朝鮮学校の良さ発信して連帯広げ、世論で敗訴覆そう
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勇気絞って街頭演説
「拉致と子どもは別」
金実際に朝鮮学校とはどのようにかかわっているのですか?
長崎最初のきっかけは、亡くなったハン・ブテク校長先生が第四初級にいらしたときに、生野区役所の職員組合の人たちとソフトボールをしたりいろいろ交流があって、そういう中で日本人の中から朝鮮学校を支援する会を作ろうという話が出たんです。
その頃、許玉汝さんの息子さんのチャン君が、障がい児を積極的に受け入れていたジャガイモ学童保育所の春のキャンプで亡くなるという事故があったんです。学童としても申し訳ないというか、ショックで、いろいろ総括したうえで、長年働いていた指導員の人が辞めてしまったんですね。障がい児が通う学童保育なのに助成金が少なくて、手の足らない中で指導員の方が保育をしていて、事故が起きると、長年給料もろくにもらえないような形でやって来た彼らが辞めていくというのを目の当たりにして、政治とかシステムが変わらないと、結局一番弱い立場の人たちが苦しい思いをするのだと思いました。
自分自身の例を挙げて言うと、父のDVで母が離婚して一人で育ててくれたんですけれども、女の人が夫に殴られながらも経済力がないので別れられないという話を母の仕事先でも聞いたりしながら、そういう人が生きづらいという状況をシステムで変えられたらいいなとかねがね思っていました。
そんな折、私の友人が「女性を議会にバックアップスクール」というのを開いたんです。それを受けに行って、そこで辻元清美さんに出会って、辻元さんに、「社民党を変えていきたいと思っているので、一緒に政治をやってほしい」と言われて、いろいろ悩みました。としちゃん(連れ合い)に、母子家庭の人とか、在日の人とか、声をあげたいけれど時間もお金もないという人たちの声を拾って政策決定の場に行くような人が必要だと思う、難しいかもしれないけれどやってみたいと言ったら、「応援する」と言ってくれたので、仕事を辞めて参院選に出ました。一九九八年のことです。選挙はダメでしたが、社民党で今もやっています。その後、日朝平壌宣言が出た直後の二〇〇二年にも地方選挙に出ました。拉致の発覚で、「北朝鮮バッシング」一色の時でした。
それまで自民党の野中広務さんもそうでしたが、保守勢力の中にも朝鮮を植民地にしたことに対する負い目だとか、沖縄の痛みだとかを持っていた人がいたんですけど、それが次世代に継がれないままに、都合のいい歴史修正が行われて、そのために拉致問題が都合良く利用されました。自分たちが被害者だと言い立てて、それまでの加害責任がないかのようになってしまいました。
そんな中、選挙の街頭演説をしていたんですが、鶴橋で演説したときに勇気を出して、「拉致問題は悲しい問題で解決すべき問題だ、でもこういう報道が流れたときに矛先が向けられるのが在日コリアンの子どもたちだ、それを私たち日本人は分けて考えなくてはいけない」、というようなことを訴えたんです。すると、聞いていたハラボジが私の手を取って「あんたは日本人やのに、こういうことを言ってくれて。うちの孫がハッキョに行ってるんや」と言って涙ぐまれたんですね。それが自分の心深くに残っていて。おばあちゃんが関東大震災の時に勇気をもって言ったように、私もこういう時に勇気をもってこういうことを言っていかなくてはと思って。残念ながら選挙は通らずでしたが。
選挙の過程で、いろんな人たちから温かな支援をもらいました。うちの息子が言っていたのですが、私の開票を見に来た在日の人が、ぜんぜん数字が上がらないのを見ながら暗いところで黙って泣いていたと、その後涙をぬぐって息子の方を見て明るい顔で「こんなんで、へこたれへんな」って言うてくれたでって。「お母さんが選挙に出たことで、在日の人たちがそういうふうに思ってくれているというのが分かった」と言ってくれたので。
朝鮮学校を支える会も、作ろうということで始めたんですけど、作ってすぐに拉致問題が発覚して、初回の会合も重い雰囲気でした。これからどうやって広げていこうかなと。
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