「共和国旗掲揚禁止事件」を追い続けて55年
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シリーズ「語る」その1
語り部・孫文奎さん一九四一年一一月、太平洋戦争が勃発した年に、大阪で生まれました。その当時、アボジは此花区のガス工場で雑役として働いていました。オモニはしばらくして幼い長女と長男を連れて手紙の住所を頼りに麗水港から船で下関港、汽車で大阪に着いたそうです。家族は長女、長男、次男、三男の私、その下に妹二人の六人兄弟です。空襲が激しくなり、二歳か、三歳の時に全羅道の親戚を頼って、瀬戸内海の周防大島に疎開しました。
疎開先でアボジは、戦争で男手がとられた日本の農家で農作業の手伝いをしました。故郷で小作をしていたアボジは便利に使われたようです。ここで解放を迎え、親戚は船をしたてて朝鮮に帰りましたが、アボジは帰っても生活の目途が立たず残ったそうです。私は周防大島で小・中・高と日本の学校に通いました。県立高校を卒業して、奨学金をもらえるというので朝鮮大学に進学しました。六人兄弟の苦しい生活の中で大学に行ったのは私一人です。
朝大に入学したのは一九六〇年四月です。四階建ての鉄筋の寄宿舎ができた年です。机も椅子もベッドも新品、水洗便所にはビックリしました。
寮生活は祖国愛と愛校心が強く新入生に親切な先輩達のおかげで、起床から消灯まで厳しい中で規律ある生活を送れたようです。
文学部の地理歴史科(地歴科)に入学、文学部にはもう一つ朝文科があり、政経学部、理工学部がありました。
地歴科の学科長は金鐘鳴先生で、この年に東京朝高からこられた朴慶植先生が私たちの担任でした。翌年には考古学の李進煕先生が赴任してきました。地理は魚塘先生、卒業する年に裵秉斗先生が講師としてこられ、講義が面白いと女子学生から人気がありました。世界史や日本地理とかは日本の先生に教わりました。
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入学した年には4・19学生革命が起って李承晩政権が倒れます。9月に全校生で行った帰国船歓迎歓送事業は大きな刺激となりました。
ウリマルの学習にも身が入りました。二二人の学科生の内の一〇名が私と同じ、日校出身者です。夏休みまでの三ヶ月間、国語習得運動が組織され、夜遅くまで競争でウリマルを勉強しました。二年にあがるとウリナラの歴史と同胞生活史(強制連行等)に関心を持つようになりました。共和国から送られてくる歴史論文集をみんなで音読しメモを取りました。暇があると図書館通いです。「解放新聞」のバックナンバーを一枚一枚めくり…共和国創建前後の歴史に関心が膨らむばかりでした。三学年からは国会図書館の新庁舎に通いました。館内に掲げられた「真理は我れらを自由にする」という言葉が印象に残っています。コピー機がなかった時代です。「アカハタ」等に載った国旗掲揚禁止の記事を夢中でメモしました。
共和国国旗掲揚闘争について初めてまとめたのは一九六三年です。学内の学科別研究討論会で発表したところ、後に学長になった南時雨先生から「とてもいいテーマを選んだ」と指摘され、その論文「在日朝鮮人の共和国国旗掲揚闘争」は、朝鮮大学地理歴史科の会報「ポチョンボ(普天堡)」(七号 一九六三年一二月一三日)にも載りました。それが卒業論文になりました。
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一九六四年に卒業して、まず図書館の助手として配属され、庶務課長、出版課を勤めました。一九七二年から通信学部に配属され、夏期講習のときには高卒の若い先生に歴史を教え、また対外事業委員会で活動しました。その後歴史地理学部の教員として歴史や漢文を担当、現在は非常勤で漢文の講師をしています。
この間、職場は幾度となくかわりましたが、「国旗事件」について、忘れたことはありません。
一九七〇年代の後半だと思います。国会図書館・憲政資料室で膨大なGHQ文書(米占領軍文書)が公開されるとのニュースが流れました。私は早速新しい資料を求めて国会図書館通いを再開しました。最短距離で往復2時間かかります。午後の時間が
金日成綜合大学出版社から刊行された孫さんの学士論文「공화국주권을 옹호하기 위한 재일조선동포들의 투쟁(共和国の主権を擁護するための在日朝鮮同胞のたたかい)」(197ページ)空くと国会図書館に向かいました。交通費だけで20万前後は使ったのでは…。
英語が得意でないので、「NORTH KOREA FLAG」、「KOREAN IN JAPAN」「CHOREN(朝連)」の3つのキーワードをもとにフイルムをとにかく複写しました。朝大にはそれを印字するマイクロリーダーがないので、近くの東京経済大・図書館に行って出力したこともあります。それでGHQの研究で知られる同大学の竹前栄治先生の研究室を訪ね、いろいろ助言をもらいました。米第八軍政部の「通達」や「電信」というのは短文ですが、それを読みこなすために随分苦労しました。「解放新聞」の記事を裏付ける記録を見つけだすたびに嬉しさは格別でした。
そんな私の「研究活動」に朝鮮が関心を持ってくれたということを大きな誇りに思っています。「共和国の主権を擁護するための在日朝鮮同胞のたたかい」が学士論文として認められ、一九九七年に金日成綜合大学出版社から出版され、二〇〇五年には加筆し、いくつかの資料を添付した第二版を出しました。、朝鮮では博士論文でない、学士論文が出版されるのは稀だという話を聞いて、研究のやり甲斐を改めて感じました。
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卒論が共和国創建一五周年でしたが、その後発表した二つのレポートは、一九七八年と二〇〇八年で、いずれも共和国創建三〇年と六〇周年を記念するものとなりました。そして今回、七〇周年を迎えての再整理、私としては、とてもいい機会に恵まれたと思っています。(談・高田馬場=文責・金日宇)
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