日本人として朝鮮学校に向き合い 社会の閉塞感を変えていきたい
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「戻って来れるのかな?」
高麗航空のカメラに緊張
金京都の大学院に行く前は東京の大学に通っていらしたんですか?
竹以前は中央大学の総合政策学部に通っていて、パレスチナ・イスラエル問題とか中東・アフリカの紛争に関心を持っていました。なので一年、二年の時はアラビア語をやっていました。三年生の時にNGOでインターンをしようと思って、日本国際ボランティアセンターというパレスチナやアフガニスタンなどの紛争地で人道支援をしている団体があって、そこに入ったのですが、配属されたのは気仙沼事業と言って、東日本大震災の震災復興でした。週に二回その事務所に通っていたら、たまたまコリア事業というのがあって、小学生たちの絵画展で「ともだち展」というのがあるけど行くかと声をかけていただいて、二〇一四年に平壌に渡航、平壌外国語大学で日本語を学ぶ学生との交流事業に参加しました。
金突然の平壌訪問だったのですね。
竹行ったときは、戻って来れるのかなとも思ったのですが、「TBS」などが同行で取材に行っていて、テレビがいるから大丈夫かと思って行きました。この時は横浜と千葉のハッキョの六年生と、私と同学年と二年下の引率の朝鮮大学生と一緒に行きました。
最初の大きな衝撃は羽田空港での一コマでした。往路は千葉や横浜の初級学校の児童たちと引率の朝大生と一緒だったのですが、チェックイン時に、朝大生が持っていた「再入国許可証」なるものを初めて目の当たりにしました。大学に入学して以来、夏と春はどこか海外に渡航する生活を送っていた私にとって、それまで国籍を証明するものは「パスポート」だと思っていたし、出入国スタンプはスタンプラリーのような感覚でした。その「再入国許可証」の裏表紙に「この証明書は何ら国籍を証明するものではない」と書いてあるのを見た時、衝撃を受けました。日本で生まれ、日本で暮らしているにもかかわらず、なぜ日本に戻ってくるのに「許可」をもらわなければならないのか、非常に強い憤りのようなものを覚えました。自分がもし「パスポート」を持っていなかったとしたら、自分は何人なのか、いや、何者になってしまうのか、そんな問いが頭をめぐりました。これが、自らのアイデンティティーについて、そして「在日コリアン」と呼ばれる人々について考えるきっかけになりました。カウンターにいる航空会社のグランドスタッフが朝鮮のスリーレターPRKを知らないなど、「再入国許可書」を用いるとチェックインの時にも非常に煩雑になるということをその時に初めて知りました。
そして平壌に向かい、順安空港に降りました。今の平壌空港ではなく旧空港でした。荷物を持って税関を抜けるともう一人の引率役だった私と同級生の朝鮮大学校生が待っていました。その彼と後にとても仲良くなるのですが、彼ら二人との出会いが無かったとしたら、今のように在日朝鮮人のトピックには向き合っていなかっただろうし、大学院にも進学していなかったかもしれません。
平壌に着いた後は、どこか斜に構えていて、案内人の対外文化連絡協会(対文協)の職員の人に、僕は銃が怖いので皆が軍事訓練をしている国は怖いというような話をしたりしました。平壌に行く高麗航空の客室にカメラが付いていました。北京から乗ったときにそのカメラを見て、ここから見られているんだ、誰に見られているんだろうと、ひどく緊張していました。今は他の航空会社の飛行機にもついているのですが、当時はまだつけ始めの頃だと思います。平壌でもカメラを見つけては緊張していました。ところが日本に帰ってきたら日本の方がずっとカメラが多いことに気づきました。
金ひどく緊張したんですね。
竹最初はそうでしたね。ただすごく情に触れるというか。言葉もうまくできないのに、なぜかあの国に行くとすごく涙もろくなります。二度目に行ったときに、前年に会った子どもたちに会うことができて、対文協の職員に再会したときも号泣しました。一回目に別れる時はいつ会えるかもわからないから泣いて、二回目にまた会えたと泣いて。でも二回目の別れの時は、いつかはわからないけどまた会えるような気がして、寂しいですけど、一回目のような泣き方はしませんでした。
金一回目に行ったときに一番印象に残ったのは?
竹行った場所は鮮明に覚えているのですが、場所よりも夜に朝鮮大学校の学生と話したことが一番印象的でした。その時に一緒に行った子どもたちと仲良くなっていなかったとしたら、千葉のハッキョにも行かなかっただろうと思っています。平壌で子どもたちと夜の九時、一〇時に一緒に遊んでいて仲良くなりました。内二人は今年、千葉のハッキョから東京中高へ、もう一人は神奈川中高の高級部にそれぞれ進学しました。彼らとはいまだに連絡を取り合っています。先輩とも少し違う形で接してくれて。初級部の頃にあったので、敬語を使い始めようとした時期もあったのですが、それはやめようということになって、今も初級部の頃に会ったときのような感じで続いています。
平壌外大の学生と交流していろいろ刺激を受けましたが、それよりも同行した朝鮮大学校の学生たちとの交流でいろいろ考えました。夜に一緒に酒を飲みながら、どういう思いで平壌に来たのかとか、バッチをつけることをどう思っているのかとか、いろいろ疑問を投げかけました。当時私は、在日コリアンの歴史も、朝鮮学校の存在も何も知らなかったので。
帰ってきて一〇月に朝鮮大学校の文化祭に初めて行きました。平壌にいた八日間は見ていることが咀嚼(そしゃく)できずに、日本に帰ってきてようやく咀嚼しだした頃でした。
金初めて行った朝鮮大学校はどうでしたか?
竹日本でヘイトスピーチが盛んだった頃で、右翼の街宣が来るのではないかと言われていました。校舎を見ながら平壌っぽい建物だなと思いました。同学年の学生に、六〇年代に日本の建築家の設計で学生もいっしょになって建設した話なんかを聞きながら、そんな昔から建っていることに驚きを覚えました。その時は、その後何度も行くことになるとは思いもしていなかったのですが。
そのあと千葉のウリハッキョにも行きました。千葉のハッキョは平壌に一緒に行った児童が中級部に上がった後も機会があると訪ねていました。そうして交流を重ねながら、自分には何ができるのだろうと考えを巡らせていたのですが、そんな中で二〇一五年の初めに偶然、東京第一初中級学校で放課後に、日本の大学に通っている卒業生たちが中心になって「ウリゼミ」というのを運営していると聞いて、四月から週に一回、英語と数学の講師を担当させてもらうことになりました。ほかの講師たちは皆朝鮮高級学校卒業生で、日本人は私だけでした。
金なぜそこまでのめり込むことになったんですか?
竹二〇一四年に一緒に平壌に行った当時の朝鮮大学生たち、同学年の男子学生は、今は同胞企業で務めていて、二年下の女子学生は商工新聞の記者をやっていますが、彼らとの出会いがよかったのだと思います。
二〇一五年にも平壌を訪問して二度目の学生交流事業に参加しました。
今は京都に行ってしまったので、京都朝鮮中高級学校の「ミレゼミ」で日本の大学を目指す高三の生徒たちを対象に英語を教えています。無償化の協議会に行ったときに「ミレゼミ」のことを知りました。
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