平壌から「今」を伝える #第34信(2018.5.15〜)
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金圭蘭:第34信(2018・5・15/他)
整理者:筆者の金圭蘭[東京朝鮮第三初級学校18期・東京朝鮮中高級学校21期卒業生]は、編者・金日宇の妹である。朝鮮大学校の工学部機械科に在学中の1972年春に帰国した。
長年住み慣れたアパートの建て替えのため、仮住まいで長女夫婦と一緒に暮らしている。近く、新築のアパートへの転居するようだ。
原文は大方日本語で、一部単語は朝鮮語。書き手のニュアンスをそのまま伝えるため、誤字、脱字だけを直した。文中[ ]内と注釈は、整理者が付けくわえた。 (「記録する会」 キム・イルウ)
5月15日付
オッパ、元気ですか? 脚腰の痛みは? 急変する情勢の発展について行けません。ひきつづき前に進めばいいのですが…。
チハ[キュラニの二男]は、新しい家に引っ越しました。何日かしたら、子どもの一歳の誕生会をするようです。四月一〇日だったのですが、引っ越しやらで。
五月一一日には、オモニムの墓参に行ってきました。テソンサン[大成山]の金正恩元帥のオモニムです。
日よりも良く、空気もすみ…、最近は出歩くことしか考えていません。
五月二一日の建設節には、動力設計研究所の年労保証者たちの集まり、二五日の総連結成の日には東京朝高21期卒業生の集まりが予定されています。
オモニはどうしていますか? 九三歳。友達同士で、よく日本で暮らす父母の話になりますが、みんな長寿のようです。キム・キョンミのアボジは一二月には一〇〇歳を迎えるとか、オモニは九〇歳のようです。
いつまでも健在で、良い日を迎えることができればいいですね。
今日はこの辺で、朝大工学部の同窓会のこと、同封します。
二〇一八年五月一五日
キュラニ
朝大工学部帰国者の女子会
五月七日、朝大工学部から一九七二年に帰国した女子たちが集まりました。といっても、四人です。
パク・キョンボク―金属科三班
リ・スックヒィ―電気科三班
パク・チョンスク―電気科二班
キム・キュラン―機械科一班
チョン・ヤンエトンム(電気科二班)は、風邪のため来られませんでした。
帰国して四六年、集まったのは初めてです。
いろんな話、知らなかった話もいっぱい聞くことができました。
工学部二〇〇人中、女子は一〇人ぐらいでした。
四班の四年生―電気一人
三年生―金属四人、電気一人
二年生―金属一人、電気二人
一年生は私、一人でした。
部屋は二つ。
講義は、社会科目は理学部と歴史地理学部のトンムたちと、その他は工学部の三つの科が一緒でした。
製図は、機械科だけだったと思います。男子は高校で習いましたが、私は初めてでした。アボジが一級建築士だったので、家の二階に大きな図面を貼ってあるのを見ていましたが、製図器を手にすることはありませんでした。
一時間目は直線を細く、太く引いたり、円を描いたりして、二時間目からはすぐに図面、機械の付属品のようなボルトや歯車とかを…中々上手に書けませんでした。宿題も。夜教室に行って、書こうと思ったら、机の上に完成された図面に、私の名前が書かれていました。直径二ミリぐらいの丸をどうしようかと心配していたのですが、私が苦心する姿を見かねてやってくれたのでしょう。その時の嬉しさと言ったら…。きっと、上級生たちが自分たちもそうだったと、手助けしてくれたのでしょう。本当にうれしい思い出です。
夜の一〇時か、一一時になると、節電のためでしょう寮は消灯、図書館一階の大教室に行って勉強しました。少し仮眠をとって、大教室に行こうとするのですが、起きられません。同室の三年生の先輩たちは、クラスの男子の警備の時間を知って起こしてもらっていました。出口に一番近いベッドの下段のトンムの足に紐をつないで、それを引っ張ってもらいました。それでも起きられず、起こさなかったのかと、男子と争いごとになったことも…。起こしに行った証に、部屋の外に差し入れを置いて行くトンムもいました。工学部に入る女子が恐れられていたのでしょうか。
朝大に入って驚いたのは、コーヒーです。食堂から持ってきたお茶にコーヒーの粉をといで飲んでいました。寮での電気製品の使用が禁じられていた時代でした。
夜、牛乳を飲むのが少し贅沢な楽しみでした。じゃんけんで負けた人が買いに行きます。一年生の私はついて行くほかありません。自動販売機の前に来ると、「誰か来たら知らせて…」。先輩は自販機を何回か蹴ると、何本もの牛乳が出てきました。寮に戻ろうとすると、お金を入れたのに牛乳が出てこなくて困り顔の人が…寮に戻りながら、口止めされました。そんなことがあって、自販機の前を通るたびに笑いがこみ上げてきました。そして、お金を入れて出てこないのではないかと、牛乳を買えなくなりました。
私がこんなことを話したら、「朝大にいるとき、話してくれなくちゃ」って、大笑いです。
日曜の外出は大変でした。四か所か、五か所のサインをもらわなくてはなりませんでした。前日に室長のサインをもらっても、学部…最後は朝大委員会のサインが必要です。故意なのか? 朝大委員会の担当者が姿をくらましたりして…。
外出、文字通り「解放」の嬉しさです。
日曜に行事があったり、課題などがたまったりすると、外に出られません。でも、午後になると外に出たいものです。許可をとるのがめんどうなので、そんな時は、運動着に着替え、走って校門を出ます。ドリアンに行ってケーキを食べたり、近くの食堂に入ってカレーライスを食べたり…。オッパが「ここは朝大生がこないから」と、一緒に入った、阿佐ヶ谷か高円寺の喫茶店のコーヒー、とても美味しかった。
講義と言えば、歯車の原理? 理解できなかったことが、なぜか一番の思い出です。
そんなこんなで昔の話に花が咲き、三時間はあっという間でした。
工学部から来た女子は、みんな金策工業大学(現在の金策工業綜合大学)に編入し、私一人平壌建設建材大学(現在の平壌建築総合大学)に編入しました。
日本で苦手だった製図もへのかっぱ、それでも宿題は夜の一時、二時までかかりました。合宿(寄宿舎)でお昼と夜の弁当を持って、教室で宿題をすませ、二時の深夜バスで合宿に戻り、三~四時間寝て、弁当を二つ持って登校していました。
そして一九七六年に卒業、各自職場に配置され、私は平壌動力設計研究所、定年まで三〇年余り働きました。今は皆孫たちに追われる日々を送っています。
夕方になって解散、次はキョクボクトンムの家に集まろうと約束してバイバイ。
朝大の生活も楽しかった、そしてその後の四六年の生活も…。
6月9日付
オモニ、お元気ですか?
すっかり春を通り過ぎて暑い夏かな?
五月二〇日には、チハ[キュラニの二男]の長男ケスンの満一歳の誕生日。新しい住まい(ラクラン区域の九階、一〇〇平米位の広さです)にもなれて、ウンジュ[嫁]も出勤しています。
五月二一日には、私が勤めていた職場の年寄りの集まり、五月二五日の総連結成の日には、東京朝高21期卒業生の同窓会、そして六月一日の子どもの日は、娘のウナの二男のチュヨンの幼稚園の運動会、六日の少年団結成の日は長男のチュウォンのキム・ソンジュ小学校の運動会、あっちこっちに出歩いていました。ウナもテハ[キュラニの長男]も、チハも頑張って職場に通っています。五人の孫も元気一杯育っています。
チュウォニ―小学四年、一〇歳
チュヨンとケヨン[テハの長男]―幼稚園、五歳
ケソン[テハの二男]―託児所、四歳
ケスン―託児所、一歳
男ばかり五人、やんちゃ坊主ばっかりです。
オモニはチュウォニしか見ていませんね。今度来るときは新しいひ孫が四人も増えているのですよ。くれぐれもお体に注意してお元気で…。私たちのことは心配しないで、いつも楽しく過ごしてください。
二〇一八・六・九(この日は仲良しの故栄愛トンムの誕生日です)
キュラン
6月9日付
会いたい、イルウオッパ、スッチャ姉さん
お元気ですか? 文先輩が戻って行った後、便りがないのでペンをとりました。
日よりも良く、あちこち出歩いています。
たくさん書きましたが、写真の現像が間に合わず。一緒に送ります。
茨城のハッキョの折り紙のチョゴリも七〇〇余り作りました。一緒に送ります。
手紙待ちます。
キュラニ 50