在日の学生がうたう統一の歌:2018ウリトレin 京都
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一日目(九月一四日)
しとしと降る雨の中、一本の傘の下で歌を口ずさむ韓国と在日の二人の女子学生。歩きはじめて一五分以上が経ってもメドレーが続く。
京都コリアン生活センターエルファで会って、在日一世、二世高齢者の介護や、二〇〇九年にあった京都朝鮮第一初級学校に対する「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の襲撃事件について話を聞き、ハルモニハラボジたちと歌と踊りで交流し、統一をテーマに写真を撮り、打ち上げ会場に向かう道だった。
在日同胞のうたや統一をテーマにした歌を一緒に口ずさみながら、たまに笑顔を交わして少しずつ心を近づけていく二人の後ろを歩きながら、同じ歌を、声を合わせて歌うことはこんなに素敵なことなのだと思った。
こうして九月一四から一六日、二泊三日の、在日本朝鮮留学生同盟(留学同)京都、大阪、東海と韓国の大学生たちの「ウリトレ」が始まった。
二日目(九月一五日)
翌日夕方、京都朝鮮中高学校の食堂からは、七輪の煙と、大きな合唱の声と、手を打ちステップを踏む熱気があふれていた。韓国の大学生たちと留学同、韓国青年同盟(韓青)のメンバー、そして若い同校の先生たち、在日朝鮮青年同盟(朝青)員たちも合流した満員の会場から流れた歌は、「ソン チャバボジャ(手をつなごう)」「カジャ トンイレロ(行こう 統一へ)」等々。平昌オリンピックの時にサムジヨン管弦楽団の玄松月団長がコブシを利かせて歌った「ペクトゥワ ハンラヌン ネ チョグク(白頭と漢孥は私の祖国)」、九〇年代に南でも流行った北の歌「フィッパラム(口笛)」、もちろん定番の「ウリエ ソウォン(私たちの願い)」も出た。「ソン チャバボジャ(手をつなごう)」は同胞が作詞作曲した歌で、京都朝鮮歌舞団が振りを付けた。なぜか参加者の多くがその振りを知っていて一緒に踊っていた。同じ歌を同じ振りで歌うことで、どんどん気持ちが一つになっていく。七輪の煙のせいもあってか、目を赤くして涙を流している姿があちこちにあった。韓青の学生たちは「言葉はよくわからないけど、なぜかほっとする空間だ」と言っていた。
この日の午後、京都の中心街を「朝鮮半島の統一」と「平和」を叫んで、朝鮮学校生徒や同胞、日本人支援者たち四百人でパレードした。その興奮が同校食堂で高い熱気となり、みなの心を一つに溶かした。宴は夜八時過ぎに同校を出た後も朝方まで続いたようだ。
三日目(九月一六日)
最終日は宇治市のウトロを訪ねた。
この地域は植民地時代に飛行場建設に駆り出された朝鮮人の居住地だった。ところが一九八〇年代に所有者が代わったということで急きょ撤去を言い渡された。司法も朝鮮人を助けてはくれなかった。そんな状況が韓国で報じられ、朝鮮人を徴用して謝罪どころか、住んできた地域から追い出そうとする日本の傲慢さに怒った韓国の市民たちが募金運動を始めた。二〇〇六年のことだ。そしてついには盧武鉉政権が支援を申し出、その地域の土地を購入して二つの公営住宅と公園を造成することが決まった。この時の大統領府秘書室長は今の文在寅大統領だ。現在すでに一棟の公営住宅が完工し、同胞たちが暮らしている。在日朝鮮人の歴史館建設の予定もある。この地域を管轄する総連南山城支部の金秀煥委員長は、「ウトロチキミ(見張り番)」として韓国でも知られているという。前日に平壌から帰って来たばかりで平壌の口調が抜けていないという彼の説明はわかりやすかった。
日本の「敬老の日」を前に同胞高齢者に集まってもらい、スタッフが地元女性同盟の手を借りて作った料理を囲んでひと時を共にした。同胞高齢者たちは「こうして訪ねてきてくれてありがとう」「統一のために頑張ってね」と感謝した。もちろんここでも歌は欠かせない。在日高齢者の歌には心にしんみりとしみるパンソリのような味わいがある。初日のエルファで百二歳のハルモニと百歳のハラボジの歌を聞いた時もそうだった。
その後、最後のグループ集会が行われた。「韓国では当たり前すぎて民族について考えたことなどなかった。でもこうして民族の言葉や歴史を守るために闘っている同年代の友人がいることを知って、ありがたくて、今まで知らずにいたことが申し訳ない。会えてうれしかった」という内容の韓国側の感想があちこちから聞こえた。感想発表の後、準備した横断幕とTシャツへの寄せ書きが始まった。寄せ書きしたTシャツで様々なポーズをとって写真に納まる学生たち。明るくて自由で、楽しそうな姿がまぶしかった。
× ×
一九八〇、九〇年代、一緒に歌う「ウリエ ソウォン」には、遠く離れた恋人を思うような深い哀愁がこもっていた。
二〇〇〇年の6・15共同宣言の後、「ようやく統一が近づいた」と喜び勇んで初めて訪ねた韓国で、在日朝鮮人を知る人はいなかった。五〇年以上の分断は、故郷との断絶をもたらし、在日朝鮮人が話す朝鮮語の異質さを際立たせるばかりだった。長い片思いにやぶれたようなやるせなさが残った。
それでも統一をあきらめはしなかった。日本では「朝鮮」に対する社会の風当たりがこれまでにない程激しくなり、北側は「国際制裁」のなかで厳しい立場に追いやられ、南では一九九〇年代の民主化以前へのUターンを思わせる保守政権が続いた。しかしそんな中でも、互いを理解しようとする努力が地道にコツコツと成果を上げていった。ソウルで、釜山で、いたるところで在日朝鮮人を理解しようとする人々があらわれ、様々な交流が始まった。一方、朝鮮学校では日本のマスコミの激しい「北朝鮮バッシング」の中でも朝鮮への修学旅行を続けて北側の人々を理解し、南の人々との交流も続けながら、いつか必ず三者が自由に会う日が来ることを信じて朝鮮人の尊厳を守って来た。
ウリトレで大学生たちが歌う統一の歌は明るくリズミカルで力強かった。同じ振りで同じ歌を合唱しながら流した涙は、切なさではなくて、「私たちはやはり一つなのだ」という確信だった。どんな紆余曲折も、力強く、そして柔軟に、しなやかに、乗り越えていく底力を秘めているのだろう。
明日から第三回南北首脳会談が始まる。私たちの前途がさらに明るい光で照らされる。51
金淑子・編集部
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