監督対談:『不当、不倒』チェ・アラム ×『ウリハッキョ』キム・ミョンジュン
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文:チャ・ハンビ 写真:イ・ヨンジン
インターネット新聞「リバース」二〇一九年五月二六日からの転載。
原題は「조선은 고향이다(朝鮮は故郷だ)」。訳、タイトルは編集部による。
解放後、日本に残った朝鮮人は祖国の言葉と文化を学ぼうと学校を建てた。現在も六〇余り残っており、これを朝鮮学校と呼ぶ。「朝鮮」は既に存在しない国ではあるが、「朝鮮人」というアイデンティティをパターンにした「朝鮮学校」は同胞社会の中心をなし、長い間教育や闘争の現場として機能している。在日朝鮮人は、それほど複雑な境界に位置している。日本も、韓国も、北も彼らのルーツを明確に説明できない。朝鮮半島の政治状況や緊張関係によって在日朝鮮人は異邦人や敵のように扱われ、脅かされてきた。
金明俊監督は『ウリハッキョ』(二〇〇六年)、『グラウンドの異邦人』(二〇一三年)などを通じて在日朝鮮人と韓国社会の出会いのために努力してきた。「北海道朝鮮初中高級学校」の人々をありのまま見せてくれた『ウリハッキョ』は、作品性を認められて、観客から記録的な支持を得た。しかし大衆的関心や理解を促す努力にもかかわらず、在日朝鮮人に対する差別は依然繰り返されている。チェ・アラム監督がカメラを持った理由がここにある。朝鮮学校への弾圧は高校無償化制度からの排除や教育補助金の中断のような制度的差別に拡散され、現在朝鮮学校ではこれに対する訴訟が進められている。
第七回ディアスポラ映画祭で上映される『不当、不倒』(チェ・アラム・二〇一八)は大阪朝鮮学校の「無償化裁判」二審判決当時の姿をいきいきと伝えた。在日朝鮮人の不安や怒り、そして堅い意志を収めたこの映画には、嫌悪に歯止めをかけて人権を目指して進もうという連帯の声が込められている。制作年度には十年以上の違いがあるが、『ウリハッキョ』と『不当、不倒』は、昨日と今日、今日と明日のようにつながっている。映画祭開幕を前に両監督にインタビューを申し込んだ。金明俊監督は快く応じてくれた。二人は映画のテーマから制作方式、配給に関する悩みまで幅広い対話を交わした。この日のインタビューは金明俊監督とチェ・アラム監督が活動する市民団体「朝鮮学校とともにする人々 モンダンヨンピル」の事務所で行われた。
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二人の出会いから始めましょう。朝鮮学校に関心を持ってドキュメンタリーを撮影しようとすれば、まず金明俊監督と『ウリハッキョ』に会うことになるはず。その過程と、チェ・アラム監督が今回の作品を作った背景についても聞きたい。
チェ・アラム在日朝鮮人に関しては何となく知っている程度だったが、大学に入って『ウリハッキョ』を見て具体的な状況を知った。当時、映画を見てすごく感動したし、心に響くものがあった。けれど自分の生活で実践することはできなかった。そうして少しずつ忘れて暮らしていて、二〇一七年にモンダンヨンピルが主催する「ウリトレ」行事に参加することになった。二〇代の韓国の若者と日本に住む同胞たちが二泊三日の間交流するプログラムだ。その時ぎりぎり二十代後半で参加できた。(笑)同胞たちに直接会って多くのことが変わった。それまではなんとなくあいまいだったものが、実際に顔を見て一緒に生活してみると、具体的な存在となって迫ってきた。友だちや妹弟のようにはっきりとした対象となって認識されると、統一とか民族という概念が新たに理解できるようになった。
金明俊 それまで全く知らないわけでもなかった。チェ・アラム監督は「ドキュ創作所」という映像集団にいるが、そこに所属している監督のひとり、キム・チョルミン監督がモンダンヨンピルの行事によく顔を出していた。予定が入った時は代わりにチェ・アラム監督を送った。在日同胞と演劇をしたことがあるのだが、そのとき「ドキュ創作所からチェ・アラムという人が撮影に行くからよろしくお願いする」という連絡を受けた。その後、セウォル号追悼集会やキャンドルデモなど、ドキュ創作所が作った映像を見ながら、時間が経つにつれチェ・アラム監督が作ったクリップが目に入ってくるようになった。引き続きアップグレードされているイメージかな?
チェ・アラムドキュ創作所で活動して四年目の頃は、私のことを知らなかった。(笑)
金明俊そうだったっけ?(笑)
ドキュ創作所ではいつから活動を?チェ・アラム二〇一四年に始めたので今六年目だ。ドキュ創作所はドキュメンタリー制作とともにオンラインを基盤とするメディア運動に力を入れている集団だ。今はモンダンヨンピル会員でもある。「ウリトレ」という行事に参加してから入会した。今は超高速昇進して運営委員を務めている。(笑)主に若者中心の小さな集まりをしている。
金明俊「ウリトレ」に参加した後、誰かが頼んだわけでもないのに、自ら短い映像を作っているようだ。新規の会員や朝鮮学校問題に関する情報に触れたことの無い人たちに見せるのにちょうどいい映像だ。当時は法律的な問題のせいで非常に複雑な状況だったが、映像を見ると、できあがりもよくて事案に対する理解度も高かった。難しいことをわかりやすく説明するという印象を受けた。作った人の気持ちも伝わってきた。どんな気持ちで撮って、何の話を伝えたいのかがはっきりしていて、そんな点が非常によかった。
チェ監督は、同胞たちとの出会いを通じて民族や統一を改めて考えるようになったと言った。チェ監督と同じ世代の私には、非常に遠く感じられる概念だ。映画にも統一を願う民族教育を強調する話が出てくるが、実際に日々の暮らしとつなげるのは難しい。監督には何が接点だったのか?チェ・アラムそうですね、私もなぜかよくわからない。大学生の頃は同好会でプンムルをした。幼い頃から民俗的で伝統的な文化に惹かれた。学生時代にも自分なりに社会運動に関わってきたが、その過程で統一についても自然に考えるようになった。結局分断や北朝鮮に対する視線は、韓国社会の深い闇として残っているのではないだろうか。二十代を「李明博・朴槿恵」政権の下で、非常に熾烈に送った。(笑)それでもやはり何か漠然と引っかかっている部分があったが、同胞たちと会ったことが決定的なきっかけとなった。今も言葉ではっきりと説明できないが、「ようやくピースが埋まった」ような感じだった。
金明俊そうなんだ。私たちの世代が学生の頃は、八月になると光復節前後に統一先鋒隊などで街頭デモをよくした。ただ発言するだけでなく、激しいデモをして統一を叫んだ時期だった。横で友人が警察に捕まるのを見ながら自分も負傷して、文字通り戦争のような状況を目撃した。林秀卿さんや文益煥牧師の訪北が話題だったし、統一という問題を具体的に認識していた。実態はないものの、感覚はあったから。統一というのは本当に大変だ、こんなに多くの人が捕まっていくのか、と。ところが聞いているとチェ監督世代は感覚を持つ状況さえなかった。
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社会問題に接するためには「顔」が必要なようだ。向かい合って対話できる、実在する人々。
チェ・アラムその通り。統一の一つのテーマだといえる在日朝鮮人に会って、実感した部分がある。それまで対象を意識しないまま活動してきた事実に気づかされたというか。
金明俊寝食を共にして親しくなる瞬間がある。互いに理解できる面がだんだん広くなって。今はSNSの時代だ。『ウリハッキョ』を撮った時はスマートフォンもなかったし、連絡手段はせいぜいEメールか手紙だった。Eメールも韓国語入力機がなかった時代で、書いて送っても日本では文字化けした。結局画面に手紙を書いてイメージとして送るしかなかった。(笑)今は会った時間は短くても、コミュニケーションをとれる窓口は多様だ。互いを知る密度が全く違う。うらやましい。
『ウリハッキョ』を撮影したときの状況が知りたいです。三年間、日本に住みながら映画を作ったそうですが、撮影や編集はどういうふうにしたのですか?金明俊本当にアナログ時代だった。HDもなかったし、DVテープで撮った。撮影本をデジタル化するにもコ・サヤンプロデューサーが必要だった。編集するときにコンピューターメモリーが二ギガしかなかったが、当時としてはかなりいいものだった。(笑)映画にも出てくるが、当時子どもたちが北に卒業旅行に行くとき一緒について行こうと思っていた。北に行けば韓国には戻れないだろうから、日本で暮らすことをいろいろ考えた。旅行の前日にテープを寄宿舎の部屋に保管しておいて、編集を担当していたコ・ヨンジェプロデューサーに取りに行くように頼んだ。ところが結局北には行けずに生徒たちにカメラを託した。後に帰国したときに怖い思いもした、空港で突然捕まるのではないかと。実際に検察庁から通知がきたこともある。国家保安法によって捜査官が二〇〇五年五月から二年間の通話記録を照会したと。結果は容疑なしだったが気分が悪かった。幸いでもあり、不快でもあり。
「不当、不倒」のエンディングレコードに資料提供者として金明俊監督の名があるが、どのような資料か?金監督が初めてこの映画を見たのはいつで、制作過程に二人で話し合った部分があるのか?チェ・アラム映画に挿入された資料画面が『朝鮮の子』という映画で、そのファイルをもらった。
金明俊一九五〇年代に作られたドキュメンタリーだ。同胞たちが金を出して日本人監督とスタッフに頼んで作った。記録された画面と演出された画面が混ざっているが、史料としても作品としても非常に立派だ。制作過程でチェ監督が特別に助けを求めたり、私がアドバイスしたりした部分はない。もちろん編集本を見せてくれれば見る意向はあるが。(笑)高校無償化問題に関する作品を作っていることは知っていたが、チェ監督が撮影していない内容を持っている第三者とつないだことはある。映画が完成した後、KBS「ヨルリン(開かれた)チャンネル」で放映されるという話を聞いてすごくうれしかった。
同僚作業者として映画を見た感想は?金明俊本当によくできている。実は内心、心配もしていた。私たちの時代に独立映画をする人たち、特にドキュメンタリーを撮る人たちの中には、運動を先に経験した人が多い。彼らは、いわゆる映像言語の快感やおもしろさに魅力を感じて、社会問題として拡大するのではなく、効果的な宣伝のための道具として映像言語に接する。そんなケースでは、映画がメッセージの伝達に没頭して、結局言わなくてもいいことまですべて言うことになる。観客は自ら判断できるのに、答えをすべて見せようとする。明瞭で先導的な方式ではあるが、一般観客との接点を増やす問題については効果を確信できない。両方が完全に別のものだと言うよりは、何等かの境界があるのだと思う。チェ監督の映画はその境界が大げさでない。同僚としても観客としても美徳だと感じた。映画をすべて見た後に「期待してもいい」と思った。(笑)私には乾きがあった。『ウリハッキョ』という作品が良い悪いは別にして、その後に出てくる映画に物足りなさを感じていた。在日朝鮮人について話すとき、ハッキョという空間と一年単位の時間をパターンにした構成から抜け出せない。何か新しい話し方をしてくれる人、観客とまた違う対話ができる人が必要だと思っていた矢先に、チェ監督の作品を見てうれしかった。
チェ・アラム以前ある批評家が、在日同胞を扱う映画はどれも似ていると言っていた。同胞を見る視線や描く方式が典型的だという批判だった。同意する部分もある。在日同胞は固定された存在ではないし、創作者として自分だけの視覚をもたなくてはと思った。映画を作りながら在日同胞を被害者として登場させないと決めた。闘いに勝つのは稀で、敗北が続いている。けれど彼らが容易に得たものは何ひとつない、どれも闘って勝ち取った、厳しい中で放棄しなかった。その姿を見せたかった。
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ランニングタイムは三〇分だが、現場取材からインタビュー、アニメーションなどいろいろ試みたが、どんな意図があったのか?
チェ・アラムインタビューが中心の状況で余り説明的に流れないようにするために悩んだ。私自身もそうだが、携帯電話やコンピュータで映像を見る人たちは非常に早いリズムになれている。視覚に訴える資料をできるだけ挿入したいと思った。インタビュアーが過去を回顧する場面に短いアニメーションを提供して、可能な限り想像を膨らませてほしいと思った。アニメーション作業をしたペ・ジュヨンさんは「ウリトレ」のイベントで知り合った友人だ。この問題に関心や愛着があるので、話がよく通じた。制作費が十分な環境ではなかったので、同胞をはじめ周辺にいる人たちの心遣いで完成した映画だ。
インタビューの話をもう少し聞きたい。映画の前半で「朝鮮学校無償化を求める連絡会」大阪支部事務局長の長崎由美子さんが状況をわかりやすく要約している。その後全般的に二世から四世代までの女性たちが中心話者として登場し、最後に故金福童人権運動家のメッセージで終わる。起承転結がはっきりしているのと同時に、核心テーマが女性たちの口を通じて伝えられるというやり方が印象的だった。チェ・アラムはじめから「女性だけにしよう」というつもりはなかった。ところが本格的に交渉する過程で浮かんだ顔がなぜかすべて女性たちだった。(笑)実際に同胞社会で「オモニ会」を中心とする活動がもっとも盛んだ。だから自然にハルモニ、オモニ、娘につながる構成になった。
金明俊交渉相手は、知り合いの中から選んだのか? それとも撮影しながら選んだのか?
チェ・アラム撮影前からこんな話をあの人に聞こうという絵はあった。企画段階から一人ずつ交渉したが、その中でペ・ヨンエ先生はモンダンヨンピルの講演の時に初めて会った方だった。過去の状況に対する証人として先生を訪ねて行かなくてはと思った。リ・ヒャンデさんはキム・チョルミン監督作品の演出助手をしているときに知り合った方で、四世の生徒を捜すのが難しかった。ハッキョに公文を送ったり、一人ずつ訪ねて歩くには日程がさし迫っていた。幸いリ・ヒャンデさんの娘のリ・ジニさんにお願いできた。金福童先生が登場する場面は、企画段階には考えもしなかった。あの日、あの場にいらっしゃるとは知らなかった。現場で新たに追加した。
金明俊同胞社会もどんどん変化している。ある種の封建制や家父長的な文化が「民族」や「伝統」だという名で維持されてきたが、この数年、そこから抜け出そうという動きが出てきた。一年前から朝鮮学校ではジェンダー教育を実施している。性の問題だけでなく、女性や性少数者のイシューに関しても集中している。この運動を引っ張っているのが三十代の在日同胞女性だ。私もこのような変化に大きく期待している。
ハッキョは今も同胞社会の求心点のようだ。金明俊そうだ。在日本朝鮮人総連合会(朝総連)がハッキョより優先だという誤った認識があるようだが、実際には朝総連の前身である朝鮮人連合(朝連)も、最初のハッキョが設立された後にできた組織だ。朝総連がハッキョを体系化する上で役割を果たしたのは事実だが、ハッキョを作ろうという動きは市民から始まった。朝総連がハッキョを掌握したというのは誤りで、同伴的関係と見るべきだ。どんな組織も下部がしっかりしていてこそ維持される。逆もあるが、結局ハッキョが厳しいときは組織も大変になる。今も同窓会が開かれると各地から同胞が集まる。チェンチ(お祝い事)のように、(笑)ハッキョというのは単に教育機関と言うだけでなく、唯一の「自分たちの領土」と思える空間なのだろう。その中でいろいろなことが起こる。村の公民館のようにみんなで集まって会議して、酒を飲んで、子どもたちは歌を歌って。
チェ・アラム今の私たちにはない、日本にもない姿がそこに残っている。六〇~七〇年代の香りに刺激されるとでも言うか。実際にこの運動に参加している日本人たちの中には高齢者が多い。
金明俊一方で若手不足だという話も出る。朴槿恵政権弾劾を経て、日本に行くといつも聞かれるのがそれだ。キャンドルデモって何なの?なぜあんなに多くの人が集まるの?
実際に日本のデモの雰囲気は独特だ。やり方が穏健すぎるというか。「泉南石綿被害賠償訴訟」(原一夫、二〇一七)など同時期の日本の社会問題を扱ったドキュメンタリーを見ても似たような感想を持つ。在日同胞も数十年の間戦い続けているが、声を上げる姿は「整頓された」訴えのように見える。金明俊実際にそうだ。日本の社会運動の歴史とつながっている。昔は過激なデモが社会的に大きな波を起こした。しかし主張は正当なのに運動は結果的に「滅び」た。不法になることを強く警戒している雰囲気だ。韓国では要求事項があれば占拠する。連座籠城が始まってから集会を申告して。(笑)日本ではデモの途中に信号があると、青に変わるまで待つ。その間に隊列は前後に離れるが、警察が止めると止まる。心の中で「これがデモなのか」と思うが、デモ参加者だけでなく公務員たちも同様だ。抗議書を作成して訪ねていくと、応接室に官公署職員たちが何人も出てくる。どんなに意見を聞いても「上がさせることなので、どうしようもありません」というばかりで、それでも一応抗議文を受け取って写真まで撮る。
チェ・アラム他山の石と言うではないか。長期の闘争になると、世代別に感じ方が違うようだ。同胞社会だけでなく闘争状況も引き続き変化して。
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その間、日本にいる同胞と地道に交流を重ねてきたと思うが、いざカメラを抱えて向かい合ったときはどんな気分だったのか?二審判決前後はデリケートな時期でもあったと思うが。
チェ・アラムすべてのドキュメンタリーに通じることだと思うが、同胞社会でも信頼を重ねることが何よりも大切だ。その間メディアを通じて攻撃されてきたので、感情的なつながりのないままカメラを抱えて訪ねて行くのは難しい状況だった。私も相手を気遣い、相手も私を思ってくれる過程が必要だ。ドキュメンタリー映画の許可をもらったときはうれしくてありがたかった。話をする過程が面倒なときもあるが、私に心を開いてくれたのだから。
金明俊映画を見て驚いた点がある。朝鮮学校の問題を話すのに、ハッキョ[学校]に入っていない。監督の立場では朝鮮学校を扱うなら、当然ハッキョを撮りたいはずなのに。実際に多くの映画がそうしている。ところがこの映画は少し違う。ハッキョと生徒の話をしていて、感動的でもあるのに、「あれ? ハッキョが出てこなかった、これはなんだ?」と思った。賢いを超えて大胆だと感じた。この作品は果敢にハッキョという場を除外しながら、力強く映画を引っ張っている。「こんなつくり方もあるのだ」ということを新しく学んだ。
チェ・アラムありがとうございます。(笑)実際に物理的条件が良くなかった。高校無償化裁判に関連した映画を作るなら、すぐに始めたほうが良いと思った。そして企画案を何度も書いたが、制作支援の公募にすべて落ちた。(笑)韓国でも余裕をもって活動したことはないが、海外に出ると絶対的に必要になる費用がある。「このまま諦めるしかないかな」と思った瞬間、偶然タイミングが合った。二審判決が出る前に同胞たちが私を行事に招いてくれた。「あ、これは啓示だ!」と思った。思い続ければ全宇宙が助けてくれるという誰かの言葉が浮かんだ。(笑)お金をあるだけかき集めた。行くまでワクワクしながらも怖かった。一人で海外に行くのも初めてだし、日本語は本当に一言もできなかった。最後には宿泊料も食費も底をついたが、同胞たちが提供してくれた。本当にみんなで作った映画だといえる。
インタビューの場所はどうして提供してもらったのか。自宅や書店のように見えたが。
チェ・アラムペ・ヨンエ先生は先生のお宅に行ってインタビューした。ほかの方たちは「セッパラム文庫」という小さな書店でした。私はそこで泊まっていた。(笑)本当にわずかな空間で照明を照らすこともできない空間だった。私とリ・ヒャンデさん、リ・ジニさんの三人が携帯電話の照明で代用した。だから照明が微妙に違う。娘のジニさんがインタビューする間、リ・ヒャンデさんは最後までフラッシュを照らしていたが、ジニさんは腕が痛くなると下していた。(笑)スタッフがいないので画面に物足りない部分もあるが、一方で内輪の空気を出すこともできた。小さな部屋にカメラ一台を立てて、三人の女性でこそこそ話していた、ジニさんがオモニの話をして泣いた部分があったが、その場面は入れなかった。
「被害者として描きたくなかった」から?チェ・アラムそんな思いもあったし、映画の流れ上、その部分はいらないと判断した。
金明俊でも編集していると、切りたくないけれど切るしかない場面もあったのではないか?
チェ・アラム今ははっきり思い出せない。あったと思うが。(笑)
金明俊そうだ、結局切ると思い出せない。でもその時はもったいなくて。(笑)じゃあ、強調したい場面はどこ? 言いたいテーマがはっきりしていて、そこにはめ込んだ理由が明らかで、観客の反応が期待される場面は?
チェ・アラム裁判直後の記者会見の場面だ。日本語がわからないので当時は何を言っているのか全くわからなかった。でも何か感じた。いろいろな方が発言したが、コ・ギリョンさんが話すときは雰囲気が変わった。当初の企画にはなかったが、重要だと思って挿入した場面だ。「朝鮮人が悪いですか?」と、「この場にいる記者の方々、朝鮮学校に来て子供たちを直接見てください」と言うのが、記者にだけ言っているように聞こえなかった。依然インターネットには朝鮮学校や在日同胞を貶める文がアップされている。韓国にいる人々にも有意義な言葉だと思った。
金明俊ああ、同感だ。(笑)その場面は私も印象的だった。
チェ・アラム「知性のあるみなさん、差別と決別すべきです」という言葉が映画のテーマだと思う。その意味を伝えようと、続けて金福童先生が発言の中で「朝鮮」とおっしゃった。韓国社会で朝鮮は「北朝鮮」と認識されて差別を呼ぶが、金福童先生がおっしゃった朝鮮は、すべての暴力が発生する前の「故郷」を指している単語だ。非難の対象ではないという点をもう一度確認したかった。
金明俊そろそろ長編を撮っては?(笑)
チェ・アラム考え中だ。(笑)これまでメディア活動家として大小の作品に関わりながら悩んできた。長編は、自分の心に深く入り込んで来た時に撮らなくてはと思ってきた。今は演出助手をしているので、その作品が完成した後に始めようと思っている。
金明俊次作でも在日朝鮮人問題を扱うのか?
チェ・アラムおそらく。今現在もっとも心を奪われている話なので。具体的なテーマや素材を決めたわけではないが。とりあえず闘争の状況を伝えて、世論を作り出すことに集中する計画だ。映像がもう一つの道具になることを願っている。同胞たちが闘争過程に映像を多く使用している。すでに私の作品を直接日本語や英語に翻訳して見ている。映画祭ではなくユーチューブで作品を先に公開した理由もそんな脈絡からだ。同時にインターネット環境で映画を見るのは、劇場で見るのとは違うので悩むところでもある。
金明俊ユーチューブのようなオンラインプラットホームやTV放送は、映画祭とは少し違う。出品すると、再編集したくなったり、登場人物の個人的な姿を見せることに集中したくなったり、欲が出ないか?
チェ・アラム正直言って、再編集する映像がない。(笑)日程がタイトで、初めから構成通りに撮影した。
金明俊短編でもこれまで作った短編とは違うリズムではなかったか?
チェ・アラムメディア活動で映画を始めたので、SNSに慣れた世代として、私自身速いリズムに慣れていると改めて思った。一方でアイデンティティに混乱を感じた。(笑)「私はどのあたりにいるのだろうか?」と。短いクリップをその時期に合わせて出すメディア活動とドキュメンタリー制作を目指しているが、二つのリズムや話法が違う。何に集中すべきか把握できなくて、一時揺れた。今は両方しっかりやると結論を出した。結局、極端に違うというよりも、作業の合間に相互補完できるつなぎ目を探すのが大切だと思う。
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ユーチューブの紹介数は七千を超えた。オンライン上映がもう一つの代案上映として定着しているようだ。
チェ・アラム私も知らなかった。この間ドキュ創作社がオンラインメディアを基盤に活動してきたので可能だったと思う。
金明俊配給環境の変化に目を見張る。『ウリハッキョ』の時はデジタル配給という概念自体がなかった。今は劇場でも映画をファイルで上映する。単に方式だけでなくシステム自体も変わった。開封一週目が終わると引き続き上映するかどうかや規模が決まり、すぐにIPTVに移っていく。監督は何もできない。映画を作って完成したら終わりではなく、その後、観客に直接会って対話を交わして感じることが必ずある。そうして監督として栄養分を吸収する。自分の映画を改めて考えて、次の映画について悩むエネルギーを培うのだ。ところが今はむなしさを感じる。変わった配給環境にドキュメンタリー、特に独立的な方式の作業がどう反応すべきなのか悩む。「何を目指すべきなのか?今の条件を積極的に利用するのがいいのか?」悩み始めると、根本的にドキュメンタリーを作る理由に至る。
共同体上映という概念も過去とは変わったようだ。これまでは社会参加的なムーブメントとして認識される面が強かったが、今は文化企画のイベントとして定着する傾向だ。監督や制作陣の参加なしに、オンラインリンクを伝える形態で上映が行われる。
金明俊ドキュメンタリー制作の目的に沿った上映方式は何なのか、悩むところだ。劇場開封もいろいろ考えるべきところがあるし、最近は制作支援や審査過程で監督に求められる能力が以前とは違ってきている。結局ドキュメンタリーを作る者として、変化した配給環境に合うように新たな形式と内容を発掘する努力が必要になる。かなり前だが「二つの門」(キム・イルラン、ホン・ジユ、二〇一二)を見て、かっこいいと思った。インタビューも非常に丁寧で、実際に事件を再現するレベルも高かった。このような創作者たちがいるから発展するんだと思った。話のついでだが、最近私は、プロデュースに興味がある。チェ・アラム監督が次の作品を作るときは考えてほしい。(笑)
チェ・アラム光栄です。
演出計画はあるのか?金明俊私は演出するとき、写真調査から陣を張るスタイルだ。本当に骨身を削って作業するので、簡単にやるとは言えない。一緒に企画して、監督が自由に作品を作れるように保障する役割をしてみたい。チェ監督が日本で苦労した話を聞くと残念だ。私ともう少し話していれば、少しは助けになれたのにと思う。大阪には知人も多い。(笑)ただ楽に生活するということではなくて、同胞社会の特殊性があるので、仲介の役割をできたかなと思った。
二人が演出者とプロデューサーをすることになったら必ず連絡ください。(笑)最後に今後の計画についてチェ・アラム機会があれば映画祭に出品して、地域上映も積極的にやっていきたい。
金明俊企画展をできればいい。在日同胞関連をテーマに作品を集めて。
チェ・アラムそれはいい
金明俊モンダンヨンピルは会費で運営される会員団体だが、最近会員数が増えて若干貯蓄ができるようになった。その金を集めて映画製作費として支援できればいい。一年かかるか、二年かかるかわからないが、周辺に関心がある方がいれば教えてほしい。ドキュメンタリーもいいし劇映画もいい。(笑)56
次のサイトで『不当、不倒』(チェ・アラム・二〇一八)が観られます。
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