憎しみや排除でできた壁 崩すのは理解と思いやり
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金淑子・編集部
失業から二年、四十代半ばだった私は行き詰っていた。時給八百円のパートでは生活できない。商売をするような才能もない。とりあえず語学堂にでも入って韓国語を磨こうかとも考えたが、「今さら語学堂で学ぶことはないよ。ならば大学院へ」と偶然知り合った韓国人に言われ、彼女が講師をするソウルの東国大学大学院に進むことにした。専攻も「記者をしていたから社会学がいいんじゃない?」という彼女のアドバイスに従った。
書店に並ぶ社会学の本を数冊と格闘してレポートを準備し、履歴書と同封して送付、ソウルで面接試験を受けて入学の許可を得た。住居は、紹介してくれた彼女の知り合いが所有する大学近くのオフィステルを借りた。この間、ソウルとのメールが文字化けして読めない、添付されたファイルが開けない、指定されたHPに入れないなどということが度々あった。インターネットはまだ今ほどスムーズではなかった。当時は留学生が多くなかったせいか、大学側には「そんなはずはない」とそっけなくあしらわれ、途方に暮れることもしばしばあったが、何しろ生活が懸かっている、「前進あるのみ」の精神で全面突破した。
ソウルに着いたその日からアクシデントは始まった。大きなスーツケースを二つ、ようやく引っ張ってオフィステルに着くと、部屋の鍵を預かっているはずの管理室が閉まっていた。着いたばかりで携帯電話もない。今のようにスマホを海外で気軽に使える時代ではなかった。公衆電話を探してあちこち電話して、しばらくしてようやく鍵を手に入れ部屋を開けた。ほっとしたのもつかの間、入り口に立ち尽くした。部屋はホコリで真っ白だった。「もう限界」と思ったものの、どうしようもない。とりあえず、寝られるスペースだけ掃除して、横になり、翌日大掃除することにした。
その日から何かに躓かない日はないくらい、アクシデントは続いた。オフィステルは、エアコンの室外機が廊下に設置されているため、夏の昼間はビル全体がヒートアップして、避難を余儀なくされた。日本から持って行ったノートパソコンはいたるところでシャットアウトされた。大枚はたいて買った私の東芝のパソコンは特に互換性が悪かった。教材の論文がある学会のHPにはたいてい門前払いを食らった。しようがなく大学のコンピュータ室に行くと、ウィルスに感染しているのか、中国語のありがたくない広告が出ては消えて、ログインするのが怖かった。大学の事務局は不親切で、教授たちは権威的だった。約束の時間に十分遅れ、ニ十分遅れは当たり前、連絡もないまま後日一言「ミアネ、急ぎの用事ができて」と笑顔で済ます人たちもいた。「なんで?!」「それはないでしょ!」とどれほどつぶやいたことか!
でも私は韓国生活を意外と楽しんでいた。学生たちがいたからだ。煩雑な手続きのやり方や役立つ情報はいつも彼らが提供してくれた。パソコンの互換性の悪さに四苦八苦していると、教材のファイルをダウンロードして送ってくれたり、プリントアウトしてくれたり、学食で一人で食事をしていると「一人の時は僕たちに電話してください」と言ってくれたり、学部の授業で集団研究の課題が出されると、「一緒にやりませんか」と誘ってくれたり、済州島や全州映画祭、夏休みの中国・延辺旅行に一緒に行こうと声をかけてくれたり…。いつも私が一人で困っていないかと目配りしてくれる親子ほど年の離れた学友たちがいた。
日々感じる様々な不便さと学生たちの思いやりの狭間で、私がいつもぶつかっていたのは「日本」の壁だった。うまくいかない時に心の中でつぶやく「なんで?!」の後には必ず「日本なら」という言葉が続いた。ソウルでの日々は、私のすべての基準が「メード・イン・ジャパン」であることを、そしてそれに固執する自分の偏狭さを嫌と言うほど知らしめてくれた。それは宗主国・日本が植民地・朝鮮を見る視線と重なった。日本で「違う文化を受け入れるべきだ」と訴えて来た自分の中の矛盾に気づいてハッとし、様々なシーンで「上から目線」になっている自分に嫌気がさした。日本で生まれ育ち、四十年近くソウルで神父をしている叔父は、今も約束時間の五分前には到着して、いつも通り一〇~一五分遅れてくる人たちを歓迎する。「それが互いの習慣だから」と。
留学から十年以上が経ち、韓国も変わった。特にミートゥー運動の中で女子学生たちが教授たちのセクハラを訴えたというニュースには胸のすく思いがした。一方で、当時の学生たちの思いやりは今も続き、私は時々顔を出す「上から目線」をひっこめるのに苦労している。
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モンダンヨンピルの事務総長・金明俊監督(映画「ウリハッキョ」)が四月二〇日、fbに「私も『九〇%以上が南出身だ』という事実と『七〇%が韓国籍だ』という論理で問題を解決しようとした時期があった。しかしよく考えると、そのような接近方法は結局、北の努力については話す必要がないという思い、反北イデオロギーに浸った考えによるものだった」と告白し、「北の学校であることを認めなくてはいけない。しかし北の学校に生徒たちが通っているからと言ってその子どもたちが差別を受けても当然なのだろうか? 日本の学校と同じようなシステムを備えていて、先生も十分に資格にかない、すでに七十年あまり維持しているのに、『北と近い』という政治的理由で子どもたちが不当な差別を受けていいのだろうか?と反問したい」(109~113頁参照)という文をアップした。
「北朝鮮バッシング」で当の在日朝鮮人さえ朝鮮との関係をあいまいにしようとする中、反共教育を受け、軍隊にも行った南の人たちが、朝鮮学校を「北の学校」として受け入れるまでの葛藤、事務総長という立場で「北の学校・朝鮮学校」を支援しようと訴える覚悟に、読みながら心が震えた。キャンドルデモ以来変わったとは言え、韓国社会の「親日」「反北」は広範に深く根をはっている。
私に「上から目線」に気づかせてくれた学生たちがいたように、ウリハッキョの子どもたちやその周りの同胞が金監督にこんな文を書かせたのだろう。
清算されない植民地の歴史を持ち、分断を抱えた私たちの周りには崩さなくてはいけない壁がいくつもある。憎しみや排除で作られたそれらの壁は、互いを理解して思いやることでしか崩せないのではないかと、考えさせられる今日この頃だ。55
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