平壌から「今」を伝える #第35信(2018.7.12)
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金圭蘭:第35信(2018.7.12/他)
整理者:筆者の金圭蘭[東京朝鮮第三初級学校18期・東京朝鮮中高級学校21期卒業生]は、編者・金日宇の妹である。朝鮮大学校の工学部機械科に在学中の1972年春に帰国した。
長年住み慣れたアパートの建て替えのため、仮住まいで長女夫婦と一緒に暮らしている。近く、新築のアパートへ転居するようだ。
原文は大方日本語で、一部単語は朝鮮語。書き手のニュアンスをそのまま伝えるため、誤字、脱字だけを直した。文中[ ]内と注釈は、整理者が付けくわえた。 (「記録する会」 キム・イルウ)
7月12日付
イルウオッパ[兄さん]!
手紙受け取りました。同級生への手紙を読みました。(本誌50号 127~129頁に掲載)同級生への手紙は、あんなにも面白おかしく書いているのに、私への手紙はあまりに簡単、明瞭すぎるのでは…。
オルケ(兄嫁)も変わらず元気なようですね。オモニの写真受け取りました。以前より、若く? 健康そうに見えました。オッパとオルケのお陰だと感謝しています。
東京朝高の慎校長と七月四日に会い、『風景』もらいました。それから慎校長がわざわざ作ってくれた、私たち21期生の「卒業写真集」はどんなに嬉しかったことか。それからお小遣いまで。一〇日にも会い、たくさんお話聞きました。18期の同窓会のCDも観ました。同級生への愛があふれていました。今日は、毎年恒例の集まりがあります。そこにも招待されたのですが、様子を「書け」とのことです。上手に書ければいいのですが…。慎校長先生に、感謝の言葉、お伝えください。(「平壌発・東京朝高18期先輩たちの同窓会に参加して」のタイトルで、『風景』51号122~125頁掲載)
東京朝高21期「卒業写真集」、こうして渡しましたと、勤めていた平壌動力設計研究所の年配者の集まり、それから新校舎建設に建ちあがった母校、東京第三への激励文みたいなもの(別稿掲載)同封します。
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◎驚きと喜び「卒業写真集」
*私たち18期もそうだが、「卒業アルバム」を作らなかった時代があった。慎校長は、そんな時代の卒業生から要請があれば、学籍簿に載った写真を一枚一枚デジカメで撮り、出身校などを添え、「卒業写真集」を作っている。今回は、21期生の「写真集」を帰国者にプレゼントした。
思いもよらない大きなプレゼントに私たち、東京朝高21期同級生がどんなに喜んだことか…。受け取った四日の夜は、眠ることが出来ませんでした。二回、三回観るうちに、朝高時代の生活がよみがえり、あんなこと、こんなこと次々と思い浮かび、興奮、夢心地の一夜でした。それでもいつの間にか寝入ったのでしょう、いつもは五時に起きなくてはならないのに、その日は六時になって、孫に起こされました。
六日、モランボン区域で暮らすホン・スッヒィトンムに渡し、それからバスに乗ってピョンチョン区域へ。キム・キョンミトンムの家を探して行ったり来たり三十分、それでも全く苦になりません。キョンミトンムは「写真集」を見て、あまりに嬉しくて…一班から一三班まで一回見て、二回見て。そんな姿を見て、五百人前後もの写真を撮って、それを一冊にまとめてくれた慎校長への感謝がこみ上げてきました。本当にコマッスムニダ。
「キュランは八班だったよね…担任はムン・チュンス先生、ヨンオギもいる、ユン・ジョンスクも…」、「キュラニこの子と仲良かったよね」、「×班のこの子ハンサムだったよね」、「総連の副議長になったあのトンムは四班だったのか…〇〇と一緒になったんだよね」
どこに行っても、こんな調子…誰もがひとりごとを延々と…。
見て、見て、また見て、「懐かしい」の連発、「写真集を作ってくれた先生にどう感謝すればいいの…」。
近所で暮らしているリ・セジントンムとヒョン・リョンシルトンムは、何度かけても電話を受け取りません。仕方なくリ・ヨンオクトンムの家に。一一階だというのに、エレベーターが「休止中」。歩いて上りました。「写真集」を見るなり、声が出ません。「どの先生が…ありがたいよね」
彼女も「夢のようだ」と、一枚一枚めくり、「このトンム、知っている。可愛いね、おとなしかった〇〇」、「美男美女、多いよね。ブスで性格悪い子なんて一人もいないね」、「三班のペク・チェミョン…一一班のナムグン・ヨンスクじゃなくて、ヨンスンじゃない…」、「そうそうこのトンムは陸上部、このトンムはサッカー部で、バレー部で、民族器楽部で、この子はクラリネットを吹いていたね」
ここでも独り言、話は終わりません。
翌七日は、トンデウォン地区へ。パク・ジュンファントンムはバス停まで迎えに来てくれました。五月に催した同窓会の写真を渡しながら、「トンムの写真はない」と言うと、残念そうに、「悪かったので、地方の朝高に送られたから…」。冗談なのか事実なのかわかりませんでした。
考えてみたら、高三に進学するとき、学区の調整があって、「チンダルレ(つつじ)寮」と「モラン(牡丹)寮」がなくなった時期です。そして多くのトンムたちが家に近い地方の朝高に移ることになりました。チュ・ヘン、キム・チョンジャ、チョ・ファスン、リム・デサ、チャン・ヨンボン、オ・テソク、リム・イルソク…クラス一つ以上の学友たちが転校していき、キム・スン、コ・ヘンスクトンムたちは、師範科に入り、茨城朝高に行きました。
それで「写真集」の生徒数が四六六人、たしか高校に進学した時は五〇〇人以上いたはずです。
その足でキム・ヘンジャトンム(キム・キョンスク先生の妹)の家へ。「へぇ~、素晴らしいね」、「本当に手間暇かけて…出身校が書いてなかったら、よくわからないかも…」、「本当にありがたい…どうやって感謝を伝えれば…」って。
その夜、リ・ヘギョントンムから電話がありました。
「シン・ギルン先生って、朝大の理学部卒業じゃない…アボジの教え子だと思う」
「…いつから母校の校長になったのか分かんないけど…こうして卒業生たちに『写真集』を作ってくれて…帰国した卒業生に送ってくれるなんて…」
ヘギョンのアボジ、リ・ソクポン先生は、一九七一年まで朝大の理学部の学部長を務め、その後、師範教育学部長の任に就いたとのことです。
「アボジが入院していた時、お見舞いに来てくれて…意識がもうろうとしていたのに、病室に入ってきた彼の顔を見るなり、『ギルンが来たのか』と、大変喜んだということを日本からの手紙で知りました」
ヘギョントンムは「その先生が『写真集』を…見て、見て、見て…今も見ている」と話していました。
× ×
とにかくこの間手紙のやり取りもなかった、五〇年前のクラスメートの姿にみんな感無量です。
「一班のキム・ビョンジェは三多摩出身ではなく、埼玉では?」とか、「九班のキム・ヒィスンは東京第五になっているが三多摩…」、「三多摩になっているリ・ジェヒョンは名前が…」。
よく見ています。「写真集」で初めて見るというトンムもいます。女子は男子の三分の一は分からないと言っていました。そう、私も昨年、帰国してから初めての同窓会まで、ヒョン・リョンシルを女子だと思っていましたから。
リ・セジン、ミン・ヨンオクトンムたちもあまりに感激して、信じられないといっていました。
この「写真集」を機に、ここで暮らすトンムたちをより身近に感じるようになりました。「帰国していたのか…」と、連絡を取り合ったり、家に行ったり来たりするようにも…。
昨日(7・11)は、チョン・ヨンリトンムの家で、リ・ヨンオク、キム・ジョンスクトンムの三人が集まって、「写真集」を一ページ、一ページめくりながら、懐かしい、懐かしいと、夕方まで楽しんだようです。その晩、チョン・リヨントンムが電話で知らせてきました。「シン・ギルン校長先生、ありがとう」の挨拶を伝えてくれとのことでした。
日本にいるトンムたちも、ここで暮らす私たちだけが「写真集」を持ったことをとてもうらやましく思うことでしょう。
◎昔の職場の「年配者の集まり」
五月二一日、今日は「建設者節」です。
毎年、私が勤めていた平壌動力設計事務所の満期引退者[定年退職者]たちが集まります。場所は、いつもの普通江区域の川辺の奥の「オモニ島」です。
この日が近づくと、電話で互いの安否を気遣い、「それではいつもの所で」と、再会を約束します。いつから始まったのか? 私が参加するようになって、二~三年経ちますから、七~八回は続いているはずです。
金日成主席が死去され、「苦難の行軍」…経済的に大変な時期、食料事情が厳しくなりました。朝食を抜いたり、昼食を我慢したり…トウモロコシや真っ青な野菜の雑炊みたいなものを食べて…。そんな中でも「赤い旗」を守り、職場を離れず、互いに助け合って、最後(定年=女子は五五歳で、男子は六〇歳)まで頑張った人たちの集まりです。困難な時、職から離れて行った者や、自分たちだけがコソコソ、どっかのスネをかじっていた者たちは呼びません。
昨年は、最高年齢八三歳の男女二人が参加しましたが、今年は「脚が…」と来られませんでした。
一一時頃から集まり始めて、まず、昨年撮った記念写真が配られ、それを見ながらおしゃべりが始まります。
「チャントンムは、何年生まれ?」
「一九三六年」
「八二歳か…若いですよ」
「クォントンムも歳に比べたら…」
「ハントンムは毎日、踊りに行っているの?」
「皆、気持ちも若いし姿も…孫は何人?」
「設計室にいた〇〇はどうしているのかな…」、
こんなあんなで話は尽きません。
生まれも歳もまちまちですが、同じ職場で三〇年以上、一緒に働き、春と秋の農村動員にも行き、男性たちは軍事訓練にも…。ときに大声で喧嘩までした人たちです。青年同盟から職業同盟に、そして夢にまで見た党員にもなりました。
研究所から離れ、平壌市内だけではなく、遠く清津や北倉、順天での技術指導や開発に派遣され、そこで金日成主席、金正日国防委員長と記念写真におさまる栄誉、多くの人が労力勲章、国旗勲章二級に輝いた功労者たちです。
そんなかれらも今は、みんな爺さん、婆さんです。退職した後は、子どもたちの世話になり、孫の面倒を見て、男たちは夕方になるとビールを、そんな平穏な生活を送っています。
それでも子どもたちの結婚問題、孫の進学、入隊に頭を抱えることもありますが、ここに集まればみんな同じ、「困難をはねのけ、ひるむことなく、最後まで『赤い旗』を守りぬいた」、大切な同僚です。
嫁か、娘が作ってくれた弁当を嫁自慢、娘自慢をしながら分け合い、中には息子も一人身で、男三人暮らしの男やもめもいます。何を持って行こうか心配していたら、息子が肉の塊を持たせてくれたようです。同じ部署にいた五~六年先輩の帰国者です。一番年下の私が肉の処理を任せられました。大きなタッパー二つとビニール袋に山羊(マトン)の肉がいっぱいです。後で聞いたら六キロ。延々と肉を切っていたら、隣に座った姉さん[先輩]が私の口に海苔巻きやら、お餅、餃子を次々と…食べさせてくれました。
しばらくして、コンロで焼き始めました。
「本当に美味しくて…やわらかい、歯がなくても食べられる」
すると「緊急動議」です。娘や嫁が色々作ってくれても食べきれない、来年からは、一人五〇〇グラム。牛でも豚でもアヒル、マトンでも、肉を持ち寄る。肉が苦手な人はイカでもということが、「満場一致」で決まりました。コンロの持参係は指名されました。
お腹が膨れると、のど自慢です。
若い人から順にです。
말도 하나 노래도 하나 피줄도 하나 내 조국에 바친 마음 하나이건만
私はそんな統一の歌をうたいました。
一番の年長者は「もううたわない」と言いながら、お得意の自作詩を朗読しました。若者たちに伝える経験談でした。
四時が過ぎたので、みんなで記念写真を撮って、「また来年…」といって別れました。
ここで大学を卒業して三〇年以上、私の人生でも最も長く一緒に過ごした大切な人たちです。来年もみんな元気に会えればいいですね。
■7月12日
オモニ、お元気な様子で、安心です。
オッパ(兄=私)とリュ・スンジョン先生の手紙届きました。リュ先生は、修学旅行に来た孫を通じて、口紅まで送ってくれました。
ここのみなは元気です。
孫のチュウォニ、チュヨン、ケヨンは七月一五日から夏休み、八月末までは孫の面倒で大変です。
暑い夏、お体に気をつけて。
孫たちとの写真、同封します。
二〇一八・七・一二
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