朝青班活動で「金日成青年栄誉賞」受賞 在日朝鮮人という存在を消してはいけない
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電車運転手になりたかった
委員長の強引な誘いで朝青へ
金高校を卒業して、どうなさったんですか?
呉父が工場をやっていたので、そこで働くことにしました。兄が朝鮮新報社に逃げてしまったので(笑)。家族でやっていたのですが、母が大変そうだったので、自分が入れば少しは楽ができるかなと。
金足立区でもヘップ作りに関連した仕事に就く同胞が多かったと聞きました。
呉多かったですね。うちのゴム工場も、ヘップの底に貼るゴムを加工する仕事でした。
金家内工業は朝から晩まで働き詰めですよね。
呉ヘップをやっているところは、時間の制限はなかったですね。仕事があれば、家族を総動員してやっていました。時期によっては本当に忙しかったですね。
金高級部の頃に将来就きたいと思っていた職業はあったんですか?
呉いやあ、そんな夢なんかなかったです。私は電車の運転手になりたかったんですが、当時朝鮮人はなれなかったんですよね。今はどうなんでしょう? 同級生が集まってそんな話をすることもありませんでした。公務員は安定しているよね、でも朝鮮人はなれないしなというようなことは言っていた記憶があります。
金家の仕事は何年位されたんですか?
呉三~四年ですかね。オイルショックでたたみました。その後は同胞企業に勤めに出ました。
金ではそのかたわら朝青活動を?
呉。最初は全く無視していました。家で働いている間は、まったく出ていませんでした。同級生で栃木出身の朝青活動家が何度も訪ねてきていたのに、悪いことしたなと思っています。申し訳なかったと。当時はめんどくさかったんですよね。
金出たきっかけは?
呉二五歳くらいの頃に朝青委員長で来た人がすごく積極的な人で、影響を受けました。あの時は強引でした。興野班には班長もいなくて、活動が沈滞気味だったので、「お前出てきてちょっと人集めろよ」と言われて。ちょうどその少し前に西新井病院に看護学校ができて、その学生たちが出てくるようになったんです。そうするとほかの朝青員たちも集まるようになって、結構ワイワイやるようになって。一九七六年くらいでしたかね。
金当時はウリナラから代表団もたくさん来ていましたよね。
呉ウリナラから赤い稲妻と言われたサッカーチームが来たり、平壌学生少年芸術団が来たり、いろいろありました。ウリナラから来るとやはり応援したくなりますよね。国際劇場で平壌学生少年芸術団が公演した時は観に行きました。もともと芸術に興味があったわけではないのですが、子どもでもここまでできるんだと感動しました。日本の人たちも招待して座談会をしたと思います。
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