朝鮮学校と南北の距離 分断崩すのは痛み理解する温かさ
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5・18記念式典での文在仁大統領の演説は温かかった。
「新たに発足した文在寅政府は、光州民主化運動の延長線上に立っています。…新政府は5・18民主化運動とろうそく革命の精神を重んじ、この地の民主主義を完全に復元するでしょう。光州の英霊が安らかに眠れるよう、成熟した民主主義の花を咲かせます」という言葉に涙する遺族の姿を見ながら、思わず目頭が熱くなった。
当時、市民に対する軍の武力行使は戒厳令下の封鎖された空間で展開され、ソウルなど他の地域には一切報じられなかった。そんな中イギリスの写真家ら外国人記者が隠し撮って持ち出した映像を、翌年、神戸のポートピアで開催された博覧会を訪れた韓国人に片っ端に配るなど、ソウルに知らせるために同胞たちが四苦八苦したと聞いている。抗争当時、朝鮮大学校四年生だった私にとっても韓国は、引き裂かれた兄弟のような存在だった。抑圧される民衆に、差別される在日朝鮮人の姿を重ね、軍事政権が打倒され朝鮮半島が統一される日を夢見ていた。光州の惨状を目の当たりにして、自分に何ができるのかと思い悩んだものだ。
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抗争の三か月後、朝鮮大学校の卒業班の学生全員が初めて朝鮮を訪問した。それまで朝鮮を訪れるのは極一部のラッキーなエリートたちに限られていたが、このころから次第に一般化し、数年後には高級部の生徒たちも修学旅行で訪問するようになった。迎える朝鮮の人々は、海外からの客に慣れていないこともあって不器用だが、誠実だった。迎春公演やキャンプなどのイベントや、朝鮮学校のサッカー大会優勝チーム招待、歌や楽器、舞踊の通信教育など、往来はますます頻繁化し、距離はどんどん縮まっていった。朝鮮では、コンビニやインターネットもないし、水道水がでなかったり、停電したり、生活の不便を目の当たりにする。日本では、加熱する朝鮮バッシングの直撃を受け、ヘイトスピーチの渦中に巻き込まれる。それでも在日朝鮮人が朝鮮を大切に思うのは、そこに暮らす人々と喜怒哀楽を共にし、別れを惜しんだ経験があるからなのだろう。彼らにとって朝鮮は、マスコミが流す漠然としたイメージではなく、そこで暮らす人々なのだ。
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二〇〇〇年六月、金正日総書記と金大中大統領が発表した南北共同宣言に在日朝鮮人の多くが歓喜した。これを機に多くの在日朝鮮人が韓国を訪れた。金大中、盧武鉉の両政権は、朝鮮籍の同胞たちに臨時ビザを発行して訪問を可能にした。在日朝鮮人一世の九五パーセント以上は韓国出身だ。父母や祖父母の故郷への郷愁、民主化運動と心をともにしてきた兄弟への思い…。しかし六〇年に及ぶ断絶がもたらした現実は厳しく、そんな在日朝鮮人の思いを理解する人はいなかった。冷戦の下、利敵団体・総連や朝鮮学校との関係は塗りつぶすしかなかったのだ。そんな中、失望する在日朝鮮人と韓国の間を取り持ったのが映画「ウリハッキョ」や「60万回のトライ」であり、NPO団体「モンダンヨンピル」だった。
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今、朝鮮学校の生徒たちは、南北朝鮮の人たちの愛情を実感しながら育っている。朝鮮解放から七〇年以上が経ち、三世代以上の世代交代があった。朝鮮半島と断絶した中で受け継がれた在日朝鮮人の言葉は南北朝鮮の人たちには聞き慣れない、「少しおかしな」朝鮮語だ。生活環境や考え方もそれぞれ違う。国籍も朝鮮、韓国、日本と様々、血統もダブルもいれば、クォーターもいるかもいれない。けれど理解したいと思う心が温かい交流を生む。
日本の植民地統治やその後の南北の分断は、韓国・朝鮮人に深い傷を与えた。ところが最近、その痛みを理解して包み込もうとする温かさに出会うことが度々ある。そんな思いやりに胸を熱くしながら、一人ひとりが相手の痛みを知り、違いを理解しようとする、そんな積み重ねが分断の壁を崩すのではないだろうかと、希望を抱いている。43
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