朝鮮大学校 張炳泰前学長の 追悼式に参加して
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金淑子・編集部
朝鮮大学校の張炳泰前学長が九月二八日に亡くなった。享年七六歳だった。
一〇月一九日に朝鮮大学校で執り行われた追悼式に参加した。小雨が降る中、校門を入ると半旗として共和国の旗が掲げられていた。駐車場は弔問客の車で埋められていた。
講堂のロビーに、張前学長の写真が何枚も飾られていた。京都留学同の頃の写真や朝鮮大学校の学生たちと撮った写真、今年夏、弱った体で行った最後の講義の写真もあった。ウリナラのビナロン工場建設現場での写真や家族との写真など。「時間なので中に入ってください」という言葉に背中を押され講堂に入ると、花に囲まれた温和な張前学長の写真が飾られていて、胸が痛んだ。
朝鮮大学校の教職員と生徒、かつての同僚、そして卒業生と思われる若い喪服姿の人たちが大勢参加し、講堂がほぼ埋まった。
正面の写真を見ながら、張学長(当時は理学部長)を取材した時のことを思い出した。ウリナラの自然エネルギー利用についての取材だったと思う。当時私は、専門家を取材する時には一夜漬けで関連図書をにわか勉強して「これだけ読んできました」と示すことで、無知な質問を許してもらっていた。この時もブルーバックスを一冊差し出した。すると張学長は、「記者はそうしてずっと勉強できるからいいね」と言って、やさしい笑顔で答えてくれた。一九九〇年代、ソーラー発電や風力発電が注目され始めた頃だった。ウリナラではそれらと同時に中小の水力発電所の建設が盛んだった。インタビュー記事と共にウリナラの小さな水力発電所の写真を載せると、「こういう写真は初めて見た」とわざわざ電話をもらった。ありがたかった。「今年はうちの学部の卒業生が新報社に行くはず」と聞いたが、理学部卒業生ではなく、学部長の長女が入社してきた。今「イオ」の編集長をしている張慧純さんだ。あれから二十年以上が経つ。その後も朝鮮大学校に行くたび、食堂で、事務棟前の前庭で、講堂の演壇で、張学長を見た。
喪主(長男)のあいさつは、温かかった。夏休みにはウリナラに行って、入学式も卒業式も、参観日もなかった父の姿を朝鮮大学校の入学式で見つけたこと、病気が分かった後も大学の近くを毎日散歩していたこと、何よりも朝鮮大学校と学生たちを愛していたこと、祖国の発展に寄与することを喜びとしていたことを語り、父を亡くした経験のない大きな悲しみを癒すには時間がかかるかもしれない、たまには朝鮮大学校を訪ねてきて父を思い出すこともあるかもしれない、そして父の遺志を受け継いでいこうと思うと述べた。
終わった後もロビーのあちこちで学長の思い出話をする人々の姿が見られた。朝鮮大学校を愛した張前学長は、多くの卒業生や学生、教職員から愛されていた。「幸せな人生でした」という喪主の言葉が胸によみがえり、彼の死が一層惜しまれた。(二〇一八年一〇月)
追悼・ハクチャントンジ(学長同志)を『風景』の中に追う
金日宇・編集部
『風景』、新年号の打ち合わせに朝大に行った。昼食は、いつものように学食だ。この日のメニューは器から飛び出さんばかりの大きなチキンカツ。座ると、厨房に向かって左側二、三列のテーブルに目が行く。張炳泰ハクチャントンジ(学長同志)が亡くなられて三か月余り、朝大での追悼式から二か月がたっているというのに、ハクチャントンジの姿を追っていた。
元気だったハクチャントンジを偲び、ここでは元学長ではなく、学長同志として書きとどめたいと思う。
食事を終え、図書館に向かったが、そのときも学長室がある事務棟をのぞいていた。
ハクチャントンジは、私が在学中の一九七〇年に赴任された。在校生が一五〇〇人を越え、学部の違いもあり、その時は面識すらなかった。『風景』を編むために、月に何度か図書館に出入りするようになり、ハクチャントンジとイルウトンムの関係が始まった。『風景』にも、笑顔のハクチャントンジ、困り顔のハクチャントンジが度々「登場」している。
図書館で、新校舎建築が始まる東京第三初級学校の古い資料をあさっていると、ふとそんなハクチャントンジの姿が思い出され、雑誌書庫かららせん階段を上り、二階の閲覧室で『朝鮮学校のある風景』のバックナンバーを探った。
マカオでの東アジア空手道選手権大会で三位になった高智蓮選手と「笑顔」のツーショット写真はすぐに探せた。
その様子を『風景』44号(2017年7月刊)は、次のように記している。
「…首に銅メダルを下げた女子大生と張学長が並んで記念写真におさまった。…張学長は、銅メダルを手に取りながらいつにもまして気さくに話しかけていた。
『次は…オリンピック?…』…」(35頁)
このとき、私もスマホに収めることができたのは、引率していった宋先生の「『風景』にも記録として残してください」との一言と、ハクチャントンジの「笑顔」゙の快諾のおかげだった。
「困り顔」は、二〇一四年、三年ぶりに開かれた、学園祭の時の出来事だ。
「…中央のメインステージを見ると、グリーンのお揃いのシャツを着た、女子学生が踊っている。オッケチュムではない。よくテレビで観る、ストリート何とか、激しいリズムに合わせてのダンスだ。
プログラムを見ると、『学部チアダンス』。
張学長に、手招きされるままに、隣の席に着く。
学長・『イルウトンム、あのダンス?…』
私・『…在学中は考えられません…』
前に座っていた、すでに退職して久しい文学者の朴先生は一言。『即、退学です!!』
その言葉に、学長の隣に座っていた許議長の口元から笑みがこぼれた」(28号47~48頁)
朴専務理事との打ち合わせを思い出し、三号館一階の「公益財団法人在日朝鮮学生支援会」の事務所に向かう。そこで紹介されたのが中央大学で教壇に立つハクチャントンジの長男、浩徹氏。ハクチャントンジに替わっていくつかの講義を受け持っているとのことだ。
ハクチャントンジは、二月に亡くなった朝大の理事長で、支援会の代表理事だった朴英植氏と共に、学生支援会の「生みの親」の一人だ。浩徹氏は、支援会の定款や事業報告書に目にやりながら、朴専務理事と言葉を交わしていた。講義と共に支援会の活動にも関心を持ってくれれば、隣に座り勝手にそんなことを思いながら、再び図書館に戻った。
二階の閲覧室は静かだ。大きな窓を通して心地よい日差しが…ハクチャントンジが見守ってくれているようだった。
22号(2013年11月刊)に載せた、「朝大寄宿舎二号館補修工事」(22~26頁)。廉先生のフェイスブックを通じて、夏休みを利用しての教職員による全面改修を知り、一卒業生として参加した時の話だ。
ここにはハクチャントンジは実名では出てこない。ただ、「先週は『シルバー人材センター』から派遣されてきたようなグループが働いていたという」、その一人がハッチャントンジだった。猛暑の中、高齢のハクチャントンジが参加したというので、勝手に「一人チョーデサラン運動」をくり広げたのだ。
探し出せなかったが、夏休み明けにハッチャントンジに会うと、「イルウトンム、頑張ってくれたんだって…」と。「お金も、知識も乏しいが、まだ力だけは…」と応えると、「大学に関心を持ってくれるだけでありがたい…」と、強く手を握ってくれたことを覚えている。
学食での出会いについても記されていた。
「食器を洗い場に出しに行くと、学長先生に呼びとめられた。『今度の号の〇〇は良かった。気持ちが伝わってきて…』。『風景』を読んでいてくれているようだ。学長先生はいつも声をかけて、励ましてくれる」(31号80頁=2015年5月刊)
〇〇がどの記事なのか記憶にない。
30号を広げてみると、「大阪朝高ラグビー部の「強さ」の背景をさぐる」の特集が組まれ、「発掘秘話」として「小舟で祖国を目指した四人の朝高生」のルポ、朝大関連ではアルバイト事情など、三本を載せている。もしかしたら、「新企画」としてスタートした「読者の批評」に載った、長女の張慧純さんの記事だったかもしれない。
話しはそれるが、学長を退任し、夏休みにあった時、「今日は…」と声をかけると、「孫の…」。小型自動車の中で二人か、三人の孫を慈しむハクチャントンジの姿があった。
最後に東京中高の中の朝鮮文化会館に向かう道での出来事を。楽しそうに学生と言葉を交わしながら会場に向かうハクチャントンジの後ろ姿が今でも目に焼き付いている。
「信号を渡ると、東京朝鮮文化会館に向かう朝大生の長い列、前を行く三人が楽しそうに話している。真ん中にいるのが張学長だ。
『何年生になった?』、『三年生になります…』、『今の一年生は一生懸命勉強しているようだが…』。そんな声が聞こえた。
私・『アンニョンハシムニカ、楽しそうですね、学生に難しいこと言ってるのでしょ…』
学長先生・『いやいや…私が…弱点を突いてくるので…』
私・『??』
学長先生・『自分の名前を知っているかって…』
学長だからと言って、全校生の名前を覚えられるはずがないが…。私も二人の学生の調子に合わせてみた。
私・『先生私の名前は知っていますか?』
学長先生・『知っている、イルウトンム、政経学部14期でしょ』
私・『コマッスムニダ。名前だけではなく、学部まで…』
二人の学生は学長と私のやり取りをいぶかしそうに見ていた。
学長先生・『このトンムは…トンムたちは知らないかな…あれは「朝鮮学校のある…」…。全国のウリハッキョのことを…』。本の宣伝までしてくれた。
時折、学生たちの黄緑色のマフラーが寒風になびいた。校門をくぐりながらも話は続いた。
…
ほんの五、六分だったが、なぜか清々しい気分にひたれた。ほっこりした。」(30号65~66頁=2015年3月刊)
◇
家に戻ってくると、大学での追悼式に参加した連れ合いに遺族からの感謝のハガキが届いていた。
幾つかの偶然も重なり、この日はハクチャントンジを偲ぶ、良い一日となった。思えば、「卒業生だから」と言って、『風景』の印刷・製本を朝大の出版部で引き受けるよう尽力してくれたのもハクチャントンジだった。
合掌
(2018年12月20日記す)53