在日朝鮮人が体験を記した作品で同胞社会への理解を手助けしたい
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インタビューを終えて
金淑子
八月の第二週、日本に滞在中の鄭美英さんのホテルの部屋に訪ねていって話を聞いた。忙しい日程をこなしてようやく一息ついた夜八時過ぎ、疲れているはずなのに、笑顔で心良く迎えてくれた。低めの少しハスキーな声、わかり安く、ゆっくりと丁寧な語り口、正確な文章。テープ起こしが、ラジオを聞いているように心地良かった。
美英さんが在日朝鮮人と出会うきっかけになった小説『ぼくらの旗』は、本誌を出している一粒出版が二〇〇五年に出版した本だ。出版はせいぜい数百冊。その一冊が海を渡って三〇代前半の女性の人生を左右することになるなど、想像したこともなかった。数年前に韓国で翻訳して出版しようという動きがあるらしいと聞いた。翻訳本も届いたが、どこかの団体がやっているのだろうと、見過ごしていた。その裏で、一人の女性が在日朝鮮人コミュニティーを理解しようと韓国と日本を、パスポートが埋まるほど往復していたなどとは思いもしなかった。
『ぼくらの旗』は、五〇年前後、現在の東京朝鮮中高級学校が都立学校として運営されていた頃の生徒たちの世界を描いた作品で、朝鮮学校を卒業した私にとっても知らないことばかりで、おもしろい作品だ。金日宇がぜひ本にしたいと作者の朴基碩さんに頼み込んだのもわかる。朝鮮学校が初めてだった美英さんには、なおさらだったのだろう。「『こんなこと本当にあったのだろうか? なぜ私たちは何も知らないのだろうか?』、読み進むうちにそんな疑問がどんどん大きくなって、本当なのか確認してみたいと思」ったという。
美英さんの話を聞きながら印象深かったのは「ぶれない当事者意識」とでもいうのだろうか、韓国人としての強い自覚だ。
「朝鮮が解放されて一つの国を作らなくてはいけなかったのに、南で先に国を樹立したことが在日朝鮮人社会に分断の不幸をもたらした。さらに一九六五年には韓日協定が締結されて…。」にもかかわらず何も知らずに過ごしていたことが「申し訳ない」のだと言う。モンダンヨンピルのクォン・ヘヒョ代表もいつも「私たちが来るのが遅くなって申し訳ない」と話す。とはいえ彼らも分断のもと、軍事政権の横暴に苦しんできたことを、厳しい闘いがあったことを、私たちは知っている。
一方、日本社会では、先の戦争で植民地とされ辛酸をなめさせられた在日朝鮮人の歴史は棚に上げ、日本人庶民の被害ばかりを強調する。当時の朝鮮人への弾圧を訴えると、「私たちも苦しかったのよ」となだめる日本人がいる。戦争で苦しんだのは皆同じと言わんばかりに。そんな社会で育ってきたせいだろうか、南の人たちの「申し訳ない」という言葉をどう受け入れればいいのか、私はいつも戸惑う。彼らの自分たちの歴史に対する態度には逃げがない。常に「当事者」なのだ。
出版社をスタートさせた美英さんは、四〇歳代中頃。一般的には職場である程度キャリアを積み、家庭では子どもたちに手がかからなくなる頃だ。男性社会のシステムに織り込まれていない多くの女性たちにとってこの年頃は、一度立ち止まって自分の生き方を確認する時期なのかも知れない。そんな時期に美英さんは、在日朝鮮人の作品で在日朝鮮人への理解を広める道を選んだ。同じ出版に携わるものとして、そして女性として、同志愛にも似た連帯を込めて、熱いエールを送りたい。南北関係が大きく前進し、朝鮮学校卒業生が朝鮮半島の南北と日本を闊歩しながら、三者の潤滑油のような役割を果たす日を夢見ながら。51
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