同胞社会の「生命線」、「根っこ」と言える朝鮮学校
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呉亨鎮・在日朝鮮人歴史研究所顧問・公益財団法人朝鮮奨学会顧問
早稲田大学社会科学研究所発行の「震災調査」分析レポートを読んで
*「震災調査」分析レポートとは、早稲田大学社会科学研究所(都市研究部会)発行(一九九六・九・一〇)の《阪神淡路大震災における災害ボランティア活動》(研究シリーズ36) 第5章 社会的弱者への救援活動ー神戸市長田区の事例(2)在日『同胞社会の中で、朝鮮学校が果たしている四つの接点』。
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《阪神淡路大震災における災害ボランティア活動》報告は、早稲田大学社会科学研究所調査グループが、阪神淡路大震災後、直接被災地に入り、何か月間も悪戦苦闘しながら県下各地を踏査し、日本人だけでなく外国人たちからも聞き取りを行い、ボランティア活動の状況を取材整理分析し、四五七ページもの本にまとめた大変貴重な資料である。
私が特に注目し、興味を持って読んだのが、第五章 社会的弱者への救援活動、神戸市長田区の事例である。二七ページにも及ぶ分析レポート『在日韓国、朝鮮人の救援活動』(2)民団の救援活動の特徴と(3)総聯の救援活動の特徴の部分である。
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二三年前の一九九五年一月一七日に発生したマグニチュード七・二の阪神、淡路大震災は、日本人だけでなくそこに住んでいた外国人にも大きな被害とショックを与えた大事件であった。
在日朝鮮人(韓国人含む)の場合、未確定な部分もあるが、犠牲者一三八人、負傷者 多数、一般家屋全壊三、一一七戸、半壊二、六二八、商店、会社事務所全壊七九一戸、半壊四〇二戸等に及んだと言われている。在日同胞社会に与えた衝撃は計り知れない程大きかった。
当時、在日朝鮮人総聯合会も「韓国民団」も、全国の同胞組織に救援活動を呼びかけると共に救援部隊を編成して現地へ急派、昼夜を問わず救済活動に取り組む等大活躍したことは承知の事実である。
とくに朝鮮総連中央の代表者たちが、兵庫県庁と神戸市役所を訪問して激励し、災害救援事業で在日朝鮮人を含む外国人に対する民族的差別が無いよう申し入れると同時に、過去一九二三年九月の関東大震災時のように在日朝鮮人を誹謗中傷する悪辣なデマ流言飛語が流れて、在日同胞に対する残虐な殺傷事件等が絶対に発生しないよう万全の対策を講じてくれるよう強く要請し、行政当局もその旨固く約束したことを今も記憶している。
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早稲田大学のレポートを見ると、総聯と同様に民団もいち早くボランティアを派遣するなど緊急救援対策を立て懸命に頑張った事が記されている。だが、日ごろの大衆活動が脆弱だったため同胞たちとの面識が少なく、またパソコンに入力してあった組織台帳や同胞名簿なども旧いものだったため実際の住所、名前等が合わない場合が多く相当苦労をしたことがうかがい知れる。特に民団傘下同胞たちの避難拠点が定まって居なかったため、韓国系教会などにも一部は避難したが、大部分は四〇〇か所以上もあった避難場所に分散し韓国人であること等を明さないまま日本人の中に埋もれた状況に置かれている場合が多かったようである。
それ故、民団は主に個別型救援活動―をせざるを得ず、スタッフたちが避難場所をひとつひとつ訪ね歩き(韓国人の方はいませんか? 居たら手を挙げてください!と 大きな声で呼びかけはしたが、なかなか手を挙る同胞がいなかった)ので、仕方なく救援物資を韓国人、日本人の区別なく配れるよう置いて来るなど大変なご苦労を重ねたとのことである。
レポートでは、総聯の救援活動の特徴についても分析している。総聯は「組織動員型」で、そのキーワードは「同胞社会の絆」型ボランティアで、同胞たちの接点、拠点は、「朝鮮学校」であったと指摘している。
少し長いが、レポートを引用させてもらう。
「民団と大きく異なる総聯の救援活動の特徴は、朝鮮学校と言う拠点を持った活動だった点にある。ここでいう、拠点とは、救援物資の集積地、(東神戸初中級学校)と被災者を受け入れる避難所(3校)そして外部から組織動員されたボランティアの宿泊施設となったことだけを示すわけではない。人々の集まる場という点から見ると、すでに震災以前から地域の同胞社会の中で学校が拠点となっている。最近の(総聯系)同胞社会の動きを見ると、朝鮮学校のある地域に引っ越す同胞が多いという。
…今回の震災でも支部でなく、全壊していたとしても、学校の運動場に同胞はみな集まったのだという。それには、民族教育中心に同胞社会が動いている、という見方がある。そして総聯は、この朝鮮学校を、△集まりの拠点(空間)、△民族性の拠点、△民族的情報の発信地、△地域社会との密接な接点という四つで位置づけて、今後様々な活動の基盤としていく可能性が大きいと言える。」(266~267頁)
日ごろ在日同胞社会との接触があまり無いと思われる早稲田大学社会科学研究所が大震災という厳しい悪条件の中で、外国人特に「在日韓国、朝鮮人の救援活動」にも焦点を当ててそのボランテイ活動の実態を詳しく分析し、在日同胞社会での朝鮮学校の位置づけをした事の意義は大きいと思っている。私は分析に対し基本的に共感している一人である。
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私は、一九九五年一月一七日の阪神、淡路大震災当時、兵庫県の隣に位置する総聯大阪本部の委員長の職にいた。
大震災の通報が入ると同時に、総連中央本部の総指揮の下、即刻、大阪に中央救援対策本部が置かれ、私もスタッフの一員を務めた。神戸までの幹線道路が無残に破壊され交通が不便ななか、青年たちを中心に小回りの利くバイク部隊を編成して現地に急派した。万難を乗り越えながら決死的に現地へ向かった同胞青年たち。彼らにとっても生まれて初めての経験であったはず。彼らの熱い同胞愛、ドラマチックな素晴らしい大活躍は今も語りぐさになっているほどである。
全国の組織と同胞たちが救援活動を大々的に展開した。兵庫県本部と県下の各支部、学校、団体、事業体が統一的に救援活動に全身全力で取り組めるよう万全の体制も組んだ。特に西神戸、東神戸朝鮮学校は校舎が被害を受けていたが学校の運動場では、同胞と近隣日本住民の避難場所として役割を果たせるよう、テントを張り、ドラム缶を利用したたき火を炊くなど臨機応変に、スピーディな対策がつぎつぎと講じられた。
私も中央本部の幹部達や地方から駆け付けた救援隊員と共に、同胞から借り入れた四輪駆動のジープに乗り、悪戦苦闘しながら神戸まで辿りついた時の記憶が今も鮮明に残っている。
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多くの高層ビルや家屋が無残に倒壊している上、大火事まで起きていた。四方八方が焼けつくされて異様な匂いが神戸市内に充満していた。まるで猛爆を受けた戦場のようであった。道路、鉄道など交通機関がマヒ、電話など通信手段が通じず、電気、ガス、水道などが破壊され機能していなかった。「原始時代」に戻ったかのようショッキングな光景が広がっていた。
一番不安にさらされていたのは、被災同胞たちであった。身内を失い、自身も怪我し家屋と財産を無くした多くの同胞がパニックに陥っていた。私の知人であった在日の有名なサッカー選手であった成さんや同級生の家族も何人かなくなっていた。家屋、商店、会社などが壊れ、冬の寒い屋外に投げ出された人々の精神的ショック、悲しみ、不安、絶望感は絶頂に達していた。ところがである。大震災数日後に再度同胞社会の拠点であり、避難場所である西神戸、東神戸朝鮮学校を訪れてみると「別世界の雰囲気」が広がっていた。
被災者達にいち早く共和国の金正日委員長から送られてきた慰問電報と一〇〇万ドルの慰問金のニュースが伝えられ、また日本全国の組織、同胞たちから送られて来た見舞金が分けられ、沢山の激励のメッセージも届いていたので、悲しみの中にも大きな感激と感謝、喜びの情が満ち溢れていた。
各地から送られてきた膨大な量の布団、毛布、衣服、水や食材、生活用品が山のように積まれていた。何か所にも暖かいたき火が炊かれていた。被災者たちを鼓舞激励する歌舞団とウリ学校学生たちの歌声笑い声も響きわたっていた。香ばしい焼肉とホルモン煮、キムチの匂いが朝鮮学校の運動場内に充満していた。暖かい大盛りの白米ごはんと大きなオニギリ、沢山の果物や菓子が同胞たちには勿論、近隣から朝鮮学校に身を寄せていた日本住民たちにも隔たりなく配られていた。なんと所々で酒盛りまで行われていた。近隣日本人住民の中には朝鮮学校の配慮の呼びかけに応じるべきかどうか二~三日迷いに迷った末に来た人たちもいたという。皆の暖かい隣人愛ともてなしにふれ、心のゆとりを何とか取り戻し和気あいあいと過ごしていた。
私は、同胞社会の生活感あふれるバイタリティと助け合い、地域住民との交流の素晴らしさに感動した。涙が止まらなかった。大きな勇気、元気を貰った。
地域社会で「朝鮮学校」が果たしている接点、拠点としての大事な役割、祖国、組織と同胞社会の愛情の暖かさを一番身近に感じ感動し涙したのは、同胞たち自身であった。その地域に何十年も住んでいながら初めて朝鮮学校内に入り一時ではあるが朝鮮人たちと苦楽を共にした近隣の日本住民も多くの事を感じたようであった。
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私は、二〇一一年三月一一日の東日本大震災時直後にも宮城県内の被災地に足を運んだ。仙台の東北朝鮮学校も同胞社会の四つの地域接点としての大きな役割を果たしていた事を確認することが出来た。
震災時の自身の体験から、そして一〇歳のころに4・24民族教育弾圧を経験し生涯忘れることが出来ないショックと怒りを覚えた一人として、同胞社会で朝鮮学校が果たしている接点、拠点的役割をこれからも大事にして行きたいとの決心を新たにしている。
朝鮮学校についての早稲田大学社研のレポートからヒントを得て、私なりの主観で、同胞社会の「生命線」、「根っこ」とも言える朝鮮学校について四つの接点、拠点を整理してみた。
- 朝鮮学校は、同胞子弟の民族性と未来を育む大事な学びの接点、拠点である。
- 朝鮮学校は、同胞たちの集まりの場、団結、助け合い、繋がりの接点、拠点、コミュニテイである。
- 朝鮮学校は、祖国と在日の民族文化、情報発信、ネットワークの接点、拠点である。
- 朝鮮学校は、地域社会での国際交流を広め、深める接点、拠点である、と。
朝鮮学校が今日、同胞社会と地域住民の接点、拠点的役割を果たせるまでに至ったのは、同胞社会の「生命線」、「根っこ」である朝鮮学校、民族教育を弾圧しようと長年暴虐の限りを尽くして来た米・日政府と決死的に闘って来た歴史の積み重ねがあったからである。
高校無償化闘争で見られるように民族教育の権利を護り発展させるための闘いは現在も続いている。
今年は、民族教育擁護闘争史上最大事件であった4・24阪神教育闘争七〇周年に当たる年である。
私が、八〇になる今も時折、若いオモニ達、学生達、日本の有志たちと共に文科省前の金曜行動やその他の集会に参加して皆と共に大きな声で抗議のシュプレコールを叫び続けている理由もそこにある。
今後も阪神淡路大震災、東日本大震災のような大きな震災は、起きる可能性が有る。
今後の同胞救援活動、ボランティア活動がどうあるべきか、総聯と民団組織の団合と助け合い、近隣の日本人住民との日常の付き合いがどうあるべきか、また朝鮮学校を引き続き地域接点、拠点としてどう発展させて行くにはどうすべきか等を日ごろ研究し、対策を立てると共に必要な訓練もしておくべきであると強く思っている。(2018・2・24)48
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