24の教育闘争」の「伝統」「精神」とはどのようなことをいうか?
- 13 その13 東京青山霊園内の「解放運動無名戦士の墓」に、4・24教育事件で犠牲になった金太一少年、朴柱範先生を「合葬」した経緯は?
- 14 その14 体験者として特に印象に残っていることは?
- 15 その15 少年の頃、4・24教育弾圧を受けた体験者の一人として、現在、日本政府が朝鮮高校生たちを無償化対象から除外していることについてどう思いますか?
その1 4・24教育闘争は、在日朝鮮人の民族教育擁護闘争史上でどのような意義があるのか?
それはアメリカ占領軍(GHQ)と日本政府の不当な朝鮮学校閉鎖令に反対して大人、子どもを問わず総決起し、自主権と尊厳、民族教育の権利を固く守り抜くことで、在日朝鮮人の愛国心と気概、不屈の闘志を世界に示した闘いだった。
民族教育に対する弾圧は、在日朝鮮人が、一九四五年八年一五日の祖国解放とともに、奪われていた民族の魂と우리말、우리글(自分たちの言葉と文字)を取り戻し、子どもたちに民族教育を受けさせるため「国語講習所」、「朝聯初等学院」、「青年学校」等を設立した当初から今日まで毎日のように加えられたと言っても過言では無い。
過去七〇余年間の民族教育を守る闘いには何度かの山場があった。一九四八年の「4・24教育闘争」と一九四九年一〇月一九日の二次「朝鮮学校閉鎖令反対闘争」、日本政府が一九六六年から一九七二年迄、七回も国会上程を企図した「外国人学校法案」を七年にわたって破綻させた闘争、朝鮮高級学校のスポーツクラブの公式戦参加やJR定期の学割適用、朝鮮学校への助成金支給、卒業生の日本の大学受験資格などを求めた九〇年代の闘い、そして現在の「朝鮮高校無償化要求、朝鮮学校に対する補助金停止反対闘争」等である。
中でも、兵庫県知事から朝鮮学校閉鎖令の撤回と逮捕者七三名の釈放を含む「五項目の合意」を勝ち取った四八年四月二四日の教育闘争は、延べ一一二万余人が参加し、死亡者二人、負傷者一五〇余人、逮捕者三〇七六人、起訴二一二人、軍事委員会裁判九人、軍事裁判人二九人、日本裁判一六九人、南朝鮮強制送還者 多数を出した解放後最大の闘争として歴史に残っている。
当時、朝聯大阪西成支部の大会報告書では「四月教育闘争は、勇敢な闘争であり、あまりにも有名な事件であった。全世界に世論化され、全世界の世論は、私たちの闘争の正当性を指摘している。…四月闘争は、民族解放史に残る輝かしい教訓である」と強調している。
その2 4・24教育闘争について語った金日成主席の「教示」などはあるのか?
4、24教育闘争が起きた八か月後、一九四八年一二月二三日に発表された「教示」がある。
一九四八年九月九日に、朝鮮民主主義人民共和国が創建され、抗日パルチザンの英雄 金日成将軍が首相に就任した。その一か月後の一〇月八日、金日成首相は朝聯と在日同胞代表たちを首都ピョンヤンに招待したい旨の国際電文を送った。(「解放新聞」1948年10月12、15日付)朝聯では、電文を大きな感動をもって受けとり、共和国創建を熱烈に祝賀する大会などをひらいた。また朝聯第五回全体大会(1948・10・14~16)を開催して本国派遣代表一〇〇人余りその名簿を発表した。
しかしGHQと日本政府は彼らの訪朝を認めなかった。そこで朝聯は、代表一〇人余りを新たに選出して朝鮮民主主義人民共和国創建在日朝鮮人祝賀団を構成した。代表は、小舟をチャーターして、東海の冬の荒波を決死で越え祖国を目指し、一九四八年一二月二三日、金日成首相の接見を受ける歴史的な栄誉に授かった。金首相は、その席で決死の覚悟で祖国を訪問した祝賀団員たちを暖かくねぎらい、在日朝鮮同胞たちが日本で展開している教育闘争の意義について言及、在日朝鮮人の熱烈な愛国精神と勇敢な闘いに敬意を表した。また同胞たちが自己の神聖な権利を最後まで守り抜くよう鼓舞激励した。主席が4・24教育闘争を高く評価した歴史的な教示である。(参照・「재일조선인운동의 강화발전을 위하여」(在日本朝鮮人運動の強化発展のために)7~8頁)
その3 総連中央の故韓徳銖議長や故李珍珪第一副議長が、4・24教育闘争について発言した記録等は残っているのか?
残っている。例えば 故韓徳銖議長議長は、著書「主体的海外僑胞運動の思想と実践」(1986年5月25刊 未来社)の第二編「在日朝鮮人運動の歴史と現況」の第一章「在日朝鮮人運動の路線転換と在日本朝鮮人総聯合会結成」(151頁)に一九四八年4・24教育闘争と一九四九年一〇月一九日の二次「朝鮮学校閉鎖令反対闘争」の歴史的意義について書いている。
また故李珍珪副議長が総連の教育文化部長当時、大阪で開催された4・24教育闘争一〇周年記念中央大会場で講演した内容が評判を呼び、「朝鮮民報」(1958年5月13日、5月17日、5月20日付)に「빛나는 4・24의 전통.그를 계승발전시키자」(輝く4・24の伝統、これを継承発展させよう)というタイトルで上、中、下に分けて紹介されている。
その4 4・24教育闘争に対する祖国同胞たちの支持、声援はあったのか?
国内からも海外からも熱烈な支持声援があった。占領軍と日本政府に対しては強い抗議があった。
一九四八年4・24教育事件当時は、まだ南北に正式な政権が誕生していなかった。一九四九年一〇月の第二次教育弾圧は、南北に別々の政権が樹立された一年後であった。
北は建国前も共和国創建後も一貫して在日同胞の教育闘争を力強く支持声援してくれた。
しかし南の政権は、共産主義者たちが朝鮮学校を運営しているというGHQと日本政府に同調し、朝鮮学校弾圧政策を是認した。そればかりか押収した朝聯や朝鮮学校の莫大な財産を韓国側に引き渡すよう裏でロビー活動までした。民団組織もそのような動きに追随した。神戸の建青は占領軍の手先となって動いた。
4・24教育事件当時、南北を問わず国内の多くの団体が占領軍と日本政府に対し民族的怒りをもって厳重抗議し、声明や談話を次々と発表したことが当時の同胞新聞に掲載されている。弾圧の真相解明のため弁護団を派遣するという記事もある。ソウルでは学生たちが集会やデモを行い、警官たちと衝突し重傷者まで出たという。朝鮮教育協会は、「民族の言語は不滅、民族の生命を守れ!」との激励電を送って来た。在中国同胞や在米国同胞たちも民族的怒りをもって占領軍と日本政府に抗議し、激励のメッセージを送って来た。
その5 4・24教育事件当時、在日朝鮮人学校弾圧に対する日本の国民世論、国際世論はどうだったか?
進歩的な政党、社会団体の人たちは、朝聯組織や朝鮮学校に対する弾圧を日本の民主、平和勢力に対する弾圧の前触れとして捉え、在日朝鮮人と連帯して闘った。闘争に参加し、逮捕、投獄され刑を受けた日本の議員や労働者、青年達もいた。
しかし、当時の大部分の日本国民はGHQと日本政府の悪質なデマ、反朝鮮人、反朝鮮学校宣伝の世論操作に惑わされ、弾圧を是認するか無関心を装っていたようである。
その6 4・24教育闘争は、現場にいた一部交渉メンバーが挑発的に行動するなど暴力的行為を行った結果、不必要な弾圧と被害を招いた事件だという見方もあるようだが?
闘争や対外交渉の過程で得た教訓はあるが、相手のデマや宣伝に乗ってはいけない。
先に不当な朝鮮学校閉鎖命令を出し、挑発したのはどちら側だったのか? 朝鮮に「賊反荷杖」ということわざある。日本語では「盗人猛々しい」という意味だ。
朝鮮学校閉鎖令を黙って受け入れ、交渉もせず、静かにしていれば弾圧も被害も受け無かったと言えるだろうか?
在日朝鮮人歴史研究所のスタッフが、4、24事件当日、知事室前で、朝鮮学校側代表団をガードしていた梁相鎮さん(当時は青年同盟員、故人)の証言を聞いたことがある。彼は「交渉が長引く中、知事室から大声が聞こえた。その間知事室前の米憲兵隊(MP)は、交渉団や青年たちを退去させようと拳銃を出して私たちを威嚇して来た。金昌植君や女青年が胸をはだけて『撃つなら撃ってみろ!』『私達は死んでも朝鮮学校を絶対に守る』と大声で叫び、彼らをたじろがせるなどの抵抗等はした。しかしこちらから挑発的なアクションを起こしてはいない。むしろ指導部から武装したMPや警官たちの如何なる挑発にも乗ってはダメだと強く注意を受けていた」と話していた。
四月二六日横浜から、神戸へ来て記者会見をした米第8軍司令官アイケルバーガーが、在日同胞をみな共産主義者、与太者扱いし、クイーン・エリザベス号のような大きな船が身近にあればみな本国へ送還してしまいたいと攻撃的で侮辱的な発言をしたのは彼らの弾圧企図を露骨に表している。
彼らは、朝鮮侵略戦争を前に「朝鮮学校は北の金日成政権を支持する共産主義者養成の巣窟」だとし、朝鮮人が南北連席会議や済州島4・3事件、5・10単独選挙反対闘争等、朝鮮半島の動きに連帯して赤化革命を起こし、占領政策を覆そうとしている等と喧伝していた。朝鮮学校閉鎖命令を徹底的に実行して、これに反対する勢力は治安を犯す「暴徒」として容赦なく弾圧する方針を固めていたことは明らかである。
GHQの命令によって出された一九四八年一月二四日の、「朝鮮人設立学校の取り扱いに関する文部省学校局長通牒」等は「先制攻撃」の証拠である。
その7 4・24教育闘争の先頭に立って闘った同胞たちの中で、南朝鮮に強制送還された人はいるのか? その人たちはその後どうなったのか?
「解放新聞」一九四九年四月一八日付に、「教育事件六同志、突然本国に送還、金石松同志外五同志、一五日大阪駅 出発」との報道が出ている。GHQと警察は家族にも知らせぬまま送還しようとしたが、その情報をいち早くキャッチした朝聯幹部や同胞達が大阪駅へ飛んで駆け付け何とか見送ることが出来たという。大阪駅頭で「인민항쟁가(人民抗争歌)」を高らかに合唱し、涙の中で互いに励ましあったという。彼らは、私たちの真の祖国は人民共和国だ! 私たちは南で、あなた方は日本で、勝利するまで共に戦い抜きましょう! と互いに固く誓い合ったと言う。
教育事件関係で南に強制送還されたのは六名だけではなく、三三名であると書いている資料もある。
送還された彼らの、南朝鮮での消息資料は現在まで発見されていない。
到着と同時に米軍と李承晩反動政権によって再投獄、拷問、銃殺刑等を受け犠牲になったであろうといわれている。
その後に朝鮮戦争が勃発し、歳月も流れたので消息を知る術がない。
その8 4・24教育弾圧を主導したのはGHQのか、日本政府なのか?
日本は、占領軍支配下にあったので弾圧を主導したのはGHQである。その最高司令官がアメリカのマッカーサーである。弾圧を直接指揮したのは第8軍司令官アイケルバーガ―である。日本政府はその忠実な手先、共犯者であった。
その9 「4・24教育闘争」「阪神教育闘争」、「4・24教育弾圧事件」「4・24事件」などさまざまな名称があるが?
どれも間違ってはいない。その時々の状況、対象によって使い分けているようだ。
「阪神教育事件」の場合は事件が起こった主な地域を指している。「弾圧事件」という言い方は、朝鮮学校を閉鎖させようとしたGHQと日本政府側の不法な行為を指摘、追及している。
その10 四月二四日を、「永遠の民族教育記念日」と決定したのはいつか?
七〇年前の一九四八年七月である。
第一五回朝聯中央委員会(1948年7月26~28日)で、4・24教育闘争を総括し四月二十四日を「4・24學校事件記念日」に設定した(「解放新聞」1948年8月15日付)。その日は休校日とし、多彩な文化芸術、運動行事などを行うとしている。
この決定にもとづき中央や全国各地で今日まで七〇年余間四月二四日に記念大会、集会、行事が行われて来た。
「朝聯中央時報」一九四九年三月二一日付の一面にも、「4、24教育事件を忘れるな」「中央の記念闘争態勢成る」と大きな記事が掲載されている。「解放新聞」一九四九年四月二一日付には、「銘心하자! 4月24日」という力強い主張が載っている。
「兵庫朝鮮人運動の歩み」(350頁)には、在日朝鮮統一民主戦線中央委員会が4・24教育闘争四周年を記念して、「金太一賞」と「朴柱範賞」を制定し、毎年記念日に功労者や模範的な学生、少年たちを表彰することを決めたと記載されている。
その11 4・24教育闘争に関する歌があると聞いたが?
有名なのは詩人、許南麒先生が作詞した「4・24의 노래(4・24のうた)」だ。三節まで作詞されたようだが、一九四九年四月一一日付の「解放新聞」に曲を付けて発表した時には、一節だけになっていた。その他に「4・24교육투쟁의 노래(4・24教育闘争のうた)」「선생님 울지 마세요(先生、泣かないで)」や、卒業式で歌う「작별의 노래(わかれの歌)」等がある。
「작별의 노래」は茨城朝鮮初中高級学校と千葉朝鮮初中級学校などで歌い継がれている。
その12 「4・24の教育闘争」の「伝統」「精神」とはどのようなことをいうか?
民族の自主権と尊厳、民族教育の権利を命がけで守った在日同胞達の団結力、そして在日朝鮮人教育対策委員会代表団が不退転の交渉を通じて勝ち取った朝鮮学校閉鎖令撤回を含む「五項目の合意」の内容こそ後世に伝えるべき闘いの伝統だと考える。
四月二四日の夜にGHQが占領後初めての「非常事態」を発令し、その後「無効」が宣言された。「五項目の合意」は「無効」が宣言されるまでの七時間にも及ぶ粘り強い交渉を通じて勝ち取った歴史的な勝利の実績であり、民族教育闘争の歴史に永遠に輝く伝統、貴重な財産である。山口、岡山県同胞たちの勝利の経験、そのための全国同胞たちの決死的な闘争も含めて…。
4・24闘争で築かれた勝利の伝統、闘いのDNAが代を次いで引き継がれているからこそ、その後も、度重なる弾圧をはねのけ民族教育を今日まで守って来られた。
「4・24教育闘争の精神」は、厳しい状況の中でも、民族の自主権と民族教育権、自分たちの言葉と歴史、文化を、命を懸けてでも絶対に守り抜くと言う不屈の精神力と、それを行動に移す強い心構えである。
朝鮮学校への「高校無償化制度」の適用を求めて金曜行動、火曜行動に参加しているオモニ達や学生達のスローガン「私たちは絶対に負けない! 勝利するまで闘い続ける!」は4・24闘争精神、不屈の戦いの継承だ。
その13 東京青山霊園内の「解放運動無名戦士の墓」に、4・24教育事件で犠牲になった金太一少年、朴柱範先生を「合葬」した経緯は?
「解放運動無名戦士の墓」は、戦前に、ベストセラーになった小説「女工哀史」を書き、社会運動にも貢献した細井和喜蔵の死後、有志達がその印税で官憲の目を避け秘密裏に建立した共同墓地である。
戦後、日本国民救援会が受け継ぎ、国際解放運動に身を捧げた人たちの場合も組織的手続きを踏めば「合葬」が認められた時代があった。総連結成以前、いわゆる朝聯、民戦時代である。
一九四九年三月二一日付「解放新聞」によると、日本国民救援会と連携を持っていた朝聯傘下の在日本朝鮮解放救援会の働きで「人民葬」が執り行われた4・24教育事件の犠牲者である二人をたたえて、東京の青山霊園にある解放運動無名戦士の墓に合葬したとのことである。(金少年は一九四九年三月一八日、朴先生は一九五〇年三月一八日)。
「朝聯中央時報」(1949年3月18日付)などによると、合葬するときは朝聯中央議長団の方や、解放救援会役員各団体代表者たち、遺家族たちも参加している。
その青山の共同墓地には、過去、朝鮮独立運動や、解放後、在日朝鮮人運動に携わった活動家たちも多数合葬されている。合葬者の名簿は歴史研究所が確認している。
二〇一三年から毎年、4・24教育闘争記念日の午前に、有志達が墓前に集って、金太一少年と朴柱範先生を偲び高校無償化闘争の一層の強化を誓い合っている。今年も実施する予定である。
その14 体験者として特に印象に残っていることは?
七〇年前、一〇歳の頃、先生たちから朝鮮学校を弾圧した張本人はアメリカ軍の最高司令官マッカーサーだと教えられた。手紙の書き方を習い同級生たちと共に生まれて初めてマッカーサーに嘆願のハガキを書き送った。
その後六〇余年間全く忘れていたのだが、二〇〇五年に和光大学の先生たちがアメリカ国立公文書館で4・24教育事件当時の資料を大量に発見したというニュースを見た。その資料の中に私の名前があったので一時、話題になった。
「元帥閣下様、逮捕した先生を早く釈放して下さい。一生懸命勉強しますから‥」と誤字だらけの下手な朝鮮語で書いたものであった。
今もハガキのコピーを持っている。また一一月の冬の寒空の下、「朝鮮人の先生に教わりたい」と同級生たちと共に地方事務所の前で座り込みをしている姿を写した一九四九年一一月九日付の「神戸新聞」の写真コピーを大切に保管している。
幼い子どもたちの純粋な心の中に生涯忘れることが出来ない地獄のようなショックを与えた4・24のような残酷な教育弾圧事件を、再び繰り返えさせてはならない。
八〇歳を迎えた私が、今も、金太一少年、朴柱範先生が合葬されている青山霊園に参り、金曜行動に参加しているのはその為である。
その15 少年の頃、4・24教育弾圧を受けた体験者の一人として、現在、日本政府が朝鮮高校生たちを無償化対象から除外していることについてどう思いますか?
日本政府は、誤った過去の歴史を繰り返している。
七〇年前の4・24阪神教育弾圧は、解放朝鮮の存在を全面否定し、再び朝鮮の言語、文化、歴史を奪い、朝鮮を植民地化した誤りをうやむやにしようとした許しがたい犯罪行為であった。
他民族を抑圧する民族は自らも自由ではありえない。
国連加盟国一九七の中に、かつての植民地からの移民を制度的に差別し抑圧している日本のような国は稀である。日本は、三六年間朝鮮を植民地統治したうえ、解放後も七〇年以上在日朝鮮人の尊厳を脅かし続けている。
朝鮮高校生に対する日本政府の無償化除外政策は、過去の植民地時代と七〇年前の4・24教育弾圧の延長線上で行われている人権蹂躙行為である。朝鮮民族に対する差別、朝鮮学校弾圧行為以外の何物でもない。
日本は、国連人権委員会からも勧告を受けている。世界の良心たちは、非人間的行為を反省して心に刻もうとしない者は、同じ危険に堕ちると警告している。
日本政府、政治家、国民は歴史の教訓から正しく学ぶべきである。
高校無償化と補助金制度を即刻認めなければならない。過去を謝罪し朝・日国交正常化へ進まなければならない。
「4・24教育闘争の伝統」、「4・24教育闘争の精神」がある限り私たちは勝利するまで不屈の戦いを続けるであろう! (作成・2018年3月6日)
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