私も一言:基本は正しい歴史認識と相互理解
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李英順 >>>facebook 2019.6.13 より
六月八日練馬でジャーナリストの安田浩一氏を招いて、「ヘイトスピーチ」に関する講演会が開かれました。講演は、映像も交えながら、胸が苦しくなるような深くきつい内容でした。当日、私も当事者として発言する機会をいただきました。五月二〇日の無償化街宣の時に起きたヘイトスピーチ騒動の事を中心にお話ししました。
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この日、私たちは何故練馬駅に居合わせたのか?
それは、二〇一〇年度から実施された高校無償化制度から朝鮮高校の生徒達だけが排除されていることは差別であり、不当であるという事を訴えて、練馬の市民の方々と朝鮮学校の学生たちが練馬駅前でアピール活動をしていたのです。
そこに、このヘイト集団がやってきて、大音量の拡声器で、朝鮮高校と在日朝鮮人を口汚く罵倒し始めたのです!
この日、一〇人の高校生たちがアピール活動に参加していました。
私たちが先に無償化の街頭アピールをしていたからでしょう、この日のヘイトのターゲットは完全に朝鮮高校でした。間違った認識に基づいた支離滅裂な汚い言葉で、自分たちが通っている学校や民族を大勢の街ゆく人たちの前で大音量で罵倒された高校生たちは、いったいどんな気持ちだったでしょうか?
高校無償化問題で、国や行政から、制度的にはじかれたとき、ある高校生が言いました。
「自分たちの存在を否定された様でショックだった。お前たちは、普通と違うんだ!と、国が僕たちを否定した。」と。そして、歳月がたちましたが未だ、朝鮮高校は制度からはじかれたままで、彼らの後輩たちが「自分たちにも等しく学ぶ権利を与えてほしい。」「街ゆく皆さんに自分たちの事を少しでも理解してほしい。」と練馬までやって来て、このようなヘイトを目の当たりにしたのだから、ショックだし、普通はひるみますよね?
引率の先生が少し離れたところに生徒を誘導しているのを見て安心した私は、ヘイト集団の周りに集まった人たちに、これ幸いと持っていたリーフレットを配ったり彼らの不当性を説明したりしていました。ふと、気づくと隣で高校生たちもリーフレットを配ったり、ヘイトスピーチの現場を写真に収めたりしているのです。そして、ヘイト集団が警察に守られながら引き返したすぐ後に、何事もなかったかのように街頭アピールを再開しました。
臆することなくマイクを持った高校生がこう言いました。
「僕たちは、ただここ日本で普通に生きていきたいだけなのです! それは、そんなにいけないことですか?
僕は、日本で生まれて今まで一度も朝鮮半島に行ったことがありません。けれど、学校で自分の国の事を学んでいます。これから、自分の国、北にも南にも行ってみたいし、もっと色んな事をたくさん学びながら、自分の事をよく知って、ずっと日本で生活していきたいと思います。」
人間としてあまりにも当たり前な事を、力を振り絞って訴えている彼の姿が健気で、それでいて頼もしくて、その一方であんなヘイトをまき散らす奴らを野放しにしている大人たちのふがいなさと自分の無力さが悔しくて思わず涙がこぼれました。
アピール活動の後の終りの会の時に、高校生たちが口々に言っていたのは、初めて身近で経験したヘイトはショックだったけど、自分たちの為に戦ってくれている日本の方々がいるという事が力強かった! 自分たちが当事者として、もっともっとしっかりしなくてはならないと思ったという事でした。
そう、この日、今まで一緒に高校無償化の適用の為に戦ってきた練馬の会の仲間たちは勿論、偶然通りかかった方も含め練馬でヘイトなんか許さないという人たちが、ヘイトをがなり立てる醜悪なやつらの周りを取り囲み、帰れ!帰れ! と声の限りに抗議をしていたのです。
なので、高校生たちが初めて目の当たりにしたヘイトの醜態は、それに断固と立ち向かう大人たちの背中越しだったし、拡声器から大音量で自分たちに向けられた薄汚いヘイトの声は、帰れ! 帰れ! のコールにかき消されたものだったのです。
それは、私にとっても、何より高校生たちにとっても、せめてもの救いだったと思います。
しかし、その日、遠巻きに集まってヘイトスピーチを見物していたその他大勢の大人たちは、眉を顰め違和感をあらわにしながらも、口をつぐみ、目を背け、かかわりたくないという態度でした。面倒な事に巻き込まれたくない、自分には関係のないこと、ヘイトされる側にも問題あり、そんな態度の人たちが大半を占めているのが、悲しいかな、今の日本の社会です。
私たちは、口をつぐみ、耳をふさいで無関心でいることは、差別やヘイトに加担する事であり、それは、やがて取り返しのつかない社会への流れを自ら後押しする罪深い行為であることを、先のナチスによるユダヤ人迫害の歴史から既に学んでいるはずです。
個人は無力です。わたしなんて、何時も無力さにさいなまれてばかりです。
でも、だからこそ、個々人が声を上げ連帯して、違う事は違う! おかしいことはおかしい!と、不条理に立ち向かっていくことが大切だと思います。
私たちが幼いころ、いいえ、私たちの祖父母が海を渡って日本にやってきたときから今日まで、変わらず民族差別は根深く存在します。しかし、近年、在特会のような輩が隊列を組みヘイトデモをしたり、幼い子供らの学び舎である学校を襲撃したり、インターネットで執拗に個人の攻撃をしたり…挙句の果てに銃撃事件まで起こる事態になったのは何故でしょうか?
私は、要因の一つには、日本の民主主義の衰退にあると思います。
個人の尊厳が蔑にされ、不平等や不寛容が横行する、そんな社会の風潮が差別意識を容認し助長し育ててしまっているように思えてならないのです。
いつでも、社会が不安定で平和が脅かされるとき、人々の不安や怒りの矛先は弱いものに向けられます。
そして、それをミスリードしているのは誰なのか…
本来なら、民主主義を牽引する立場にあるマスメディアは、むしろ差別や反感をたきつけるような報道ばかりが目につきます。
そんな中で、歪んだ歴史認識の持ち主、はたまた、歴史教育をきちんと受けてこなかった人たちが、ヘイトへと駆り立てられているのです。しかし、憎しみやいがみ合いからは何も生まれてこないし誰も救われないと思います。
本来なら、戦後、過去の植民地支配の過ちをきちんと清算し、反省に基づいた正しい歴史観を築き上げるべきだった国や政府が、相も変わらず露骨な蔑視政策を続けている現状です。
高校無償化法の制度設計に携わった前川喜平前事務次官は、高校無償化制度から朝鮮高校だけを排除した国の政策は、まさに管制ヘイトだと仰ってました。
政治的理由で特定の学校だけを制度から排除し、地方自治体に補助金の打ち切りを示唆する通知を送り付け、民族教育に対する攻撃を益々強めることで、子供たちを政争の道具にするような政府のあり方は、生活の場で横行するヘイトを抑制するどころかお墨付きを与えているようなものです。
三年前の六月三日、「ヘイトスピーチ解消法」が施行されました。解消法の施行は、ここ日本にヘイトが存在し被害にあっている人たちがいるという事を公に認めさせたという意味では大きな意義があったと言えるでしょう。
しかし、私たち在日の実生活では法の実効性は殆ど感じ取ることが出来ません。それどころか、施行後、在特会の幹部らによる政治団体の結成や政治運動に名を借りたヘイト、弁護士らに対する集団的な懲戒請求、同胞系信用組合に対する放火未遂事件、総連中央会館に対する銃撃事件、ヘイトの手口はより巧妙で過激になっています。今年に入っても、京都市の四条通で京都第一初級襲撃事件10周年を祝うヘイトデモが行われる有様です。法が施行される直前の一六年四月の熊本地震の時、SNS上で「朝鮮人が井戸に毒」などというとんでもないデマが飛び交いましたが、今回の登戸無差別殺傷事件の直後も「犯人は川崎の在日」などというデマがすぐさま横行する有様です。
戦前、大量殺りくが行われた関東大震災の時と根本は何も変わっていないのです。
恐ろしいことです。
ヘイトスピーチ解消法は施行されましたが、罰則規定はありません。取り締まれないのです。
現に、練馬駅前でヘイトスピーチをしたやつらは、警察に守られながらヘイトをまき散らかしていました!
法律の事、政治の事は難しくて理解が足らない部分もあるのですが。国が動いてくれない状況で、ここ練馬で罰則規定を盛り込んだ条例を制定してもらうのは難しいことなのでしょうか?
生活の場から、声を上げて、変えていくことは出来るのではないでしょうか?
そして、最後に言いたいことは、ヘイトスピーチという扇動行為そのものを問題視して取り締まっても、根本にある差別意識を無くさない限り、本当の意味での解決にはならないという事です。
それには、正しい歴史認識の上に立ってお互いを理解する事が基本だと思います。
過去の過ちに学び、同じことを繰り返さないために正しく歴史を理解し、反省と学びを繰り返すことこそ本当の意味で差別や排外主義との闘いだと言えるのではないでしょうか?
取り急ぎ二つの提案があります。
一つは、先ほど申し上げたように、練馬で地方自治への声を共に上げていきましょう!
もう一つは、今日の折り込みの中に一際さわやかなチラシがあります。来週の土曜日、一五日は十条にある朝鮮高校の文化祭です。
理解し解りあうために、是非、足を運んでみてください。
因みに、練馬に来たヘイトのグループが、文化祭の日に最寄りの十条駅に来ると言っています。文化祭の終わる時間帯、駅前でヘイトスピーチを行う算段だと思いますが、皆さん、文化祭を楽しんで、帰りにカウンターを浴びせるというコースもありですね。56