ソウル発「統一ニュース」が選んだ2018年朝鮮半島10大ニュース
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*同紙2018年12月29日より転載
二 〇一八年は一言で「激動の年」、「転変の年」でした。 幾つか挙げただけでも▽平昌冬季オリンピック北側代表団参加と特使の南訪問、▽三回南北首脳会談、▽三回北中首脳会談、▽史上初めての北米首脳会談、▽南北鉄道・道路連結および現代化着工式など大型事件がいろいろありました。分断七〇年余りの歳月に幾重にも積み上げられた朝鮮半島の矛盾を解決するための糸口が、わずか一年の間に相次いで生まれたのです。 これについて朝鮮半島では、驚天動地する変化の中で千載一遇の機会が訪れたという評価が出てきたりもしました。 しかし朝鮮半島情勢の変化の核心である北米関係が6・12首脳会談以後、その履行過程でふらついて年末まで膠着状態に陥っています。 来年に順延された(?)金正恩国務委員長のソウル答礼の訪問、やはり来年一~二月に予定された(?) 第二次北米首脳会談に期待をかけて、統一ニュースが「二〇一八年朝鮮半島10大ニュース」を選定発表します。
もくじ
1・三回の南北首脳会談(4月27日、5月26日、9月18~20日)
文在寅大統領と金正恩国務委員長は二〇一八年、三回にかけて首脳会談を開いた。 四月二七日板門店南側「平和の家」、五月二六日板門店北側「統一閣」、そして九月一八~二〇日平壌。 その結果「板門店宣言」と「九月平壌共同宣言」が発表された。
三回の南北首脳会談は、これまで一〇年間にわたる南北関係の葛藤と朝鮮半島の戦争の雰囲気を一掃して、南北関係と朝鮮半島の対話の雰囲気を作り出した機関車のような役割をした。 両首脳は軍事境界線を行き来し、白頭山天地に登って手を握って掲げ、歴史的な民族共助を誇示した。 今年末の金正恩委員長のソウル答礼の訪問は実現されなかったが、来年に順延されたわけだ。 南北首脳会談は続く。
2・史上初めて北米首脳会談(6月12日)
金正恩国務委員長とドナルド・トランプ大統領が六月一二日シンガポールで史上初めて北米首脳会談を開いた。 両首脳は▽新しい北米関係樹立、▽恒久的な朝鮮半島平和体制構築、▽朝鮮半島の完全な非核化、▽米軍遺骸発掘および送還という「北米共同声明」を発表した。 ところが以後両国は「完全な非核化VS体制保障」を繰り広げる中で、終戦宣言、対北朝鮮制裁解除、北核リスト申告などで葛藤し現在、難関に差し掛かっている。 米国側が高位級会談と実務会談などを打診しているが、北朝鮮側が反応を見せないでいる。 来年初めに二度目の北米首脳会談を予想しているが、不確かな状況だ。
3・三回の北中首脳会談(3月25~28日、5月8日、6月19~20日)
二〇一一年末「金正恩時代」に入って北中関係は悪化の一路を辿った。 両首脳の出会いどころか実務レベルの対話も続かなかった。 しかし今年に入って南北関係が改善し、北米首脳会談が予想されると、すぐに北中関係にも青信号がついた。 金正恩委員長-習近平国家主席は三月二五~二八日(北京)と五月八日(大連)そして六月一九~二〇日(北京)と、三回会った。
三回の会談を通して両首脳は「段階的非核化」など、北米対話を調整して、七年間の空白を相当部分復元し、今後の国際情勢の変化にも、両国関係は変わらないことを約束した。
4・平昌冬季オリンピック(2月9日~25日)北側参加と特使の南訪問
金正恩委員長が二〇一八年の新年の辞で、平昌冬季オリンピックに代表団を派遣する用意があることを明らかにした後、朝鮮半島状況があわただしくなった。 平昌オリンピックは単純な北側選手団の参加だけでなく金永南最高人民会議常任委員長と金与正特使の開幕式出席、金英哲労働党副委員長の閉幕式出席などにつながり、南北関係は一挙に新しい局面を迎えた。文大統領は、「金永南-金与正」と会い、これが三月五日の鄭義溶大統領府国家安保室長を団長とする南側特使団の北朝鮮訪問につながった。 平昌冬季オリンピックは平和オリンピックとしての位置を確立し、南北・北米首脳会談の端緒を開く決定的契機として作用した。
5・北側、並進路線から経済建設路線へ(4月20日)
金正恩委員長は四月二〇日に開かれた労働党中央委員会第七期第三次全員会議で「社会主義経済建設に総力を集中する路線」を明らかにした。 五年前の二〇一三年三月に開かれた全員会議で採択した「経済建設と核武力建設並進路線」から核武力建設を削除し、経済建設に一路まい進すると宣言したのだ。 合わせてこの日の全員会議では「▽核実験とICBM試験発射中止▽豊渓里(プンゲリ)核実験場廃棄▽核兵器、核技術を移転しないことなども表明した。 北朝鮮の非核化カードは6・12北米首脳会談の成功に決定的役割をし、朝鮮半島平和体制問題を急激に水面上に押し上げた。
6・6・13地方選挙(6月13日)
6・13地方選挙は、広域一七カ所のうち一四カ所で与党の民主党が、二カ所で保守野党の自由韓国党が、一ヵ所で無所属が勝利する結果となった。 保守右翼陣営の没落、与党の圧勝だと呼ぶだけのことはあった。 有権者の票は▽二年目を迎えた文在寅政府に対する期待感、▽平昌オリンピックと4・27南北首脳会談の成功的開催、▽南北和解の雰囲気、▽一日前に開いた6・12北米首脳会談の雰囲気などの波に乗って民族和解政府と与党に集中した。 この選挙結果について、6・12北米声明で外からの脱冷戦が、4・27宣言で上からの内的脱冷戦が、続いて6.13地方選挙で下からの内的脱冷戦が実現したという評価が出た。
7・南北鉄道・道路連結および現代化着工式(12月26日)
南北京義線・東海線鉄道・道路連結および現代化着工式が一二月二六日開城板門駅で開かれた。 北側と南側はそれぞれ「民族史に残る歴史的使命」、「私たちの経済地平を大陸まで広めるだろう」と意味を付与した。 長い間南北が渇望した「鉄のシルクロード」が開かれたのだ。これで南と北は境界線によって形成された障壁と島から抜け出す契機を用意した。 ところでこの日の行事は「着工式」ではなく「着手式」だった。 直ちに工事をするのでなく、今後工事をすると宣言したのだ。 アメリカと国連安保理の対北朝鮮制裁のためだ。 民族の動脈まで外勢の干渉を受けなければならない現住所を見せてくれた。
8・南北軍事分野の進展とJSAの非武装化
南北関係が改善して、逆説的に対北朝鮮支援事業や南北経済協力ではない軍事分野で進展があった。 軍事分野は国連安保理の対北朝鮮への制裁の影響をあまり受けなかったためだ。 軍事分野での進展としては、九月の平壌首脳会談で「歴史的な板門店宣言履行のための軍事分野合意書」が締結されたことがあげられる。当時南側当局はこの合意書について「事実上の不可侵合意書」と規定するほどであった。この合意書に基づいて陸海空で敵対行為が中止され、六六〇キロの漢江河口の共同調査も終わり、特に非武装地帯(DMZ)内地雷が除去されて監視警戒所(GP)が撤去され、板門店共同警備区域(JSA)の非武装化が進められた。
9・開城南北共同連絡事務所の開所(9月14日)
4・27板門店宣言で合意した開城工業団地内の南北共同連絡事務所が九月一四日オープンした。 南北は一九九二年の高位級会談から連絡事務所設置問題を議論してきたが実現できず、二〇〇五年に開城工業団地に南北経済協力事務所を設置することで事実上連絡事務所の役割を果たしてきたが、二〇一〇年5・24措置で閉鎖された。 南北共同連絡事務所はソウル・平壌連絡事務所設置を目指す中間段階のもので、この設置によって南北当局間会談・協議、民間交流支援、往来人員の便宜保障などの業務を遂行する三六五日二四時間の南北疎通システムが構築された。 連絡事務所は開所後一〇〇日間に二八五回の会談・協議を持った。
10・貧弱な南北民間交流
4・27板門店宣言では、民間交流活性化への期待が大きかったが、思ったほどの成果はなかった。かつて金大中―盧武鉉政府のころの民間統一運動は、6・15、8・15、10・4、そして開天節(建国記念日)、新年、3・1節などに民族共同行事を主導して対北朝鮮支援事業および南北交流協力事業を進めた。 しかし今年は南北当局が主導権を持ちながら、6・15や8・15行事を開催できなかった。10・4宣言11周年民族統一大会も政府が直接関わって、民間レベルが疎外された。 八月のソウル南北労働者統一サッカー大会や平壌での「第5回アリスポーツカップ国際幼少年サッカー大会」、一〇月の平壌南北テコンドー合同公演、一一月三~四日の南北民和協の金剛山共同行事だけがようやく命脈を維持した。 南北民間交流は当局間交流の付随的交流として扱われて縮小され、今後新しい活路を見出さなければならない岐路に立っている。53