朝鮮学校の良さ発信して連帯広げ、世論で敗訴覆そう
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建前で差別は無くならない
金李哲さんの救援活動をして、初めて朝鮮学校にかかわったのは?
長崎生野で働きだしてから、卒園生が朝鮮学校にも行くので、朝鮮学校の運動会に行ったり訪問したりするようになって、そういう中で私の家で韓国、日本、朝鮮の女性たちで一緒に朝鮮語を勉強する会を作ろうということになって、当時の女性同盟委員長で今顧問をなさっている姜善和さんが教師になって、ひと月に一回ここで、「ハナの会」を開いて朝鮮語の勉強をすることになったんです。通名を使っていた在日の保育士さんも来て、一緒に勉強したり、嫁しゅうとの話になると「どこの国もいっしょやね」という話をしたり。私は毎月ケーキを焼いて一緒に食べていました。その時に姜善和さんから朝鮮学校に通っていた時に先生が家に逃げてきてトイレにかくまったとか、学校が閉鎖されたとかいう話を聞きました(本誌48号参照)。
金それはいつ頃ですか?
長崎一九九〇年くらいですかね。
金ここに住み始めて驚きませんでしたか?
長崎面白いというか、日本人の方が少ないというのがカルチャーショックでした。自分の子どもを御幸森小学校に入れたいということで、この家を購入しました。一緒に子育てしている教会の仲間と、①日の丸君が代を強制しないでほしい、②障がいがある子どもたちも隔離しないで一緒に受け入れてほしいということを学校に申し入れするのに、一人だけだと効果がないので、御幸森校区に家を買って皆で一緒に申し入れしようということになったのです。不動産屋さんには「日本人でしょ、御幸森校区ですか? あそこ、日本人ほとんどいないですよ」って言われました。
金少数派ということで、不便はなかったですか?
長崎なかったですね。先ほどお話した息子のこともそうですし、障がい者の子どもたちが中心なところにうちの息子が障がいを持たない子どもとして初めてジャガイモ学童保育に入ったんですね。すごく楽しい日々だったみたいです。子どもたちがリヤカーに乗せられて「空き缶ください」とか言いながら廃品回収に行くんだけれども、それを見た学校の友達が「お前も障がい児だ」ということで「養護、養護」って言われたって、泣いて帰って来て、私が学校に話に行ったことがあります。子どもたちはジャガイモ学童保育に遊びに行ってリヤカーに乗りたかったんですね。それなら行けばいいということで、付き合うようになって。私たちは幼いころ障がい児と一緒にいなかったですから、隔離されていて、朝鮮人の人といっしょですよね。出会ったときは差別しちゃいけないとか、こんなこと言っちゃいけないとかいう遠慮のようなものがあって、なかなか対等に向き合えないけれど、息子たちはもろにぶつかり合って、障がいのある子どもたちのいいところも悪いところも見ています。例えば夏のキャンプなんかでチームを作ると、多動だったり問題行動のある子をどのチームがとるか、その子をとったチームは「おやつを多くよこせ」っていうんですよね。こいつがいた方が面白いからそういう子もちゃんと引き受けてやると。そういうところが私はすごくよかったなと思いました。道徳の本に書いてあるみたいに「困った人には親切にしましょうね」とか「いじめてはいけません」というのでは本当の差別は無くなりませんよね。「こいつ本当に手がかかるし、くさいし、困るけど、でもこいつといると面白いんだよな」とか、「こいつがおらんかったらあかんわ」というようなことを言える関係にならないと、建前では差別しなくても心の中では障がいのある人とは結婚は許しませんとかなるんですよね。
金学童保育というのは放課後に子どもを見てくれるところですよね。ジャガイモ学童というのは、障がい者だけを対象にしていたんですか?
長崎学童保育はいっぱいあるんですが、障がいを持つ子どもたちの受け入れ先がないということで、その子たちの居場所を作るために有志がスタートさせたんです。だから今も障がいのある子どもたちが多いです。今は「ジャガイモ子どもの家」という名前になって、場所も変わりましたが。
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