朝大卒業生ならではの視角で一緒にできることがあるはず
スポンサードリンク
「上は果てしない」
自分しかできないことを求めて
金入学してみてどうでしたか?
李入学した後に、担当の教授がロボット研究で五本の指に入る有名な方だということを初めて知りました。全く知らないで入ったんですよね。自分がいかに無謀なチャレンジをしていたのか、その時に初めて知りました。
金入学後、ついていけましたか?
李ついていけませんでした。難しかったです。周りは皆一流の大学から来た優秀な人材ばかりで、東北大のトップ3が内部進学で同じ研究室に入ってきていました。朝大でも優秀な学生を見てきましたが、上には上がいるのだなと、上は果てしないと思いました。
金じゃあ、研究の日々ですね。
李入学前は福祉ロボットの研究を希望していたのですが、今はもうやっていないということで、ちょうど新しく始まるプロジェクトがあったので、それを研究テーマにすることにしました。産業用ロボットの研究でした。コンセプトを考えて設計して、電気系統も作って、機械加工もして、制御理論も考えて、プログラミングもして、何もかも始めからだったので、それがすごく勉強になりました。面白かったです、朝大にはロボットの授業がなかったので初めて学ぶことも沢山あって。学部の授業にも潜り込みました。大変さが九五%、面白さが五%、でもその五%が本当に面白くて、難題を解決できた時はものすごい達成感があったので、楽しみながら続けられました。研究ってこんなに大変なんだと実感しました。先生や先輩、同級生も後輩も、留学生も多くて、いい人に囲まれて学べました。それまで日本人の友だちがいなかったので、在日朝鮮人にどのように接するのかなと不安でしたが、少しずつ自分のバックグラウンドについて話していくと理解してくれて、先生たちは心配もしてくれて、当時は情勢もあまりよくなかったので。
金何年頃ですか?
李二〇〇八年からです。
金何年通ったのですか?
李修士課程が二年で、博士課程が本来三年なのですが、一年延長しました。でも結局論文を完成できませんでした。四年目が終わろうとしている時に朝大の事情もあって、指導教授もずっと引きずるのは良くないので環境を変えてみるのもいいかもしれない、博士号を取れればいいけれど、それがすべてではないと言ってくれたので、朝大で働くことにしました。
金またチャレンジするつもりですか?
李はい。研究ができていなくて焦燥感はありますが、いつか必ずと思っています。
金ロボット研究の速度は日進月歩だと聞いています。
李だから私がやっていた研究はもうできません、もう古くて。私がやっていたのは人と同じ空間で働く協働ロボットの研究でした。今はもうそれが主流で、これからどんどん発展する分野です。大学院に入学したころはその研究が始まったところでした。結果を出せなかったのは私の実力不足のせいだと思っています。能力の高い人はたくさんいて、上には限りがありません。でも同時に、私にしかできないこともあると感じることもあって、ちょっと開き直りもあるのですが、今は自分にしかできないことを作り出せればと思っています。
金自分にしかできないことは何なのでしょう?
李まだ探している途中です。当時の朝大工学科では電気科目の授業が多かったのですが、大学院で一緒に研究した友人たちは、ロボットや設計、プログラミングを学んでいても、電気科目の勉強をあまりしていない。ところがロボットを作るためには回路を作ったり配線したり、電気科目の知識が必要で、そういう時は私が教えたりしました。幼いころから作るのが好きだったので、機械加工や機構設計の分野も研究室の中では得意な方でした。面白い設計アイデアを発表して認められたこともあったので、そういう分野では後輩から頼られたりもしました。そうして私が知らないことは教えてもらいながらチームでやっていく中で、変なプライドを持って自分を変に主張するよりは、自分にない力は借りて、一緒にやっていけばいいのではないかと思うようになって、気が楽になりました。もちろんどこかで自分の力で突破すべき壁は出てきますが。
大学院に通いながら、朝青活動もして、東北ハッキョのためにできる範囲で手伝ったりもしました。その過程でレゴ教育を始めるようになりました。自分が好きで始めたことが今、全国で反響を呼んでいるのを見ると、どこでどうつながるかわからないと思います。自分ができることを必死にやっていれば、新たな道が開けるのではないかと思っています。
スポンサードリンク
人生観変えた東日本大震災
「周りの人に生かされている」
金大学院には実家から通ったのですか?
李最初は実家から通っていたのですが、修士課程を終える頃に両親が東京に引っ越して、それからは東北ハッキョの寄宿舎から通いました。
金じゃあ、生徒たちと一緒に。
李はい、先生たちとも一緒に過ごしていました。その時に東日本大震災を経験しました。
金じゃあ、一緒に炊き出ししたり。
李はい、研究室もめちゃくちゃになって、大学院に通えない期間もあって。
震災は人生の大きなきっかけになりました。震災直後はハッキョの校舎も全壊してしまい、どうなるのだろうと不安でいっぱいだったのですが、六日後くらいに東京の同胞たちがトラック三台に、支援物資をいっぱい積んで訪ねてきてくれました。本当にびっくりしました。東京も被害にあったと聞いていたのに、トラック三台分も支援物資を集めてきてくれたということに衝撃を受けました。それからは途切れることなく一年中、毎日いろんな地域の同胞たちが支援物資をもって訪ねてきてくれて、本当に毎日。人生で一番多くの人に出会った一年でした。それが本当にありがたくて。顔も知らない、会ったこともない人に、生かされていると実感しました。
それまでは同胞社会というと、自分の身近にいる知り合いという範疇でしかイメージできなかったのですが、そうではなくて顔も知らない、会ったこともない同胞たちに助けられて、さらにはウリナラからも慰問金が届いて…。自分が知らない、会ったこともない人たちがいて、自分が生かされているのだと強く感じました。自分が何かをやって来たからこうして生きているのではなくて、周りの人々がいて自分が存在できているのだと気づきました。それまでは少し傲慢に、ロボットの研究をしていて、その研究で社会に何かしてやるのだというような考えもあったのですが、今はこうして研究ができるのも、祖国があり同胞社会を守ってきた人たちがいて、周りに支えられているからだと、自分も支えられる人材にならなくてはと、思えるようになりました。
金人生観が変わるような体験でしたね。
李そうですね。本当に感じることが多かったです。
スポンサードリンク