【発掘資料】4.24教育闘争から69年:草創期の民族教育のあゆみ(上)
スポンサードリンク
8.15解放から4.24民族教育事件まで
「記録する会」より・「統一評論」一九七八年二月・三月・四月号に連載された「特集・在日同胞の子弟教育 民族教育のあゆみ」(朴相文)を編集部の許可を得て紹介する。解放直後から4・24民族教育事件を経て、朝鮮総連結成直前までの草創期の民族教育の足跡が詳しく記されている。中見出しは原文のまま、一部読みやすくするために漢字に直した。。
スポンサードリンク
一、民族教育のはじまり
わが子に母国語を!
一九四五年八月十五日、日本帝国主義はついに滅び、朝鮮人民は約半世紀にわたる過酷な植民地支配から解放された。
異国日本で長い間、飢えと、強制労働と、民族的迫害のなかで呻吟してきた在日朝鮮人は、夢にも忘れることができなかった祖国、懐かしい故郷への道を急いだ。
同胞たちは胸を高鳴らせて帰国の準備をし、下関、博多、大牟田など、祖国に近い日本の港をめざして殺到しはじめた。
しかし、帰国の船便を待つ間、同胞たちの胸をよぎったものは、日本で生まれ育った自分の子どもたちが、母国の言葉はおろか、文字一つさえ書けないという悲しい現実だった。
奪われた朝鮮語を子どもたちに!
これはやがて、帰国を急ぐ同胞たちの切実な願いとなり、せめて帰国するまでの短い時間でも、という同胞たちの思いは日ましに燃えあがった。
こうして、帰国同胞がひしめく九州の港で、また東京の芝浦、四木、西新井、三河島で、神奈川の横浜・反町、川崎で、あるいは大阪の猪飼野などの同胞居住地で、さらに九州、北海道の炭鉱や日本各地の朝鮮人飯場で、祖国の言葉と文字を学びたいという声がわきあがった。
このような切実な願いは、一九四五年十月十五日、在日朝鮮人の意思と権益を守る団体―すなわち在日本朝鮮人聯盟(朝聯)の結成によってはじめて実現された。
朝聯は、敗戦直後の日本の社会的混乱のなかで、在日同胞の生命、財産を保護し、帰国同胞の便宜をはかり、一時的に日本に残留する同胞たちの生活権保護と、その子弟に対する民族教育に力をそそいだ。
こうして、東京に設立された戸塚国語講習所をはじめ、日本各地の同胞居住地域で、十名から六十名を一つの単位としたハングル(朝鮮文字)講習所が建てられた。
これがまさに、在日朝鮮人の民主主義的民族教育のはじまりであったのである。
無から有を創造して
在日同胞の民族教育熱は、まるで火を噴く活火山のようであった。
朝聯はまず、解放とともに日本の学校を退学した同胞子弟めために、祖国の言葉と文字、祖国の歴史と地理を中心とした初歩的な民族教育を実施した。
解放直後の日本で、教科書も、教員も、校舎もない困難な条件のもとで、朝鮮語講習所を設立したことは、文字通り無から有を創造する奇跡の一つにほかならなかった。
同胞たちは日本各地で、朝聯の事務所や個人の家、焼け残った工場や倉庫の片隅を利用し、それを臨時に改造して教室にした。
一部の地方では、日本の学校の施設を借りもした。机、腰掛け、黒板も古ぼけたものか、焼け残った材木をけずってこしらえたものであった。教科書も新たに編集してガリ版刷りで出版し、教員も急遽、新しく養成した。
学生たちは、日本学校を卒業したか、あるいは中退してきた六歳~十五歳の在日朝鮮人子弟が主だったが、なかには壮年や老人も混じっていた。
雨風が吹きこみ、なんの教材もないみすぼらしい教室ではあった。しかし、教員たちは報酬ももらわず、一日パン一切をかじりながら情熱を燃やして母国語を教え、学生たちは空腹を忘れて、一字一字、母国の文字と言葉を熱心に学んだ。まさに感動的な光景であった。民族教育の原点、そのものであった。
これらの教室や同胞子弟のいる家々では、「独立の朝」、「解放の歌」、「故郷の空」などの母国語の歌が高らかにひびいた。
同胞たちは、子どもたちが母国語を学び、それを使うのを見て、涙を流して喜んだ。そして苦しい生活ではあったが、民族教育のためにあらん限りの力をつくした。
「日本に引っぱってこられた時は、まる裸だったじゃないか」と言って家を売り、基金を提供した同胞をはじめ、机、腰掛け、黒板をつくる同胞、貴重な指輪とかんざしを売り、そのお金を喜捨する母親、古びたオルガンやアコーディオンを買ってくる同胞など、その熱意は至る所で発揮された。
こうして、解放直後にはじめられた国語講習所は、在日同胞の燃えるような熱意によって日ましに発展していったのである。
まず初等教育の実施
一九四六年一月、朝聯は多くの同胞たちが引き続き帰国している情勢の下で、一般成人に対する国語普及運動を力強く推し進めるとともに青年教育機関としての「朝聯青年学院」を設置するとともに、子どもたちのためには、母国語による初等教育の実施を決定した。
これによって、在日朝鮮人の民族教育と文化活動は、よりいっそう統一的に、組織的に推進されるようになった。
一九四六年二月の朝聯第二回全国大会を契機にして、各地で初等学院が増設されていった。また、民主主義祖国建設の有能な人材を養成するための青年教育機関として、中央と地方には朝聯高等学院を、各県には青年学校を設置し、数千名の青年たちを育成するようになった。
国語講習所は一九四六年四月から、上・中・下の三学年に分けられて初等学院に発展し、国語、歴史、地理、算数、体育、音楽など民族科目を中心にして教えられるようになった。
こうして、帰国準備の一環であった国語・朝鮮語講習所は、一九四六年度から正規の学校へと発展し、まず初等教育機関が創設され、発展の土台が築かれたのである。
不充分な設備とみすぼらしい校舎ではあったが、在日同胞のこどもたちにとって、この学校は楽園に等しかった。そこには、民族的な差別がなかったからである。
草創期の朝鮮人の学校は、すべてが足りないものばかりであったが、生徒たちの顔には希望と活気が満ちあふれ、教室では笑い声がたえなかった。
新たな情勢に対処して
しかし、祖国は完全に解放されたのではなかった。
南朝鮮を占領したアメリカ帝国主義は、植民地隷属化政策を強行して軍政を実施し、日本帝国主義の植民地統治機構を温存し、民族叛逆者どもをそのまま登用した。アメリカ占領軍は英語を公用語にし、朝鮮人の自主的な活動をいっさい禁止した。
南朝鮮の政治・経済状態の悪化と、帰国同胞に対するアメリカ軍の不当な制限措置などによって、帰国を急いでいた在日同胞の足がにぶりはじめた。そして、故郷から、「これでは生きていけない」といった便りが届けられたばかりか、帰国したはずの同胞までが、また日本に舞い戻ってくるありさまであった。
こうして帰国を一時思い止まった在日朝鮮人は、失った生活基盤をふたたび固めるために悪戦苦闘しながらも、子弟の教育問題に大きな関心をはらった。
一九四六年六月、朝聯は初等教育を強化改善し、学校建設を力強く推進して東京に中学校を建設することを決定した。
そして一九四六年夏ごろから、同胞たちは北朝鮮での諸般の民主改革に大きく励まされながら、本格的な学校建設に立ちあがったのである。朝聯の各級機関は、同胞たちの学校建設を積極的に指導援助した。
学校建設では在日同胞の祖国愛が余すことなく発揮された。「お金のあるものはお金を、力のあるものは力を、知識のあるものは知識を!」というスローガンのもとに、同胞たちは一斉に学校建設運動を展開した。
こうして短時日の内に、数百校にのぼる大小さまざまな規模の学校が日本全国各地に建設されたのである。
中等教育機関の設置を
初等教育機関の強化改善とともに、中等教育機関の創設も急を要する課題であった。朝聯の決定に従って組織された東京朝鮮中学校創立期成会は、その趣旨をつぎのように述べている。
「われわれは独立した朝鮮人として、一日もはやく自己の言葉と文字を取戻し、打ちひしがれた朝鮮の文化を再建すべく、全国的に初等学校を設立して、われわれの国語教育を開始した。
われわれは、当初、それぞれ一日もはやく帰国して、祖国の建設に奉仕する気構えであった。しかし、今日の各般の情勢は早急な帰国を許さず、なお日本に生活の根拠をおく同胞も少なくないため、これら同胞子弟の教育は緊急を要する問題となった。したがって、ここに、われわれの中学校を建設するよう訴えるものである。」
この呼びかけに応えて立ちあがった在日同胞は、一九四六年十月五日、ついに東京朝鮮中学校を設立した。
中等教育の創設・実施は、困難とさげすみのなかでも、愛する子どもたちを学ばせたいと願ってきた在日朝鮮人の宿望をかなえたものとして、真に意義深いできごとであった。
このようにして本格的にはじめられた民族教育は、一九四六年十月には、五百二十五校の初等学院、四校の中学校、十校の青年学校を設置するようになり、四万二千余名の学生と一千百余名の教員を擁し、統一性をもった学校制度として系統的に発展するようになった。
当面の教育綱領と理念
一九四七年一月の朝聯第九回中央委員会は、当面の教育綱領として次の五つの項目をかかげた。
- 半恒久的な教育政策をたてよう。
- 教育施設の充実と教育内容の民主化を徹底して遂行しよう。
- 日本の民主的な教育者たちと積極的に提携協力しよう。
- 教育行政を体系的にたてよう。
- 教育財源を確立しよう。
この決定にしたがって、日本全国各地で小規模な学校の整理統合がなされ、新学年度開校準備のための新しい学校建設が急速におしすすめられた。そして建設された学校は、地域別に組織された学校管理組合が自主的に運営した。
こうして、解放直後、帰国を前提にして一時的な形で日本各地に設けられた国語・朝鮮語講習所は、学院後援会、維持会、学父兄会などの名称をもって教育財政活動を展開し、校舎の新築、教員の配置、設備の充実をはかるとともに、初等学院という名称で統一されるようになった。そしてこの初等学院は、学院管理組合によって維持、運営されるようになったのである。民族教育の整備強化にともない、教育理念の定式化が要求されるようになった。
そして、これまで受けてきた日本帝国主義の反動的な教育理念を徹底的に掃討し、新しい民主国家建設に寄与できる人材を育成しようという基本的立場が確認された。
この基本路線上で提起された教育理念は、朝聯第三回全国大会(一九四六年十月)で規定されたものであるが、一九四七年一月に開かれた朝聯第九回中央委員会では、それが次のように再確認された。
一、全人民が豊かに暮らせる真の民主主義を教えよう。
一、科学的歴史観に立脚した愛国心をそだてよう。
一、実生活に土台をおいた芸術鑑賞と創作活動を独創的に発揮させよう。
一、新しい労働観を体得させよう!
一、科学の探求、技術の錬磨に精力を集中させよう!
一、科学、労働、経済現象の社会的連関性を究明させよう!
一、男女共学を徹底的に実行させよう!
教員育成と「教育規定」
日本全国各地に初等学院が設立されるとともに、教員の養成は、よりいっそうの急務となった。
こうして、まず、もっとも民族教育が活発で生徒数も多い大阪において教員育成所(一九四六年度)が開設され、それが翌年度には大阪朝鮮師範学校に発展して四十五名の卒業生をだし、百五十名(女子二十名)を新たに養成している。兵庫県でも一時、臨時教員養成所を設置して教員育成に努めた。さらに、在職教員の資質向上のため、教員再教育講師団が結成され、全国的な教員講習会を開いたりした。
その第一回の教員講習会は、すでに一九四五年十二月七日から十三日間、東京学同講堂でひらかれており、十五名の受講生が東京都下の各学院に配属されている。
このようにしてはじめられた教員講習会は、一九四八年初めまで二十七回にわたって開催され、ここに千二百六十五名の現職教員が参加して、その資質の向上に努めた。
一九四七年六月二十五日には、「教育規定」が朝聯第四回文化部長会議で決定された。この規定は主に教育行政について述べているが、序文と四章五十条からなっている。
その骨子は、教育行政機関の組織、学校設立の基準、学校の名称を「初等学院に統一すること」、学校の経営は「運営会または学校管理委員会が行うこと」、教員の「資格身分、義務と権利、細則としては、学年を六年制にすること、入学、修業、卒業、学期及び休暇、休日、授業科目および授業時間、行事などを決め、附則では初等学校の授業料を徴収しないことなどを規定している。
民族教育の強化発展とともに、それを直接担っている教員自身の実力向上と生活保障を目的として、在日朝鮮人教育者同盟の組織づくりが推進されてきたが、一九四七年八月二十八日には、東京朝鮮中学校で、その全国結成大会がもたれた。
この結成大会には、日本全国二十八県本部の代議員百四名が参加し、宣言、綱領、規約、一般活動方針などを採択した。その綱領をみると、次の通りである。
一、われわれは、封建遺制と日本帝国主義の残滓要素を徹底的に掃討して教育の民主化を期する。
一、われわれは、民主主義教育者として実力向上と生活安定を期する。
一、われわれは、在日および本国の民主主義諸団体と協力し、民主主義民族文化の建設に努力し、外国の進歩的な諸勢力と提携して、世界民主化に寄与することを期する。
教科書を自力で
一方、民族教育を実施しそれを積極的に推進するにあたっては教材の編集、出版活動がきわめて緊急な課題であった。
初期の教材編纂出版活動は、次の三期にわけられる。
第一期は、解放直後から一九四六年二月に開かれた朝聯第二回全国大会までである。この時期には、在日同胞の全部が帰国するという前提のもとに、すべての同胞を対象に、最少限度の国語と歴史に関する教材を編纂出版した。
第二期は、朝聯二全大会以降、一九四七年一月に開催された朝聯第九回中央委員会までである。この時期には、初等教材の編纂出版をはじめて具体化し、一定の計画のもとにそれを推進した。
第三期は、それ以降、一九四七年二月七日に定められた規約にもとづいて、初等教材編纂委員会が新たに構成され、初等教材の学年別編纂が新学期をめざして計画されたばかりでなく、さらに中等教材の編纂、青年学院の教材編纂が急を要する課題として提起された。
こうして初中学校の教科書ならびに副読本などが、さまざまな隘路や難関を乗り越えて学年別に編纂、出版されるようになり、一九四八年四月現在で、その部数は九十二種、百万部に達した。
以上、概略的にみたことでもわかるように、解放後二~三年という短時間に、在日朝鮮人が民主主義的民族教育の面で発揮した熱意と、それがもたらした大きな成果は、実に驚異的と言えるものであった。
スポンサードリンク