「一生教員」を つらぬいた崔玲姫先生を偲ぶ
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朴九令
岐阜朝鮮初中級学校校長
「一生教員をしたいです。」
「私の目標はペ先生」と断言していた、崔玲姫(チェ・リョンヒ)先生が亡くなりました。享年55歳でした。
彼女の出身校である茨城朝鮮中高級学校にはペ先生という素晴らしい数学教諭がいました。朝鮮総連の雑誌にも紹介されたことがあります。「ペ先生の数学は易しい」と。
即ち、ペ先生は難しい問題も易しく教えてくれる、生徒たちは知らない間に難しい問題を易しく習得できている、そんな先生を目標にチェ先生は一九八五年三月岐阜朝鮮初中級学校に赴任、校長に「一生教員をしたいです」といったそうです。その後も事あるごとに「私は一生教員でいたい」と言っていました。
チェ先生は二年半前に卵巣がんの診断を受けました。ステージ二との事だったので、手術で摘出すれば治る誰もがと思っていました。手術で全適しきれなかったけれど、希望を持って抗がん剤治療を受けました。
彼女はもともと強靭な体力の持ち主だったので、治療中がん患者特有の「やせ細っていく」姿など見せたこともなく、逆に検診ごとに一キロずつ増やしていました。悪友たちはそんな姿をはやし立て、「あなたは病気で死ぬ人ではない」と励ましました。
そんな彼女の様態が急変したのは今年六月中旬ごろです。毎週一回学校に顔をだし、子どもたちの勉強を見てくれていたのですが、なかなか起きられないと寝込み始めてから、二か月もたたず、天に召されてしまいました。
あまりにも急で、あまりにも惜しい、あまりにも悔しい。涙を流すだけでは晴れないこの気持ちをどこに持っていけばよいのか、途方に暮れるとはこんな思いなのでしょうか。
告別式で、彼女のお兄さんが日本の方々を含む岐阜の同胞に挨拶をされました。
ここに要旨を紹介させていただきます。
◇ ◇
…リョンヒは茨城地域商工会会長の父、在日朝鮮女性同盟地域委員長の母の下四人兄弟の三番目(長女)に生まれ、幼いころから愛国、愛民族精神の教育を受け育ちました。
初級部一年生から民族学校の寄宿舎に入り、大学まで民族教育を体系的に受け、民族学校の教員をめざし学びました。
リョンヒは次兄をがんで早くに亡くし、翌年父、母も亡くし悲しい思いをしましたが、残った兄弟三人、助け合いながら暮らしてきました。
リョンヒは朝鮮大学を卒業後、岐阜朝鮮ハッキョに配置されてから病気で休職するまで三〇年間、数学をはじめとする理数教員として、子どもたちを育てる担任教員として務めてきました。
一生教員でいることを何よりの誇りに感じていました。
しかし、思いもよらない病魔に襲われ、闘病という道を選択せざるを得なくなりました。
身寄りもいない岐阜の地でリョンヒは、組織(総連)と同胞たちの愛情の中で過ごしました。地元で結婚し、子どもも育て、たくさんの同僚、教え子たちに出会いました。闘病中はチング(友達)たちが毎日のように見舞い、食欲がないときには朝鮮料理を持ってきて食べさせてくれました。
岐阜の地域で幸せを掴めたと思います。
皆様に深くお礼を申し上げます。 …
◇ ◇
三〇年の教員生活、彼女はまさしく生涯教員を貫きました。
卒業生の弔辞の中に、先生はいつも優しい、いつも笑顔で迎えてくれましたと。勉強のためなら自宅も開放し、いつも子どもたちと過ごしたチェ先生。
卒業生たちはチェ先生と会うたびに自然とハグして喜び合い、お互いをねぎらいます。そんな姿は、ほかの先生にはとうていまねできませんでした。
教員仲間の子どもたちは自分の子ども以上に面倒も見てくれました。
私個人にとっては同僚であり、頼りになる妹であり、ときには体格をからかい笑いを取らせてくれる、かけがいのない存在でした。
チェ先生、安らかにお眠りなさい。
弔辞
최령희선생님 령전
《일생 교원을 하겠다》
이것이 최령희선생님의 좌우명이였습니다.
그런 말을 들을때마다 저는 사정이 어떻게 될란지 모르니까 그런 소릴 말라고 자주 조롱하군하였습니다.
그러나 최령희선생님은 자신의 좌우명인 평생교원을 끝내 이루었습니다.
최령희선생님은 一九八五년에 조선대학교 리학부를 좉업하고서는 기후조선초중급학교에 배치되여 생의 마감까지 어언 三三년을 우리 학교 교단을 지켜왔습니다.
공부는 얼마나 잘 가르쳤는지 수학과목 모범교수자인 고인은 모든 학생들이 알게 될때까지 친절하고 차근차근 배워줌으로써 누구나 산수,수학을 좋아하는 학생으로 만들었습니다.
아이들 사랑이 지극한 최령희선생님
우리 졸업생들은 지금도 선생님을 보기만하면 달려와서 와락 안기여 정다운 인사를 나누며 웃고 지내는 모습은 다른 교원들이 시샘이 날 정도였습니다.
학생들,졸업생들은 자기를 사랑하고 아껴주는 최령희선생님을 무척 좋아했습니다.
또 중급부三학년 남학생도 팔씨름으로는 당해낼수 없으리만큼 강하고 굳센 체격과 체력은 남교원도 물론 당할수가 없었습니다.
온 몸을 땀물에 흠벅 적시여가면서 草刈り機를 들고 온종일 일하던 모습이 너무도 선합니다.
그러나 작은 바늘하나 몸에 꽂히면 기절하리만큼 무서워하는 최령희선생님
투병기간은 얼마나 무서웠을가요.
나중에 들은 말로는 보통사람같으면 도저히 견디여내기가 힘들었을것이고 벌써 몸이 다 망가졌을것입니다.
그러나 버티였습니다. 그것은 단하나의 마음,교단에 다시 정상적으로 설날을 그려보았기때문이겠지요.
아픈 몸을 누르면서 학교에 보탬이 되고싶어 매주 수요일은 나와서 아이들의 공부를 보아주던 선생님.
오늘은 초급부 어린 학생들이 감사하는 마음을 안고 찾아왔습니다.
지금 저는 三〇여년지기 동료,동지인 최령희선생님과 같이 한 시간,장면들이 자꾸만 떠올라 도저히 하늘나라에 보내고싶지가 않습니다.
슬픔과 억울함을 억누를수 없습니다.약속할수 있는것은 선생님을 대신하여 못다한 학생교수교양사업을 우리 교원들이 앞으로도 힘을 합쳐 잘해나가겠습니다.
부디 고이 잠드세요.언젠가는 다시 만날 날이 있겠지요.
要約
一生ウリハッキョの教員を務めたいというのが、チェ・リョンヒ先生の願いでした。
中学、高校時代に夢見たウリハッキョの先生になるため、朝鮮大学校で学び、岐阜朝鮮初中級学校に赴任したのは一九八五年でした。
結婚前は、学校の寮に住み込み、日々の食時のため、ツケで買い物もしました。
二〇〇〇年代に入り給与も満足に支払われない状況でも、教員を辞めるつもりはみじんもないチェ先生でした。
体格がよく力持ちの先生でしたが、注射針が苦手で健康診断時にはいつも失神しそうでした。
それなのに大変な病気にかかり、毎日のように点滴を受けたり、採血をされたり、どんなに怖かったでしょうか。
なんといっても大好きなウリハッキョの先生を途中半ばでやめざるを得なかったことが、どんなに無念だったでしょうか。ほんとにがんばりました。
今はただ安らかに眠ってほしいばかりです。51
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