民族差別に憤り朝大へ進学 卒業生に、教育者の矜持感じる
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プロフィール
金建秀・朝鮮大学校理工学部講師
1947年 愛媛県生まれ
1966年 県立工業高校を卒業して朝鮮大学校・理学部に入学
1970年 朝鮮大学校・助手養成過程を経て同校教員に
2013年 教員を定年退職
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大木に感じる生命力
金建秀私は大きな木が好きなんですが、世界一高い木の高さが一一六メートル、世界一大きな木は高さが八四メートルで、地面の位置での最大の直径が十一メートルあります。大きな木の樹齢はおよそ二二〇〇年とみられています。いずれもアメリカのカリフォルニアの国立公園に生息しています。屋久島の縄文杉は樹齢が三〇〇〇年~四〇〇〇年と言われています。近場には推定樹齢一〇〇〇年の与野の大カヤがあります。木は死なない限り成長を続けます。必ずしも環境がいいわけではない。山火事が起きても逃げられない。そんな中で数千年を生きるというのは簡単なことではありません。生命力の強さを感じます。
そんな大きな木も始めは小さな種でした。人を育てるのも同じではないかと思います。大学にいると魅力的な生徒たちがたくさんいます。彼らが持っている潜在力や可能性、将来性を発揮させれば、できることはいろいろあると思います。
金淑子朝鮮大学校を卒業して学内の助手養成課程で半年間勉強した後は、引き続き大学で活動をしていたのですか?
金建秀そうです。大学で学んだことを土台に勉強しながら学生たちに教えてきました。「生きること・学ぶこと・教えること」と云う言葉が好きです。
金淑子専攻は?
金建秀固体物理学(注)です。固体物理学での二十世紀最大の発明はトランジスタです。トランジスタからIC、LSI、コンピュータとへと発展しました。今日の情報産業・社会のベースにあるのがトランジスタです。二つ目がレーザーです。二〇一四年に、青色発光ダイオードの開発で日本の三人がノーベル賞を授与しました。三番目が超電導です。電気抵抗がなくなるという現象のことです。抵抗がないので熱が発生することもなく、エネルギーの損失もありません。だから電流が永遠に流れ続けます。これを利用して今、超電導リニアが実用化されつつあります。
(注)固体物質の電気・磁気・熱・機械的性質その他を,その原子的構造や電子・原子核の運動から量子力学に基づいて説明しようとする。金属・半導体・誘電体・磁性体・超伝導体の諸性質,結晶の格子欠陥等がおもな対象で,工業上の諸材料や通信工学関係など応用も広い。
就職差別に憤り、朝鮮大学へ
金淑子もともと物理が好きだったのですか?
金建秀理系が好きだったこともあるのですが、四国で生まれ育ち、社会では民族的差別だとか、虐待を受けるので、そういうことから逃れたいという思いから自然界の美しさにひかれていったという側面もあります。
高校生の頃は、工業高校の機械科で学びました。三年生になって整備士になるために全日空の就職試験を受けようとしたのですが、受験もさせてくれませんでした。カメラのコニカもやはり同じでした。当時は高度成長期で工業高校を卒業すれば就職は引く手あまただったんです。ところが朝鮮人と言うことで就職も思うようにいかなくて。ろくに勉強もしなかった同級生たちがどんどん合格していく一方で、自分は試験も受けさせてもらえない。ひどい憤りを感じたし、プライドも傷つきました。
金淑子アボジが日本に渡ってこられたのですか?
金建秀祖父が一九二〇年に日本に渡ってきて、父が十四歳の頃に亡くなりました。父はそのころから弟たちの面倒を見てきたそうです。父は体も大きく紳士的な人でした。土木の仕事をしていたのですが、その傍ら独学で一生懸命勉強したようです。お酒もよく飲んでいましたが、夜は本を読み社会主義に夢を描いていました。家にはロシア文学や社会主義に関する本が結構ありました。もちろんウリナラへの関心も強くて、よく話していました。私は、民族的な劣等感を持つ一方で日本社会に対する反発心もあって、社会正義を求めてガンジーとかシュバイツァーに関する本なんかを読んでいました。
父は小さな土木会社をやっていたのですが、私が小学六年生の頃に倒産して、出稼ぎに近畿地方に行くようになりました。母も日雇いに出たりして。そういうこともあって工業高校に進むことにしました。
金淑子地域に総連組織はなかったのですか?
金建秀当時は総連の最盛期でもありました。四国の田舎にもその影響は及んでいました。アボジは総連の活動に積極的でした。私も一時午後夜間学校に通いました。一番下の叔父は私が中学校一年生の頃に帰国しました。
就職に挫折して、将来どのように生きていけばいいのか、現状のままでいいのか、いろいろ悩んだ末に、朝鮮大学に進むことにしたのです。朝鮮大学校があるという話は聞いていたので、高三の夏休みに案内書を送ってもらいました。三月四日が卒業式だったのですが、私が卒業生代表で優等賞を受け取ることになっていました。卒業証書をそれまでの通名ではなく、本名にして欲しいと教頭に頼んで、もめたのを覚えています。
朝大の入学試験は三月六日と七日でした。当時工学部はなかったので理学部の物理学科を受験することにしました。卒業式を終えて試験のために東京に向かいました。当時は高松から連絡船で岡山の宇野に渡って、鉄道で東京に向かうのが一般的なルートでした。ところが瀬戸内海の霧が深くて船が出なくなってしまいました。松山から広島に向かう船もあったのですが、これもダメで、空路もダメでどうしようかと思っていると、アボジが今治・尾道ルートにしろというので、行ってみたのですが一時間待っても船が出る気配がありません。なすすべもなく総連本部に電話して「朝大受験をあきらめる」と伝えようとしたのですが、いくら待っても応答がないので、しょうがなく電話を切ってもう少し待つことにしました。その内、船が出ることになりました。尾道に着くまで霧で何も見えなかったのを覚えています。あの時、船に乗らなければ、全く違う人生になっていたかもしれません。
文筆家夢見ていたアボジ
金淑子では先生は在日三世ということになりますね。
金建秀アボジは九四歳で昨年亡くなったのですが、日本生まれです。でもオモニは一世なので、二世半というところでしょうかね。アボジは長崎の端島(軍艦島)で生まれました。ハラボジは慶尚南道蔚山で自作農をしていたそうです。三代続けて一人息子で、食うに困っていたわけではないそうですが、日本に渡ってきたいきさつはよくわかりません。ただ体が弱かったらしく、日本では土木のような力仕事にしかありつけないので、二、三日仕事しては二、三日寝込んでいたそうです。四国、中国地方、九州の工事現場をさまよったと言っていました。
私のアボジは次男坊なのですが、引っ越し続きで行く所々でいじめられて、そんなアボジ兄弟を腕っぷしの強い長男が守ったそうです。延岡の城山に長男と二人で決闘に行ったときは、体の大きな大人のような少年が四~五人来て、アボジは怖気づいてしまったけど兄貴は大丈夫だと言って一番大きな少年を簡単にやっつけたそうです。叔父は豪放に生きましたが、結局二十代後半に結核で亡くなったそうです。
金淑子アボジは日本の学校で学んだんですね。
金建秀高等小学校しか通えませんでした。アボジの弟たちも上の学校には通えなかったのですが、博多に住んでいた叔父は、美術に才能があったようです。古鉄の仕事をしながら、親しい日本の高校美術教師から油絵の手ほどき受けて日展に入選したり、天目茶碗で師匠をうならせるような作品を作ったり。自宅の庭も自分で構想を練って、プロの造園家を雇ってつくったそうです。アボジは勉強をして文筆活動をするのが夢だったようです。
金淑子オモニは幼いころ日本にいらしたのですか?
金建秀オモニはウリマルも流暢で料理上手、厳しい中で家庭を守り、溢れる愛情を子供や孫たちに注ぎました。オモニ側のハルモニは私が高校生のころに亡くなったのですが、白髪が素晴らしく四国の田舎で生涯、朝鮮服で暮らしていました。オモニの兄は土木で数百人の人夫を使うほど成功したそうですが、四〇歳代で亡くなってすべて失いました。オモニは八六歳で亡くなりました。
金淑子四国に住んでいらしたんですか?
金建秀私は長男なのですが、親を見る力がなく、最後の十年は松山に住む姉と妹が面倒を見ました。
金淑子ご両親は、先生が大学の教員になったことを喜ばれていたのではないですか?
金建秀誇りにしていたとは思います。両親は苦しくても自分たちの生活のことを一度も私に話しませんでした。私は親不孝ものだと思っています。
大規模な音楽舞踊叙事詩に感動
金淑子日本の高校から朝鮮大学校に来て驚きませんでしたか?環境が全く違ったと思うのですが。
金建秀環境は違いましたが、私なりにゼロから自分の人生を立て直さなくてはいけないという気持ちだったし、家庭の事情も厳しかったので、甘い考えはありませんでした。来た以上は頑張るしかないと。
金淑子当時はもう校舎や寄宿舎の建設は終わっていましたね。
金建秀入学したのが六六年だったので、ちょうど一〇周年でした。音楽舞踊叙事詩の大規模な公演を初めて見て感動しました。特に趙基天の長編詩「白頭山」の中から「鴨緑江」の合唱をはじめて聴いたのですがソロが印象深かったです。
当時はウリナラの影響力が大きく、日本にも六〇年安保闘争の余韻が残っていて社会正義が感じられる世の中でした。日本の有名な科学者の遠山啓、江上不二夫の特別講演があ、り行事には著名人がたくさん参加しました。
金淑子勉強はどうでしたか?
金建秀一年生の間はウリマルを習得するのが大変でした。当時日本の高校からの入学生は理学部だけで六人、全学部で十数人いたと思います。入学するとウリマルを習得するための百日間運動というのが繰り広げられて、毎朝四時過ぎに起きて朝礼の前に二時間くらい、夜も遅くまでウリマルを勉強していました。上半期の試験では一応朝鮮語で答えを書いていました。ハルモニと一緒に暮らしていたので、聞いて話すのは比較的早かったと思います。
朝鮮大学の中庭で(在学中の1969年5月一年生の頃はウリマルの勉強に追われましたが、二年生では朝鮮史の特別講義などが面白かったですね。三年生になると『民族の太陽・金日成将軍』とか『金日成選集』を読みました。一年生の頃に朝鮮労働党第二次代表者会議が開かれ、三年生の頃に総連中央委員会第八期三次会議が開催されて、唯一指導体制に方向転換されました。三、四年次の教育、組織実習が私の人生志向を決めました。当時は自分の専攻よりは民族性を取り戻して政治的に覚醒することに忙しかったですね。
金淑子高校三年生の頃に進路に悩んで新しい道を求めて朝鮮大学校に来て、これで良かったと思いましたか?
金建秀民族的なこと、朝鮮人としての人生を探し当てたという気持ちはありました。
金淑子当時の学生数は?
金建秀六百~七百人ほどでした。当時は、運動が上昇気流だったので、予算なんかも余裕がありました。基本的な実験道具もそろっていたし。
金淑子物理が面白いと思ったのはどれくらいから?
金建秀物理というか自然科学にはずっと関心がありました。当時は大学に残るとは思っていなかったのですが、残ることになって、残る以上はやるしかないという感じでした。
金淑子希望は?
金建秀希望というか、愛国運動の要求なら何でもと思っていたし、周りでは教育現場に出る人が多かったので、教員になるのかなと思っていました。
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