朝鮮の歴史:侵略船「シャーマン」号撃沈
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朝鮮の歴史・100問100答
金昌成
編集部より・平壌の外国文出版社が昨年4月に刊行した「朝鮮豆知識②-歴史」(日文・83頁)からの転載。原文のまま、写真は整理者による。
もくじ
63「シャーマン」号事件はどんな出来事ですか?
「シャーマン」号の侵入は、アメリカの朝鮮侵略を告げる最初の出来事でした。
一八六六年八月一六日、四門の砲を携え、九〇余名の乗組員を乗せた「シャーマン」号は、朝鮮の大同江口に侵入し、さらに平壌付近にまで航行して、婦女子に暴行を加え、財産を略奪し、朝鮮兵を拉致しました。
激怒した平壌の住民と軍人は、「シャーマン」号撃滅の戦いに決起しました。
九月二日、平壌城の住民は、引き潮に乗せて火舟を「シャーマン」号に向けて放ち、平壌監営の兵員たちは火縄銃や弓矢をもって猛攻を加えました。
火舟が「シャーマン」号にぶつかって、火の手が激しく燃え上がり、侵略船は沈没しました。
64内寅洋擾はどんな出来事ですか?
一八六六年初め、朝鮮封建政府はカトリック教信者の弾圧に乗り出して、フランス宣教師をはじめカトリック教徒を大々的に処刑しました。これに言いがかりをつけて、フランスは朝鮮に侵略艦隊を送り込みました。
ベトナムと清国の侵略で「名声」を馳せた極東派遣フランス艦隊司令官ローズは三隻の軍艦を率いて江華海峡を通って漢城(ソウル)の関門楊花津と西崗に侵入しました。
朝鮮軍民の抗戦態勢に恐れをなした侵略軍はいったん退きましたが、その後二五〇〇余名の兵力が七隻の軍艦に分乗したフランス極東軍が再び江華下一帯に侵入しました。そして、城内の貴重な古建築や文化財を破壊・略奪し、朝鮮封建政府にフランス宣教師の九名を殺害した報復として朝鮮人九〇〇〇名を殺すと威嚇し、フランス宣教師の処刑を担当した官吏を引き渡せ、「賠償金」を支払え、「条約」締結に応じよ、などと恥知らずな要求を持ち出しました。
激怒した朝鮮軍民は陸上と海上で侵略軍に攻撃を加えておびただしい敵兵を殺傷しました。
相次ぐ打撃にあわてたフランス艦隊は、朝鮮沿海をしばらく遊弋(ゆうよく 航行の意)した末引き上げました。
この出来事を朝鮮では内寅洋擾と称しています。
65「シェナンドア」号事件はどんな出来事ですか?
アメリカは、一八六六年の「シャーマン」号事件から教訓を得ることもなく、一八六六年、再び侵略船を朝鮮へ送り込みました。
同年三月、海軍中佐フェビーカーの指揮する、大口径砲一門、普通砲八門、乗組員二三〇余名からなる「シュナンドア」号が、黄海道及び清河江南側の沿岸を往復しながら陸地に砲撃を加え、大同江への侵入を企図しました。
四月七日、侵略軍は平壌城攻撃を目指して大同江口から侵略を開始しました。東津砲台を守っていた軍人と義兵はこれに集中砲火を浴びせました。恐れをなしたフェービーカーは戦意を喪失して逃亡し、翌日、朝鮮西海の一小島に上陸して住民をおどし、朝鮮封建政府に手紙を伝えろと強要して引き揚げました。
66南燕君墓盗掘事件はどんな出来事ですか?
「シュナンドア」号が大同江口に侵入し、軍事的挑発と略奪を繰り返していた頃、アメリカは事前の行動計画に従い、侵略船「チャイナ」号を朝鮮西海の牙山湾に送り込みました。上海駐在米領事館の元通訳ジェンキンスが指揮し、フランス人宣教師フェロンとドイツ国籍を持つオーフェルトを道案内とする、三〇〇余名の乗組員が、徳山郡に侵入しました。
ここで、朝鮮封建政府の実権者大院君の父・南燕君の墓を盗掘していた侵略者たちは、当地住民の強力な抗議に驚いて退散しました。
67辛未洋擾はどんな出来事ですか?
一八七一(辛未)年四月初め、清国駐在米公使ロウと米アジア艦隊司令官ロージェスは、五隻の軍艦と八〇門の砲、一二三〇名の兵力からなる艦隊を伴って朝鮮沿岸に侵入しました。
朝鮮封建政府は官吏を送って彼らの侵略行為を詰問し、即時退去するよう命じました。ところが、ロージェスは「航海及び通商条約」の締結を迫るなど、傲慢に振舞いました。
激怒した朝鮮軍民は、ソンドルモクの戦い、草芝鎮の戦い、広広鎮の戦いを展開して侵略軍を撃破しました。米艦隊は戦意を喪失し、五月一六日、朝鮮から引き揚げました。
68・斥和碑はどんな碑ですか?
朝鮮人民は、一八六〇年代中頃から始まったアメリカとヨーロッパ列強の重なる武力侵攻をことごとく撃退しました。
当時の政府実権者・大院君(一八二〇~一八九八)は鎖国政策を実施し、欧米諸国の侵略から国家と国の諸制度を守るために、人民の昂揚した反侵略闘争気勢をさらに高めるべく、一八七一年四月二五日、漢城(ソウル)と全国の都邑に斥和碑を建てる措置を講じました。
碑石には、正面に大文字で「西洋の夷どもが侵犯している。非戦は和親であり、知親の主張は売国である」と刻し、側面には小文字で「丙寅(一八六六)年にこの文を作り辛未(一九七一)年に碑に刻して全国に建てることにした。我が千万年の子孫にこれを警告する」と刻みました。
69大院君はどんな人物ですか?
外国の侵略勢力が競って朝鮮侵略を強行していた時期の一八六三年一二月、朝鮮封建国家で幼少の王・高宗(一八五二~一九一九)の父親・李昰応(一八二〇~一八九八)が大院君(傍系王の生父の尊称)の名で幼い国王に代わり政治をとりおこなっていました。
彼は、国家を近代的に発展させ、対外活動を積極的に行おうとは考えず、鎖国のみが封建国家維持の唯一の道であるとし、真っ先にカトリック教の浸透と教勢拡張を禁止する国家的措置を取りました。
彼はカトリック教を朝鮮封建国家の統治思想である儒教の異端・否定であると断じ、一八六六年初め、フランス人宣教師をはじめその信徒を虐殺する大弾圧を加えました。
彼はまた、資本主義列強の開国通商要求を拒絶し、武力侵攻に対処する鎖国攘夷政策を実施しました。一八六六年のアメリカ侵略船「シャーマン」号の大同江侵入に際しては、愛国的人民の戦いに力を得て強硬措置を講じました。
一八七一年、アメリカが大規模の武力を背景にして朝鮮封建政府に開国通商条約の締結を迫った際も、これを断固一蹴しました。
大院君の鎖国政策は、ブルジョア革命を経ていない封建朝鮮が、当面する資本主義列強の侵略を防ぎ、国の独立を守るうえで一定の効果を上げたとはいえ、崩壊期に直面した封建制度の危機と階級的矛盾は深まるばかりでした。
一八七三年末、大院君に変わって閔氏一派が政策を掌握するに及び、朝鮮封建国家の対外政策は鎖国政策から外国勢力に侵略の道を開く「開港」政策に移行しました。(以下次号)52
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