朝大卒業生ならではの視角で一緒にできることがあるはず
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朝大入試、物理は白紙で
個性的な友人に囲まれて
金先生は幼いころからレゴが好きだったんですか?
李はい、ブロックやプラモデルが大好きでした。レゴブロックは高価なので家では買ってもらえませんでした。でも学校の寄宿舎にありました。両親が教員だったので学校が終わるまでいつも寄宿舎生と一緒に遊んで待っていたのですが、その時によくレゴで遊びました。
金当時は、生徒はどれくらいいたのですか?
李それでも一クラスに二〇人以上、三〇人近くいました。東北六県から集まった寄宿舎生も多かったです。今は寄宿舎生がいません。
金レゴもできて、学校は楽しかったですか?
李レゴもしましたが、それよりは外で遊ぶことが多かったです。東北のハッキョは山の中にあるので、いつも森の中に入って遊んでいました。沼で釣りをしたり、泥団子を作ったり、雨の降った日は室内でレゴをしたり。
金どうして工学に興味を持ったのですか?
李工学に興味を持ったのは大学に来てからです。本来もの作りは好きでした。段ボールで何かを作ったり、学研のニューブロックで遊んだり。私たちが初級部高学年の頃、ミニ四駆が大流行しました。あの頃は同級生の誰もがミニ四駆を作っていました。日本全国の子どもがそうだったと思います。大学に入ってからは作ったものが、プログラムを合わせると動くので、それがまた面白くて。特別な目標とか、深い考えがあって理工学部を選んだというより、もの作りが好きだから工学部かなという軽い気持ちでした。教員になる気もなかったので。
金理工学部の授業はどうでしたか?
李全くついていけませんでした。東北は生徒数が少ないので文系のクラスしかありませんでした。人数の多いハッキョでは文系の가班と理系の나班に分かれていましたが、私は나班の存在さえ知りませんでした。朝大の入試は、国語、歴史、英語、数学は共通で、物理、化学、生物の中から一科目選択することになっていました。ところが選択科目はどれも習ったことがなくて、直前に物理を専攻した先生について勉強したのですが、実際に出た問題は全く分からなくてほぼ白紙で提出しました。それでも合格しました。面接で「一生懸命頑張ります」とアピールしたので入れたのだと思います。
入学当時は、前で先生が言っている言葉が全く分からなくて、周りに他のハッキョ出身の頭のいいトンムがいたので、寄宿舎でも横について夜遅くまで質問しました。自分の勉強の邪魔だったと思うのですが、よく教えてくれました。先生も訪ねて行くと快く教えてくれて。
金理工学部には勉強する雰囲気があったのですね。
李はい、ありました。先輩にもよく教えてもらいました。よく遊びもしましたが、勉強は勉強でしっかりしていました。
金寄宿舎生活は勉強に有利でしたか?
李そうです。私は基礎学力が低かったので、寄宿舎でなければついていくのが難しかったと思います。課題も多くて。一人ではできなくて、いつも友だちの力を借りていました。
金ついていけるようになったのはいつ頃ですか?
李三年生になってからでした。一、二年生の頃は基礎科目で、数学や物理の基礎を徹底的にやります。三年になると工学の科目が増えるので、そこからはスタートラインが同じになります、誰も習ったことがないので。そこからどうにか同じラインに立つことができるようになりました。
金じゃあ、一、二年は長かったですか?
李そうでもなかったです、朝大生活は楽しかったので。クラブも空手部と舞台装置の二つに入ってやっていました。忙しかったですが、朝大に来た以上いろんなことをやってみよう、いろんな人に会ってみようと思っていたので、何でもしました。忙しさを楽しみながら。
金同級生は何人いたのですか?
李一七人いました。
金少数精鋭ですね。
李理工学部は今もだいたいそれくらいです。優秀なトンムもいて、何しろ個性が強かったです。他の学部からもそうみられていました。入学当時はこんな人もいるのかとカルチャーショックを受けていました。私は田舎育ちで、周りにはおとなしいトンムが多かったのに、うるさかったり、面白かったり、やけに冷静だったり、個性豊かで楽しかったです。今も理工学部は少し違うと言われています。
金三年生から工学を学ぶようになって、何が一番面白かったですか?
李電子回路をはんだ付けしながら作るのが面白かったです。これは四年生の時に実習に行った企業で、課題を出されて作ったものです。
金キャタピラ型のロボットですか?
李赤外線を発する物体を探索するロボットで、見つけると赤外線の発光方向に向かって動きます。ハンドのようなこの間に発光物体が入ると止まるようになっています。企業の人が作ってくれた赤外線発光ロボットがあって、二つで鬼ごっこをするという想定です。二人で、三週間で作るのですが、企業の実習担当の人からOKをもらうまで何度も企画書を出して、秋葉原に部品を買いに行って、もう一人のトンムが電子回路を作って、私がプログラムを担当しました。実習先は様々なのですが、私は面白い経験をさせてもらいました。これは三年生の時に授業で作ったスロットマシンです。
金こういう過程を通じてロボットに関心が向いていったのですか?
李本来工学を専攻しようと思った時からロボットをつくりたいと考えていました。
金二年間は工学に没頭した?
李というわけではなく、クラブもやってなんでも一生けん命やっていましたね。楽しかったです。
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検索トップの東北大を受験
試験紙前にこれまでない緊張
金大学院に行こうと思ったのはいつ頃ですか?
李大学院に行こうと思ったことは一度もありませんでした。同胞社会やウリハッキョに貢献したいという思いはあったのですが、やりたいことが見つからなくて進路に悩んでいました。
金同胞社会に貢献したいと思ったのはいつごろから?
李東北のハッキョは、みなが仲良くて、そんな中で育って、両親も教員をしていたので、そんな姿を見ながら、ウリハッキョがあるから同胞社会があって、幸せに暮らせるんだと実感していましたし、後輩たちにもそういう社会をつなげていきたいという思いはあったのですが、具体的にどうすればいいのか、なかなか見つからなくて。朝大に来たのも、同胞社会に貢献するためには民族教育を受けるのが一番近道で、工学も学べるしという気持ちでした。
金兄弟はいないのですか?
李姉が二人いて、朝大を出て教員をしていました。わが家はみんな教員です。両親も姉も姉の連れ合いも、私の連れ合いも教員をしていました。幼い反発心から、私は絶対に教員だけはしないと決心して朝大の工学部を選んだのですが、卒業直前に工学科の先生たちが皆定年を迎えていなくなってしまう、継ぐ人が必要なのでどうだろうと言われて、それも一つの道かなと思って「わかりました」と答えました。それが大学四年の一月でした。それから大学院の受験勉強を始めました。
金受験勉強は大変でしたか?
李卒業から試験が実施されるまで、受験勉強に集中しました。ところが四月にまだどこを受験するのかも決めていませんでした。早く受験先を決めて準備をしなくてはいけなかったのですが。
金どうして東北大大学院を選んだんですか?
李ロボットを専攻することは決めていました。ロボットは工学のすべての知識が必要な研究テーマなので、教員になるならそれしかないと思っていました。いろいろなロボットの中でも福祉関係のロボットに興味がありました。それでネット検索すると、一番上に出たのが東北大の研究室でした。一番上に出るということは有名だし、大丈夫なのだろうと。正直、どこでもよかったのです。ただお金がないので、私立は抜いて国立に限定しました。「国立、福祉ロボット、研究室」で検索すると、出たのが東北大の研究室でした。
金国立の大学院を目指すというのは大変なことだと思うのですが。
李その厳しさを全く理解していませんでした、今思うと。事前に見学に行ったのですが、設備がすごくて、ここに来られたらいいなと思いました。先生もいい方たちで、地元でもあるので。でも学力に不安があったので、一応三つの大学院を受けようと思いました。ところが一つの研究室はその年に新入生を受け入れないということで、もう一つは研究室の先生に「君がやりたいことはここではできない」と言われて、結局東北大しか受験できませんでした。東北大も事前に受験資格審査というのがあって、朝鮮大学校の卒業生は、大学卒業資格が認められていないので、事前審査を通過しなければ受験できません。そのために朝大のシラバスや卒業論文の提出を求められたので、日本語に翻訳して提出しました。朝鮮大学校卒業生の場合、事前審査はどの大学院に行くにも必要です。
金受験は何が一番難しかったですか?
李すべて難しかったです。まず英語が大変でした。TOEICで650点以上取れば合格だと聞いていました。提出期間に間に合わせるためには五月に受けなくてはいけないので、一か月間、文法には手を付けず、何しろ単語を覚えてようやく450点でした。大学院の試験場で回りを見ると、皆700点とか800点とかで、「あーこれは落ちたな」と心が半分くらい折れました。それでもインターネットには400点で合格したという人の話が出ていたので、それだけを信じて、試験に挑みました。
試験用紙を前に、わかる問題から解いていこうと思ってずっと見ていくと、何もわからないまま最後まで行ってしまいました。どうしたものかと思ってもう一度最初に戻って、何しろ書けることを書いていくことにしました。間違っているとわかっていながら、こんな答えはないとわかっていながら、書いた答えもいくつかありました。「落ちた!」という思いしかなくて、震えました。でも書かなくてはいけなくて。四科目二日間、人生であれほどプレッシャーを感じて緊張したことはありませんでした。
金地獄のような二日間でしたね。でも全部がそうだったわけではないですよね。
李合っていたかは別として、それでも理解して書いた答えは三〇%くらいでした。三日目の面接試験で第一志望と第二志望に部屋が別れていて、第一志望の方に案内されたので、「あ、これは!」と思いました。合格でした。あとで知ったことですが、研究室の教授が希望者をある程度受け入れたとのことでした。定員は五人でしたが九人が入学しました。そういう教育的な教授で、入って来た学生は育てるという方でした。
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