日本人として朝鮮学校に向き合い 社会の閉塞感を変えていきたい
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インタビューを終えて
金淑子
七月末に、品川駅構内のレストランで話を聞いた。前日に催された東京朝鮮第九初級学校の夜会で忙しく働いている中、インタビューのお願いをした。ぶしつけな申し入れを心良く受けてくれた。インタビューには前日の夜会の片付けのあと、駆けつけてくれた。この日の東京の最高気温は三一・九度、午前中は日差しが照りつけていた。猛暑の中の片付けはさぞかし大変だったと思う。
夜会の前の週末は、少年団キャンプに参加し、子どもたちに「竹田先生」と慕われていたようだ。第九初級を支援する日本人を中心にした「サランの会」は、障害児支援で授業に付き添ったり、給食を準備したり、読み聞かせをしたり、スキー教室やキャンプに助っ人参加したり、長い間、活発な支援活動を繰り広げている。もはや第九学校の景色の一つとして溶け込み、子どもたちもすっかりなじんでいるようだ。
竹田さんはそんなサランの会の貴重な若手だ。本人もキャンプや夜会に京都からわざわざ駆けつける熱心さだ。京都でも京都朝鮮高級学校の「ミレゼミ」で講師をしているという。大学院生は日々、レポートに追われ、世で思われている以上に多忙だ。東京―京都の往復には費用もかかる。そんな中で彼を突き動かす原動力は何なのか、知りたかった。
NPOの活動の中で偶然、朝鮮を訪問し、一緒に行った朝鮮大学校生や朝鮮学校の児童生徒と親しくなったのが朝鮮学校に関わるきっかけだという。何度も訪ねるうちに平壌外国語大学の学生との交流も深まったのだろう。平壌からビデオレターが届くほどだ。その中で平壌外語大の学生が日本語で「お互い競争的にがんばりましょう」というようなことを話していた。こなされていない日本語がかえって胸にしみた。平壌と日本で競ってがんばる朝鮮人と日本人の二〇代がいるなどとは想像したこともなかった。うらやましかった。
東京第九のキャンプ(両手で手を振っているのが竹田さん)朝鮮と日本の関係は、常に政治情勢に大きく揺らいできた。苦しいときは「政治的局面さえ変われば」と、祈る気持ちになる事もある。しかし「風」には必ず吹き返しがある。一九九〇年代に多くの民族教育権を獲得したときは、このまま良い方向に行くものと思っていた。ところがその後の吹き返しは激しく長い。日本社会で在日朝鮮人の地位を確立するためには、気ままな風に頼るのではなく、周りの日本人と信頼関係を築くこと、これは九十年代の運動の教訓でもある。
竹田さんが在日朝鮮人学校の支援活動を通して在日朝鮮人に向き合い、保護者や子どもたちを通して心の交流を続けているように、私たちも一人の人間として周りの日本人にしっかりと向き合うことから始めていかなくてはいけないのだろう。「日本語がお上手ですね」といいう声かけに「日本で生まれ育ったんですよ」と答えることから始めてもいいのではないだろうか。最初は朝鮮の案内人にぶっきらぼうな言葉をかけて警戒していた竹田さんが、朝鮮大学校の学生との交流を機に、在日朝鮮人への理解を深めていったように。支援者とまではいかなくても「北朝鮮バッシング」をうのみにしない人、ヘイトスピーチはなくさなくてはと思う人が増えれば、私たちをめぐる環境はずいぶんよくなるのではないだろうか。南北関係や朝米関係の改善に期待するのはもちろんだが、こういう動きを追い風に、私たちは一人の人間として、周りの日本の人たちにもっとしっかり向き合わなくてはいけない。今だけではない、子どもや孫の世代に政治情勢に左右されない確固とした地位は、信頼関係によって支えられると思うから。51
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