各地を回り出会う同志たち 変わらない「祖国、同胞のため」(商工連会長・朴忠佑さん)
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主席と総書記の間に
座って記念写真
金ウリナラにはこれまで何度いかれたのですか?
朴ウリナラは朝青の活動家をしていた一九七九年に初めて行って、二か月くらい講習を受けた。八一年には社会主義労働者青年同盟(社労青)の第七次大会に参加して、金日成主席の接見を受けた。朝青を卒業して総連中央の国際局にいたときにも二度行ったね。八七年に活動家をやめて八九年の世界青年学生祭典に行って、東京商工会でも一度行ったね。最近も二〇一二年に行って、全部で七回かな。
金一番印象に残っているのは?
朴やはり一九八一年、社労青七次大会に参加して金日成主席と会ったときだね。光栄だった。尊敬してやまない金日成主席と金正日総書記が、よく来たと歓迎してくれて、頑張っていると立ててくれて、かわいがってくれて、頑張れと励ましてくれて。それはやはり重いよね。しっかり受け止めました。
金接見の瞬間はどんな感じでしたか?
朴代表は六人でスーツとかチマチョゴリで、朝大生の自転車リレー隊はタイツ姿で、人民文化宮殿で、大会の後会ったんだよね。あの時は金正日総書記がここに座り
金日成主席との接見を報じる「朝鮮新報」(1981・10・26)なさいと言ってくれて、遠慮したけれ、どうしてもと言われて金日成主席にスーツをつかまれて、金正日総書記との間に座って写真を撮った。生涯の宝物だね。今も家に写真がある。いろんなことを言う人はいるけれど、ウリナラは、そして私たちの民族は、愛国の血統、白頭の血統を守ってこそ、生きていけるんだと思う。それは間違いない。ウリナラは一九四五年に解放された時から、日本帝国主義に反対してできた国だから、その先頭に立って戦った人が国の指導者を務めた。やはりその流れが今の政策にも生かされていて、親日派と闘い、帝国主義と闘いながら、戦争の危機の体制の中で国づくりをしてきたので、ほかの選択肢はなかったと思うよ、私は。
去年二月に平昌オリンピックに行った時は、空港に着いたらどんな待遇を受けるのかと思っていたけど、歓迎してくれて。でも競技場に行ったら、親日反共主義者たちが星条旗と太極旗を掲げていた。彼らは死んでも主張を変えないよ。韓国は、金九、金奎植とか統一運動をした人たち、そしてもう一つが朴正煕とか親日派、日本の植民地統治に端を発したこの闘いが今も続いているんだよ。ウリナラは解放直後から、本当に生きるか死ぬかの闘いを繰り広げてきたんだと思う。
「朝鮮新報」主催の座談会で語った
記念写真撮影時のエピソード…今でもあの時のことを思うと気持ちが引き締まり、熱いものがこみ上げてきます。
私たちが記念写真を撮る準備をしている時でした。
撮影現場にいらっしゃった金日成主席は祖国の幹部と一緒にいた私たち祝賀団の中に私がいるのを知って、遠くから手招きするのです。
私は興奮を抑えきれず、倒れるようにかけ寄り、金日成主席の手を両手で丁重に握り、あいさつをしました。
暫くして写真を撮るために自分の席に戻りました。私の席は前列の端から二番目でした。私が席に座ろうとする時でした。ある方が背中を軽く押すのです。振り向いた瞬間、私は自分の目を疑いました。親愛なる指導者先生が満面に慈愛深い笑みを浮かべ、私を見つめて祝賀団の団長は主席の隣に座りなさいとおっしゃるではないですか!
私はあまりに恐れ多くためらいましが、幾度も勧めるので、金日成主席の横の席に着きました。しかし、私が勧められた席は他の幹部同志の席であることを知っていたので、とてもすまなく再び立ち上がろうとしました。すると今度は金日成主席が私の腕をつかみ、その席に再び座らせるのです。
このようにして一生忘れることができない栄光の記念写真が撮られることになりました。
(「朝鮮新報」1981年12月12日付より抜粋)
金文在寅大統領も先の3・1運動一〇〇周年の演説で、親日派の清算を訴えていましたね。
朴親日派は簡単には屈しない、しぶといよ。
金平昌オリンピックはどうでしたか?
朴やはり南北共同の入場行進だね。あれは感動的だった。私たちの横を南北の選手が一緒に歩いていく姿を観て、本当に涙が出た。
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