スッチャオルケ(兄嫁)に
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金圭蘭:第40信(2019.6.8/他)
整理者:筆者の金圭蘭[東京朝鮮第三初級学校18期・東京朝鮮中高級学校21期卒業生]は、編者・金日宇の妹である。朝鮮大学校の工学部機械科に在学中の1972年春に帰国した。
長年住み慣れたアパートの建て替えのため、仮住まいで長女夫婦と一緒に暮らしている。近く、新築のアパートへ転居するようだ。
原文は大方日本語で、一部単語は朝鮮語。書き手のニュアンスをそのまま伝えるため、誤字、脱字だけを直した。文中[ ]内と注釈は、整理者が付けくわえた。 (「記録する会」 キム・イルウ)
万物が蘇生するという春、様々な鳥がさえずり、名も知れぬ花が咲いては散る…オルケお元気ですか? 一も二にも健康に気遣ってください。いつまた会えるのか…。六月一〇日頃、引っ越しします。新居に必ず一回招待したいです。一回ではなく、二回、三回、何回でも。
高齢のオモニの世話、オッパ(兄)と、オルケに任せてすみません。
新しい住所、お知らせします。
◎東京朝高21期卒業生の集まり―花より団子です
昨年(二〇一八年)五月二五日、楽しく終えた同窓会は、次の集まりは空の下でということで別れました。何か月か過ぎた九月の中旬、農村支援を終えて、そろそろのその時、どうしようかと相談、紅葉の時節、「ぼくらもそろそろ落ちるときなので、春の方がいいなぁ…」というので、春に集まることになりました。
植物園にする? 4・15百花園? 電話が行ったり来たり、結局はフジの花が満開、それに朝鮮の国花モクラン、そしてバラ…大成山の植物園に決まりました。
花の咲き具合からして、五月一七日か一八日。やっぱり土曜日は孫の帰りが早いので、金曜日に決まりました。
名簿の順を追って電話…。朝の九時から受話器を持って。その時間にすでに外出したトンムがいて、月曜と火曜はお風呂に行くトンムが多く。その日はお見合い、祭事、結婚式…色々です。脚が痛くて大成山まで無理というトンムが何人かいて…なんだかんだで一二~一三人がOKということで。
次はお弁当の心配です。
植物園の中の食堂で麺でも、いやみんなでゆっくり座って話も歌も…、結局はお弁当を注文することに、予算は? コロッケ、ハンバーグ、明太、鶏の煮物、お好み焼き、サラダ、청포무침(寒天料理)、そしてのり巻き。飲み物は持参することになりました。
一二人分を頼んだのに、当日になって「朝、歯が折れちゃって」とか、「昨夜親せきが交通事故で」とか、「孫が」とかで、結局九人になりました。同窓会というより、幹事会です。
とにかく植物園に入りました。どっちに行ったらいいのやら…あちこちの花壇に数知れない多くの花がいっぱい咲いていました。九人は思い思いにおしゃべりをしながら行ったり来たり、背の高い木もいっぱい、朝鮮の国花モクラン―素晴らしい大木です。真っ白な花がいくつも、数えきれません。
植物園には何回も来ているのに、あまりに広く、大きな温室もいくつもあって、よくわかりません。
空は青く、緑の下で、「やっぱりいいね」、「来てよかった」と。「〇〇トンムはなぜ来なかったの?」、「脚が痛いって…」、「ここに来れば足も腰もみんなよくなっちゃうみたいなのに…」。
先に行っていたトンムが「フジ棚がある!」、「すごい」、「早く早く」。ほんとに素晴らしいフジ棚、満開!
でもやっぱり「花より団子」。バラ園の少し手前で、ビニールを挽いて座りはじめました。注文したお弁当を開いてまずはビールで乾杯、「健康のために」。
コロッケにハンバーグ、サラダ…「美味しいね」の連発。リ・セジントンムが家から持ってきた풋초리김치(葉っぱのキムチも)。ときどき、風に吹かれて握り拳大の大きな松ぼっくりが落ちてきたり、木の枝のきれっばしが落ちてきたりした。
誰かが「木の枝に何かいるのでは?」って、「リスかな…まさかサルでは…」。笑いながら頭の上を見上げると、「あそこ…」、「あそこ청서だ」。「청서って日本語で何?」、「生物学部いないの?」。政経、文学、外国語、歴史…私は工学だし…いないね。また大笑い。청서[整理者注・リス科の動物]も食事中のようだ。
適当に腹が膨れると、歌いだし、面白い話も…。
リ・セジントンムの話は、真面目に言っているようなのだが、それが面白い。そのうち、自分も笑いだし、話ができない。高校三年の時、四班だったリ・セジントンム。クラスメートのユン・グァンイルトンム、チョ・リョンジェトンムによると、授業中でも先生の質問に答えたら、先生もふきだし授業をつづけられなくなったという。物理の担当だった、九班のリ・チュンサ先生に「ぼく、頭が良いといわれた」という話にまた大笑いだ。
東京朝高生活は本当に楽しかった思い出でいっぱいだ。
夏のキャンプで踊ったフォークダンス。みんなよく覚えている。メロディーは浮かぶのだが、足が思うように動かない! みな身体がついて行けないのに、口で前、後ろ、左! 一九六八年度(高一)までは、外国の曲だった。翌年からは朝鮮の「フルラリ」。一九六八年の3・14の教えが伝えられてからだと思う。
そういえば、高一のときまで、日本語は日本学校と同じ教科書で習っていた。表紙の国語の文字をナイフで削って「日語」と直していた。一切れのパンを盗んだジャンバルジャン…、そう、レ・ミゼラブルの一部分が「虐げられた人びと」の題目で載っていた。
高二からは学友書房の「日語」の教科書で「一支隊長の話」を学んだ。ブルジョア女性が祖国、同志、革命の道を歩み、日本帝国主義によって犠牲になる。馬を走らせて来た支隊長が「あなたは花だった…パルチザンの花だった…」そんな言葉がすごく印象的だった。
民族教育が「차렷(気をつけ)!」した時期のことだ。
私たちは、そのときに卒業した。
様々な話が次々と飛び出し、五時を過ぎていた。お開きに、周囲をかたづけて立ち上がった。
次回は秋に! ということでした。
「良かった、よかった、楽しかった…この次もまた…」ということになった。56
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