在日朝鮮人が体験を記した作品で同胞社会への理解を手助けしたい
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「出版社を作って、この本を出します」
金一年六か月をかけて上中下の三巻を訳したのですか?
鄭はい、訳している最中に、ある出版社から翻訳ができたら見せてほしいと言われて、製本した後、見せました。すると、ぜひ出版したいと言われました。二〇一三年末のことです。ところが出版社の事情で棚上げになり一年ほどそのままになっていました。その後もいろいろな出版社に製本した『ぼくらの旗』を送って、出版を打診しました。「韓国で知られていない事実で、面白い」と関心を示す出版社もあったのですが、上中下の三巻という分量の多さがネックになりました。
この間に私は、『四一年目の手紙』『アンニョン、おじさん』という朴先生の他の作品を訳していました。「四一年目の手紙」は、『ぼくらの旗』で朝鮮に帰国した登場人物たちのうちの一人が、四〇年ぶりに日本に来た時の話です。「アンニョン、おじさん」は、やはり「ぼくらの旗」の登場人物が家族連れで「マンギョンボン」号に乗って、六〇年代初めに帰国した従弟に会いに行く話です。
モンダンヨンピルに「チョバプとインジョルミ(チョイン)」という読書会があります。小沢有作の在日朝鮮人教育史に関する本や、朴慶植、尹健次の本、植民地時代に済州から大阪に渡った海女の物語で第一回済州四・三平和文学賞を受賞した「黒い砂」など、在日朝鮮人に関する本を手当たり次第に読んでいるのですが、小説が少ないので、私が翻訳した朴先生の作品も回し読みしました。それで作者に会ってみようということで朴先生に二回ほど来ていただいて講演会もしたのですが、昨年、読書会だけでなくモンダンヨンピルの会員たちを対象に、朴先生を呼んで草創期の朝鮮学校について話を聞くイベントを開くことになりました。イベントには会員や韓国留学中のウリハッキョ卒業生、フェイスブックで知って海外から訪ねてきた人など三〇人ほどが参加したのですが、それまでの講演会と雰囲気が違いました。これまでは本について話しましたが、この時は在日朝鮮人社会について知りたい人もいれば、朝鮮学校出身なのに知らない事実に驚く学生もいて、講演会もそのあとの打ち上げも大変盛り上がりました。
打ち上げが終わって、朴先生と二人で残って話をしていたのですが、この時「この本を私が出版しようと思います」と提案しました。早く出版したいという思いは以前からあったのですが、この時はやれる気がしたのです。李明博、朴槿恵政権下でこの本を出せば必ず問題になったはずです。でもキャンドルデモで政権が替わって、今なら出せると思いました。朴先生に「どうして出すんだね?」と聞かれて「私が出版社を作って出します」と答えました。それくらいこの時のイベントの雰囲気が良かったのです。先生は無謀だと言いながらも、「君が出すならいい」と承認してくれました。その時から出版社を作る手続きを始めました。住所と名前を申告して会社を作ると、これからはこれに集中できると思いました。それまで働いて貯めたお金で、自分がやりたいことができるという期待が膨らんで。
金怖くはなかったですか?
鄭もちろん怖かったです。毎晩寝る前に「本が売れなかったらどうしよう」「クレームがきたらどうしよう」と不安に襲われたり。でも始めた以上は、何とかなるという思いでした。いろいろ方法を考えて事を進めれば、応援してくれる人が必ずいるはず、だめならまた翻訳とか通訳で稼げばいいと。朴先生も「四十代は新しい挑戦ができる。でも五十代になるとなかなか難しい」という言葉で後押ししてくれました。その時、私は満四五歳でした。
最初に上中下の三巻を二巻に圧縮する作業を始めました。これが大変でした。
金それは大変だと思います。いっそ最初から書き直した方が楽なほど。
鄭本当に大変でした。また朴先生とのやり取りが始まりました。朴先生が一週間ほどソウルに滞在した時は、一日中缶詰になって作業しました。本を出すとなるとあとがきを書いてくれる方も必要で、金明俊監督やユン・ソンア先生に協力してもらいました。印刷や製本は業者に任せればいいのですが、本としての体裁を整えるまでが大変でした。
そうして本ができてきて、明日から販売だという時は、緊張しました。朴先生も寝られなかったはずです。韓国で本が出るなんて考えていなかったでしょうし、反響が気になったと思います。
本を送り出した後は、最初は心配しましたが、先輩たちの「本が勝手に歩き出すから、流れに任せなさい」という言葉を信じることにしました。今は、とりあえず第一弾が出版されたので、次の本を準備しなくてはと考えています。
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