ソウルで「在日」、朝鮮学校を語る:在日三世の聖公会大チョ・ギョンヒ教授
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ユ・ソヒ 「ソウル大ジャーナル」記者
「ソウル大ジャーナル」(149号2018・6・5)からの転載。
原題は「남한사람도 북한사람도 아닌、 우리는 재일조선인(私たちが会った人・韓国人でも北朝鮮の人でもない、私たちは在日朝鮮人)―在日朝鮮人三世 聖公会大チョ・ギョンヒ教授に会う」。中見出しは原文のまま、訳とタイトルは編集部による。
在日朝鮮人は私たちになじみのない存在だ。その呼び方に違和感があるせいか、在日朝鮮人は歴史的な説明よりチュ・ソンフン、チョン・デセ、サオリなど有名人を通じて説明されることが多い。しかしこの呼び方の後には一〇〇年を越える歴史を持つ在日朝鮮人アイデンティティが存在する。 聖公会大のヨルリンキョヤンデ(開かれた教養大)のチョ・ギョンヒ教授を通じて在日朝鮮人の過去と現在について聞いた。
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もくじ
国籍のない「無国籍同胞」、朝鮮籍の在日朝鮮人
チョ・ギョンヒ教授は学生たちから「授業で在日朝鮮人という用語に違和感を感じる」という抗議をたびたび受ける。しかしチョ教授はこのような「違和感」が重要だと強調した。「違和感をどのように受け入れて前に進むのかを悩むことが、在日朝鮮人問題解決の出発点」だからだ。
根が深い分断体制の影響で、韓国社会では、在日朝鮮人は朝鮮族あるいは親北朝鮮的な人だという誤解がありふれている。 在日朝鮮人を示す多様な用語は、それぞれ違った意味を持つので使用に留意しなければならない。韓国社会では「在日僑胞」という用語がよく使われる。在日僑胞はパク・チョンヒ政権の頃に頻繁に使われたが、僑胞は「定着できなくてしばらく留まる人」という意味が強調された用語だ。以後民族主義的観念を含む「在日同胞」という言葉が登場した。日本で自他共に在日朝鮮人という用語が使われてきたのを反映して在日朝鮮人を主な学術用語として採択している。在日朝鮮人は「日帝強制占領期に日本に渡っていった人」を示す言葉で、朝鮮籍者だけでなく韓国籍、日本籍のすべてを含む。
植民地期には在日朝鮮人全員が日本国籍者だったので、在日朝鮮人という用語も存在しなかった。暮らすために生活の基盤を作った後、解放後も朝鮮半島に戻れなかった朝鮮人を「残留朝鮮人」と呼んでいたが、日本社会で「在日」、「在日朝鮮人」と呼ばれるようになり「在日朝鮮人」という用語が定着した。これらは日本政府の行政上の便宜のために‘朝鮮籍’で分類された。
一九六五年に韓日協定が締結され、日本政府は在日朝鮮人を「韓国籍」として正式に承認するようになったものの、相当数の在日朝鮮人は朝鮮籍を維持した。チョ・ギョンヒ教授はその理由を二つあげた。
まず在日朝鮮人は、日本社会で最下層の生活をしていたので国籍に大きい意味を感じていなかった。在日朝鮮人には、職業選択の自由がなかっただけでなく、これらを保護する社会的装置も皆無だった。また、在日朝鮮人のうち相当数が北朝鮮を近く感じたていたことも、彼らが朝鮮籍を維持した理由だ。分断後の在日朝鮮人社会には、韓国より北朝鮮政府が大きな関心を示し、北側に家族がいる在日朝鮮人も多かった。一九五九年から八三年まで北朝鮮が推進した送還事業で九万人を越える在日朝鮮人が北に移動したためだ。チョ・ギョンヒ教授は「北側に家族のいない人が珍しいほどだった」として当時の状況を説明した。 日本法務省によれば相変らず三万人程度の在日朝鮮人が現在朝鮮籍を維持している。
朝鮮学校、在日朝鮮人アイデンティティ維持の原動力
朝鮮籍の在日朝鮮人だったチョ・ギョンヒ教授は、日本の幼稚園に通った頃から、自身が日本人の友達とは違うと感じていた。同級生の日本の友達と名前が違ったためだ。チョ教授は姉や兄に続いて朝鮮学校に進学したが、在日朝鮮人の朝鮮学校進学率は高くなかった。一九七〇年代初期、朝鮮学校学生数は五万人に至らなかった。日本政府が朝鮮学校を公式の学校と認めず、支援金で差別するなど弾圧を加えたためだ。
在日朝鮮人に対する韓国政府の無関心の中で、朝鮮学校は北朝鮮政府の関心と干渉を受け入れた。教室に金日成主席の肖像画がかかっていたし、教育過程にも思想教育が含まれた。しかし北朝鮮と朝鮮学校の関係を北朝鮮の一方的な支援と見るのは難しい。職業選択の自由を保証されなかった在日朝鮮人は、主にパチンコやヤキニク等の商売で生計を立ててきた。北朝鮮政府の政治的、経済的状況が厳しくなると、商売で成功した在日朝鮮人が在日朝鮮人総連合会(総連)に寄付した金を北朝鮮に渡し、総連で運営する朝鮮学校に北朝鮮が支援金を与える形で資金は回り回った。
朝鮮学校は日本社会の弾圧と韓国、北朝鮮社会からの疎外の中でも在日朝鮮人のアイデンティティを維持するための原動力だった。しかし朝鮮学校に対する韓国人の視線は厳しかった。朝鮮学校生活を描いたドキュメンタリー映画『ウリハッキョ』を観る韓国人の視線は、在日朝鮮人に無関心な韓国社会の雰囲気を反映していた。チョ教授は「映画『ウリハッキョ』に対する韓国の人々の反応の多くが、純粋で優しい生徒たちが北朝鮮の教育を受けて残念だというものだった」と指摘、「韓国政府や社会が、長い間在日朝鮮人を放置してきたことについても知るべきだ」と強調した。
在日朝鮮人に対する日本社会の無知もチョ教授に挫折感を感じさせた。
日本を生活の拠点とし、日本の文化的感覚になじんだチョ教授とは違い、日本人にとってチョ教授は異邦人だった。日本の大学で「チョ・ギョンヒ」と自己紹介すると、誰もが彼女を在日朝鮮人ではなく留学生だと思った。日本人たちが在日朝鮮人の存在さえ知らないという事実は大きな衝撃だった。日本社会に対する失望で、チョ教授は「順応」の道を選んだ。在日朝鮮人の存在を積極的に知らせて説明するより、日本の感覚に合わせて生きていくことを選択したのだ。
彼女は「在日朝鮮人のアイデンティティをいちいち説明することが面倒なこともあったが、何よりアイデンティティにともなう長い間の傷と日本社会に対する不信が深かった」とその理由を説明した。
「ヘイトスピーチ(hate speech)」、在日朝鮮人に向かった嫌韓の波
今、日本社会はチョ教授が大学に通った頃より在日朝鮮人に対する拒否感が大きくなっている。在日朝鮮人に対する否定的情緒が東北アジア情勢と絡まって嫌韓情緒が爆発したためだ。チョ教授は大学在学時代を「脱冷戦以後の開放的雰囲気で多文化主義が議論され始め、国籍の抑圧から自由な在日朝鮮人三世が登場した、それなりに良かった時期」と回顧した。在日朝鮮人に向けられた嫌悪感は九〇年代後半の日本の右傾化、二〇〇〇年代中盤の嫌韓流へとつながり今日「ヘイトスピーチ」となって表出されている。ヘイトスピーチという用語が二〇一三年に日本で流行語大賞候補に上がるほど嫌悪感は深刻な状況だ。
嫌韓感は在日朝鮮人に対する差別から出発した。以前から在日朝鮮人に対する差別と嫌悪感は蔓延していたが、極端な差別と嫌悪が沸騰したのは、二〇〇二年に北朝鮮政府が、一九七〇年代に日本人を拉致した事実を認めてからだ。二〇〇二年韓日ワールドカップ開催問題と韓日戦で民族的な情緒が高まって、二〇〇五年に独島領有権問題が取り上げられて、在日朝鮮人と韓国、北朝鮮に対する攻勢がさらに強まった。
チョ教授は、ヘイトスピーチで表出される嫌韓感は、これまでの在日朝鮮人に対する弾圧とは区分されると指摘した。過去の差別は「キムチの臭い、ニンニク臭い」「日本から出て行け」などの発言だったが、今は中学生が道路で拡声器を持って「韓国人女性を強姦しよう」と叫ぶまでにエスカレートしている。
チョ教授は「公開的な嫌悪感が社会的に許されるのは、既存の民族差別の水準をはるかに越えた深刻な問題」と指摘した。 在日朝鮮人に対する嫌悪表現を規制しようとする試みは着実に続いた。 二〇一四年日本最高裁判所が極右・嫌韓団体である「在特会(在日特権を許さない市民の会)」のヘイトスピーチを民族差別と認めて損害賠償を命じたのを始め、今年四月には侮辱罪より強力な名誉毀損疑惑で嫌悪表現が起訴された。 二〇一六年には「ヘイトスピーチ防止法」が制定されて、ヘイトスピーチを反対する日本市民の集会が開かれるなど、嫌悪表現を規制して自浄しようとする努力は続いているが、相変らずヘイトスピーチは在日朝鮮人の人生を威嚇している。
韓国に第一歩を踏み出して、韓国籍を取得するまで
チョ・ギョンヒ教授は二〇代だった九〇年代まで韓国についてほとんど何も知らなかった。当時は韓流もなかったし、韓国に対する認知度が低くて情報に接しにくかったためだ。在日朝鮮人の韓国訪問が始まったのは、二〇〇〇年6・15南北共同宣言以後の南北の和解気流の中だった。金大中、盧武鉉政権時は朝鮮籍の在日朝鮮人の韓国訪問がある程度許された。韓国を訪問して帰ってきた在日朝鮮人の知人たちから「韓国訪問がとても感動的だった」という話を聞いたのが、チョ教授が韓国行きを決心したきっかけだった。
初めは旅行で、二回目はソウル大の学生交流事業で韓国を訪問し、その後韓国留学の道を選んだ。ソウル大の交流事業で来たときは韓国人の友達は一人もいなかったが、二〇〇二年ワールドカップの熱気の中で一つになった経験で韓国に魅了された。留学のための三回目訪問は、彼女の人生を完全に変えた。「地球村同胞連帯」というNGO活動を通じて在外同胞の友達ができて、今の夫にも会った。留学を準備する過程は、容易ではなかった。当時東京の領事館は、韓国を訪問しようとする在日朝鮮人に長期旅行ビザを簡単に出さなかった。普通は一ヶ月旅行証明書、長くても三か月がいい方だった。しかしチョ教授は、手を尽くして異例の八カ月旅行証明書を受け取り、韓国で留学生活を始めた。この時の経験で韓国に定着するという心を育てていった。
二〇〇三年に日本に戻った後もチョ教授は、再び韓国に行きたかったが、三回以上韓国訪問を許してくれない領事館の慣習のせいで簡単ではなかった。韓国の人と結婚して韓国籍を取得した後に、ようやく韓国を生活基盤にすることができた。
思想検証式入国手続き、韓国に対する拒否感だけ育てて
二〇一八年になって韓国社会は在日朝鮮人に寛容になったように見えた。 総連系在日朝鮮人応援団が2018平昌(ピョンチャン)冬季オリンピックを契機に韓国に円滑に入国したためだ。これは李明博政府から朴槿恵政府まで続いた弾圧的雰囲気がやわらいだおかげだ。しかし在日朝鮮人の入国が許されるといってこれらに対する暴力的残滓が一掃されたのではない。 チョ教授は「韓国社会に相変らず転向政策(既存の思想や理念をそれと相反する思想や理念に転向させる政策)が残っていて国家保安法が適用される」として韓国のアイデンティティを強要する思想検証式政策に対する拒否感を明らかにした。
韓国と北朝鮮の国籍法は在日朝鮮人を含むすべての在外同胞を国民と認定するが、これらの運用方式には差がある。 北朝鮮政府は在日朝鮮人が日本国籍を取得しない以上彼らを「海外公民」と見なす。反面韓国政府は旅券発給を通じて強力な思想検証手順を踏む。日本の外国人登録証の国籍を、朝鮮でない韓国に変更してはじめて旅券を発給するという条件がその例だ。朝鮮籍に残る人にはパスポートの代わりに旅行証明書を発行する。保守政権では在日朝鮮人を韓国籍に変えさせるために暗黙的圧力を加えることもした。この過程で在日朝鮮人は、韓国籍取得に対する反感を持つようになる。チョ教授は「自身の人生と歴史を否定して侮辱することに対抗することが、朝鮮籍を守る理由になったりもする」と説明した。
チョ教授は「韓国人より在日朝鮮人が朝鮮半島平和に対する熱望が大きい」と強調した。故国を離れて他の土地で自分たちの規範と慣習を維持して生きていく民族集団であるディアスポラゆえに民族的熱望が強いだけでなく、在日朝鮮人は分断の悲劇を経験したために統一国家を絶対善と考えるためだ。最近の朝鮮半島の平和気流に、在日朝鮮人が歓呼する理由だ。在日朝鮮人は東京、新宿、大阪など日本の大都市を中心に首脳会談生中継を共に視聴した。チョ教授は平昌オリンピック以後の南北和解の動きに対して「韓国社会が統一を望ましく受け入れているようで安心する」として笑ってみせた。 その間統一に対する韓国社会の関心は低かったし「赤」に対する拒否感が大きかったことと対比される平和気流に、在日朝鮮人社会は希望を膨らませた。
「過去に対する真相究明が在日朝鮮人問題解決の出発点」
在日朝鮮人は、韓国社会で長らく歴史的関心の対象から抜けていた。在日朝鮮人を反共主義と独裁政権の犠牲にした八〇年代まで、公論化は不可能だった。彼らはスパイもしくは商売で成功して韓国人より良い暮らしをする利己的な人たちと、誤解を受けたりもした。一方、民族教育のチャンスに出会えなかった在日朝鮮人二世は、韓国語をうまく話せなくて「チョッパリ(日本人を指す蔑称)」と呼ばれることもあった。在日朝鮮人に関心が行くようになったのは、国際社会が脱冷戦を迎え、韓国が民主化と経済成長を成し遂げた九〇年代からだ。
チョ・ギョンヒ教授は韓国社会内部の問題も、在外同胞の問題も、「解決の出発点は過去に対する真相究明」であり「在外同胞の見解で韓国の近現代史を改めて書き直すことが必要だ」と強調した。韓国の教科書は在日朝鮮人の歴史を教えない。私たちが韓国史だと考える歴史は、時代を経験したすべての人の観点を表わすことができない。なぜ私たちが彼らの存在を認識できなかったかを悩み、過去を反省する過程で、在日朝鮮人問題が理解できるというのがチョ教授の考えだ。51
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