朝青活動を日常化させたい 今は受け皿づくりの段階(朝青茨城・金才皓さん)
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腹割って話し合った高3のウリナラ
金初めてウリナラに行ったのはいつですか?
金委員長初級部二年の時に、オモニがオモニ会代表団でウリナラを訪問して、その時についていきました。ウリナラにイモ(母の姉)がいるので。母方の祖父母は同胞社会に貢献した方でした。中級部二年の時に迎春公演出も行きました。高級部二年の時に学生代表団で、三年の時には修学旅行で行って、大学三年の時には講習を受けに行きました。三年前には朝青代表団で行って平壌で開かれた金日成金正日主義青年同盟の第九回大会に参加しました。
金印象深い訪問は?
金委員長やはり三年前の第九回大会です。そのつながりでもあるのですが、朝青活動家になるのを決心したのは、大学三年のウリナラでの講習の時でした。みんなの前で朝青活動家になると宣言した時のことは今もはっきり覚えています。
中学二年の迎春公演の時のこともいろいろ思い出に残っています。近年では一番の大部隊で一七〇人ほどが参加しました。少年団委員長候補が皆参加していて、男子生徒が四〇人くらいいました。歌を担当したのですが、練習はそっちのけで見学ばかり行くので、本番は大丈夫なのかなと不安でした。リハーサルの時に日本からきた合唱団は舞台前に並んだのですが、マイクがありませんでした。前奏が始まって舞台の幕が開かれると、五〇〇人くらいのウリナラの少年合唱団がいて、そこにはマイクが並んでいました。在日朝鮮少年合唱団の公演で、日本から来たぼくたち四〇人の前にはマイクが無くて、舞台に並んでいる五百人部隊の朝鮮少年合唱団の前にマイクが並んでいる、ぼくたちの声は完全に聞こえないなと。公演が終わると、感激の涙を流している舞踊の女子生徒たちと、「終わった、終わった」と言っている男子生徒たちの温度差が大きくて。この時はそれが一番印象に残っています。信頼されていないのかなと、祖国をちょっと疑いました。(笑い)
金高三の時の修学旅行はどうでしたか?
金委員長ぼくの同級生は一七人いたのですが、入学当時、朝大に進みたいという生徒は一人しかいませんでした。三年間の学校生活を通じて自分の進路について考えるようになって、結果的に一二人が朝大に進みましたが、やはりそのきっかけは祖国訪問だったと思います。腹を割って話した一週間でした。
金どんな話をしたのですか?
金委員長「ウリナラなんて嫌い」とか、「何もやりたいことがない」とか、ぼくは「朝高委員会の委員長だけど、だからといって朝大に行かなきゃいけないわけではない。アボジもオモニも大反対だし、朝大にはいかない。活動家なんて死んでもやらない。朝大に行ったら、その可能性が出てくるから絶対に嫌だ」と言っていました。そうして話していると、ならどう生きていくのかという展開になって、いつの間にかゴールが決まっている討論ではなく、自分たちが答えを探す話し合いになっていました。
ウリナラに行く直前に物貰いになって、医者から太陽の光を当てないようにサングラスをかけて生活するように言われたので、訪問期間中ずっとサングラスをかけていました。「プエブロ」号の見学に育った時に、ウリナラの少年たちに「ヤンキーがいる、ヤンキーがいる」とはやし立てられたり。「ウリナラの無償医療を体験してみなよ」と言われて、病院に行ったのですが、顔を固定されて目に塩水を思いっきりかけられました。「消毒したからもう大丈夫」と言われたものの、にわかには信じがたくて。(笑い)
金不信感が強まったはずなのに、どうして朝大に行くことに?
金委員長実はその時、そんなことを言いながらも心の底では、朝大もありだと思っていたと思います。朝高委員長だから朝大に行くと思われるのがイヤでした。誰かに自分の人生を決められるようで。とがりたい気持ちもあって。でも同胞のために役立ちたいという思いはずっとあって、弁護士になろうかという気持ちも、固まってはいませんでしたが、ありました。
「環境を変える人になれ」
恩師の言葉が人生の指針に
金弁護士になろうと思ったのはいつ?
金委員長高級部一年くらいまではサッカー選手になるのが夢でした。サッカーもちょっとうまかったし。
金グァムにも行ったしね。
金委員長茨城県代表や全国のウリハッキョ高校一年選抜にも選ばれて日本の学校の生徒たちとも一緒にプレーしました。高一の時に目の事故が立て続けに二回あり、網膜剥離になりかけ、このころから視力が2・0から0・1に急激に落ちて、思うようにプレーができなくなりました。ちょっとプロアスリート面をしていましたが、アボジにもその背ではプロサッカーは難しいだろと言われて。もしも運よくサッカー選手になれたところで、安英学選手のように同胞たちに力を与えられるようなスーパーな選手になるのは無理だなと、断念しました。その頃にアボジの友達が整体師をしていて、年収一千万を軽く超えると聞いたようです。ちょうど茨城に理学療法士の学校ができるという時でした。「年収一千万!」と思って、高齢者の同胞を訪ねて行って施術して、ウリハッキョのサッカー部のトレーナーもできるなと、アボジの勧めもあって、すっかりその気になっていました。ところがその話を担任の先生と教務部長でサッカー部の監督だった朴康守先生に話したら、「ダメ」と一蹴されて、もう一度考えてくるように言われました。次は理論武装して訪ねて行ったのですが、その時に朴康守先生が「お前は環境の中で生きる人ではなく、環境を変える人にならなくてはいけない」と言ったのです。その頃、ちょうどウリハッキョに朝大を卒業して弁護士になった先輩が講演をしに来て、テレビでも弁護士のドラマをやっていました。こういう世界もあるのかと思いました。新しく朝青茨城に赴任してきた先輩も朝大法律学科卒業で、高二の時に法律の授業をしてくれました。法律って大切なんだなと、法律を勉強すれば同胞たちの権利を守って差別されている現状を変えられるかもしれない、日本人の弁護士も大切だけど、同胞の権利を同胞が守ることも大切だと考えるようになって、弁護士になろうと思いました。
金いろんなことが弁護士の道に導いてくれたのですね。
金委員長誘導されているのかと思うくらい。
金「環境の中で生きるのではなく、環境を変えていく」というのはかっこいいですね。
金委員長それが今のぼくの人生の指針です。活動家になる時もその言葉を何度も思い出しました。ぼくにとってのターニングポイントでした。普通に「ああ、そう、頑張って」と言われていたら、整体師になっていたかもしれません。
金ウリナラで言っていた言葉と心は裏腹だったのですね。
金委員長同胞たちの役に立ちたいという思いに変わりはなかったので。同胞たちのための弁護士になるなら、日本の学校で学ぶよりも、朝鮮大学校で、同胞の中で学ぶ方がいいだろうと考えました。朝大に入って一、二年の頃は弁護士になる一心でがんばっていました。四年間通じて勉強は一生懸命やりました。
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