祖父母、父母の思い、次世代に伝え、在日同胞社会に根を張って生きる
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プロフィール
李栄祚
1970年3月生まれ
1992年 朝鮮大学校 工学部卒
夕食後、分会に行く
アボジの背中見ながら
金東春ハッキョを卒業したのですか?
李はい。愛知県春日井市で生まれて、東春ハッキョ(学校=東春朝鮮初級学校)の幼稚班、初級部、当時は中級部もあったので、中級部を出てから愛知中高の高級部に進み、朝鮮大学校の工学部を卒業しました。卒業後は同胞の企業、今は光ファイバー技術で株式上場している最先端の会社になっていますが、そこで働いていました。でも研究は肌に合わなくて三年だけ働いて、アボジ(父)がしていた自動車解体業を一緒にするようになりました。現在はそれを継いでいます。
金地元での活動を始めたのは?
李朝大卒業後、地域の青年同盟の活動に毎週二回くらい出るようになったのが、地元活動の始まりでした。同胞宅を訪ねて行ったり、雑誌「セセデ(新しい世代)」や「朝鮮青年」を配ったり、会費を集めたり、会議をしたり、そんなことを約十年間していました。その間に朝青支部副委員長や委員長をし、青年同盟を引退した後は、総聯支部の常任委員をしてきました。子どもたちがハッキョに通うようになってからは、教育会の理事としてハッキョの運営にかかわってきました。
金お子さんは何人ですか?
李三人です。愛知中高に通う高校一年生と中学二年生と、東春ハッキョに通う初級部一年生です。今は東春ハッキョの教育会副会長と総聯東春支部の国際統一部長を兼ねています。住んでいるのが下原分会でそこでは分会委員をしています。
金朝青活動を始めたきっかけは?
李幼い頃、夕方家で遊んでいると、仕事から帰ってきて夕飯を終えたアボジがいつも出かけていくんです。「どこに行くの?」と聞くと「分会だ」とか「支部の集まりだ」とか。当時アボジは三〇代か四〇代前半だったと思います。そんなアボジの姿を見て育ったので、そうするのが当たり前だと考えていました。またオモニ(母)も長いことニョメン(女性同盟)支部、分会の活動をしてきて今も分会長を務めています。親の背中を見て育つんですね。ハラボジ、ハルモニと一緒に暮らしていたんですが、二人とも慶尚道出身で、今も慶尚道の言葉を聞くと懐かしい気持ちになります。そのハラボジ、ハルモニ(祖父母)も顧問として大会だ、集まりだと総聯の活動には積極的でした。若い頃はきっと様々な職責をもって活発に活動していたのではないかと思います。そんな環境で、ハラボジ、ハルモニに手を引かれて大会なんかに連れていかれることもよくあって、幼いころから同胞の中で育ちました。時には、誰かが訪ねてきて「ハッキョのために」「サッカー大会のために」と寄付を求められることもあって、そういう時にアボジは、少なくない額ですが、いつも用立てていました。そんな姿を見ながら、幼いながらもかっこいいなと思っていました。お金が沢山あるわけではないけれど、そんな中でも同胞社会のために何とかする人がいなくてはならないと、幼いころから思っていました。そういう下地があって、朝大卒業後は、誰かに誘われたからというのではなく、幼いころのそういう思いを実践に移していったわけです。
五年間「セセデ」届けた日高生
「サマースクール行きます」
金当時、青年同盟の活動は盛んだったのでしょうか?
李私が出るようになって二ヶ月後に定期大会があって、十歳上の委員長が引退し、一歳上の先輩が一人残っているだけでした。先輩に良くしてもらったから今度は後輩に、という話をよく聞きますが、そういうことがないまま二か月後には責任を持たなくてはならなくなってしまいました。私よりも年下のメンバーを連れて飲みに行ったり、食事に行ったりするたびに、一応年上なので奢ることになるのですが、心の片隅で「奢られたことはないのにな」と思っていました。でも先輩ぶりたいし。もちろん楽しいこともありましたが、「やってられないな」と思うこともたびたびありました。でも一度始めたことを途中で投げ出すのは嫌だし、カッコもよくない、最後までやり遂げなくてはという一念で引退までやり遂げました。
金やっていられないなと思ったのはどんな時でしたか?
李仕事は仕事でやって、そのあと夜に同胞青年宅を訪ねるのですが、イベントなどへの動員はつらいことも多かったです。今度の日曜にこういうことをするので来てくださいというと、たいていの場合、相手の反応はあまりよくなくて。そういう時は、給料をもらっているわけでもないのに、なんのために頭を下げて回っているんだろうと。でもここでやめてしまえば同胞社会の未来はないという思いで、いやでもやり遂げることが、自分を鍛えることだと自分に言い聞かせて。そんなことの繰り返しでした。そんな中で、今まで積極的でなかった同胞が行事に出てきてくれたりすると、元気をもらいました。ある時、五年間毎月雑誌「セセデ」やイベントの案内を持っていっていた日本の高校に通う同胞生徒が、自分から「今年はサマースクールに参加します」と言ってくれたことがありました。いろんな家を回りながら、成果はあまりなくて、果たして回ることに意味があるのか? 応えてくれるのか? と疑心暗鬼になることも多々あったのですが、この時は正直驚きました。私はしつこく勧誘するのが苦手で、「こんなことをするので、考えておいて」とイベントの案内を置いてくるのですが、誠心をもって続けていれば通じるものだなと思いました。十人のうち一人でも応えてくれれば成果だなと思ってやっていました。
一方で、ウリハッキョ(私たちの学校=朝鮮学校)の卒業生との関係を保っておかないと、未来の保護者がいなくなってしまってウリハッキョの生徒が減少してしまいます。そういう思いもあって、なにしろ一軒一軒家を回っていました。でも正直、これと言った成果に出会うことはめったにありませんでした。それでも若さならではの情熱で、スキーや海水浴、忘年会、卒業生祝賀会などとりあえず季節ごとにイベントを組んで実施していました。当時は今のようにSNSもないし、「セセデ」や「朝鮮青年」といった出版物には地元ネタが少ないので、なかなか読まれないんですよね。朝大卒業生は、ほかの地方の先輩や後輩が出ている、こんなことをやっているのかと面白く読むけれど、ずっと地元にいる人たちにはあまり親近感がわかないのです。それで地元の新聞を作ろうということになりました。九○年代中ごろ、まだ今のようにパソコンが普及していたわけではなかったのですが、たまたま会社でマッキントッシュを使っていて、自分でも購入したところだったので、それを使って編集することにしました。当時、朝青支部の新聞をパソコンで作っているところはまだそれほどなかったと思います。それを九五年から二か月に一回ずつ、特集を毎回一面に組んで、編集・印刷して、配布しました。すると「朝青東春、頑張っているな」と話題になって、そうするとまた元気をもらって、引退まで六~七年間くらい欠かさずやりました。そうこうするうちにインターネットが普及し始めて、九七年には朝青東春支部ホームページも立ち上げました。これも全国に先駆けた試みでした。結構反響があって、こっちの方も引退する二〇〇一年まで更新を続けました。英会話教室を作ったり、ほかの地域でやっていていいと思うことは我先に取り入れました。いろんなことをしましたが、これと言った成果があったかというと、なかなか思い通りにはいきませんでしたが。
金でも支部に人が沢山出てくるようになりますよね。
李それはあります。私が毎週二回出るので、その時には誰かが来ます。その前から朝青支部で集まって夜中まで麻雀をやったり、トランプをやったり、飲んだりというのはありましたが、私は、酒は飲めないし、麻雀もしないので、私が受け継いだ後は、健全な朝青に変わりました。責任者によって支部の雰囲気は変わるのですね。何しろ一人でも多くの朝青メンバーを集めて未来のハッキョ保護者に、という思いで活動してきました。ハッキョあっての組織なので、ハッキョから何か頼まれたときは、積極的に取り組みました。それでも私たちの時期よりも今の方がハッキョを中心に頑張っているのではないかと思います。私たちが朝青だった時期は生徒も、保護者も今より多かったですから、例えばハッキョの大掃除と言っても朝青にまで声がかかることはありませんでした。今は保護者も少ないので、青商会や朝青も動員されます。また私たちもハッキョのことは大切だと思っていましたので当時から朝青のなかでもハッキョへの一口募金運動を繰り広げていました。
金当時を振り返って楽しかったですか?
李何よりもの成果は人間として成長できたことです。私は、本来気が短くて頑固なところがあるのですが、朝青で責任をもって活動するようになると、自分の感情で動けないし、嫌なことも率先してやらなくてはいけない場合が多いので、ほかの人に配慮することや、状況に合わせてどうふるまうべきなのかと考えること、自分を律することを学びました。朝青活動を通して自分自身が一番大きく変わったと思います。成長の場でした。そんな過程を通じて、この道で行くのだという信念を得ました。
金しんどいことが多かったのですね。