「私たちの街の朝鮮学校」と呼ばれるように…
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趙星来・福岡朝鮮初級学校校長
編集部より・福岡朝鮮初級学校の趙星来校長は、昨年九月三日、「排外主義にNO! 福岡」が主催した、「私たちの街の朝鮮学校のことを知っていますか?」とのテーマで講演を行った。主催者の承諾を得て、その全容を掲載する。中見出しは編集部による。
もくじ
私たちの街
私は日本で生まれ育ち、今福岡市に住んでいますので、福岡市も私たちの町となります。もちろん父が生まれ育った韓国の全羅南道も私たちの街といえます。また、私が七回訪問した平壌、朝鮮の首都も私たちの街であり、また今朝鮮学校のある和白地域も私たちの街なのです。ですから私たちの街というタイトルがとても気に入っています。この基本にたって話を進めさせていただきたいと思っています。
北九州市生まれの在日二世
私は、名前は趙星来(チョウソンレ)と申します。星が来ると書きます。一九六九年、北九州市に生まれました。現在、妻と双子の娘と暮らしています。なぜ星が来ると名前をつけたかといいますと、私の父と母は、結婚したときに早く子どもが欲しい、ただ私は長男ですが、上二人を死産しまして、私が生まれるまで六年ほど月日が流れ、私が生まれたときに父と母が大変喜びました。ところが母は大変だったようです。私は、四九五〇グラムで超巨大児でありました。大きく生まれ小さく育ってしまいました。父が、私が生まれるまで大変苦労したということで、朝鮮のことわざに、「ハヌレ ピョル タギ」(空の星をつかむ)という言葉があります。それくらい大変だったということで、この子は星から来たという名前をつけました。「来」は、趙氏一族、先祖が使う漢字です。ですから韓国でも見かけると思います。先祖が同じなのです。在日もこの漢字を使っています。歳は四八歳です、福山雅治、鈴木京香と同じ年となります。
父は在日一世です。韓国で生まれ育ちました。父は四人兄弟の末っ子で、一番上の兄が一九歳離れていますが、その兄がまず生活苦で日本に渡ってきました。その兄を頼って、私の祖母と父と次男(父の兄)が一九四四年に日本に渡ってきました。私の一番上の伯父は、福岡で総連の活動家をしました。二番目の伯父は、朝鮮、ここでは北朝鮮といいません、に帰国しました。私の父には姉がいてその伯母は韓国にいます。父が朝鮮学校の、今私が勤めている和白の五代目の校長を務め、一八年前に他界しました。母は在日二世であります。母方の祖父は筑豊の炭鉱に強制連行で連れて来られ、大変辛い思いをしたそうです、私が幼いころに母方の祖母から聞かされました。母は、朝鮮学校に通わず、小学校、中学校、高等学校と日本の学校に通い、朝鮮語はあまりわかりません。なぜ父と母が結ばれたかというと、母の兄が朝鮮学校の教員をしていて、父と同僚で、妹を紹介したということで、私が生まれました。母は、今、城浜団地にいます。
朝鮮学校教員である父は、給料が遅配になることが多く、生活が苦しかったので、母は父を支えながら、私を育てながら浜松町で焼肉屋を経営していました。九大の近くです。この焼肉屋には九州場所のお相撲さんが来ていました。時津風部屋の豊山とかも、焼肉屋にきていました。私は、よく相撲取りに抱えられ、遊んでもらった記憶があります。ですから私は、相撲が大好きです。
弟が一人います。ひとつ下で、東京にある朝鮮大学の経営学部の准教授をしています。弟は私から見れば母にべったりで、小中学校のときは、私より学力も低く、頼りなく見えました。いつもめそめそ泣いていました。しかし、、高校、大学と勉強に力をいれ、英文のニュースペーパーなど読んでいましたが、朝鮮大学校を卒業したあと、法政大学大学院、修士課程、博士課程を出て、今、母校である朝鮮大学校で教員をしています。
小中高校時代は吹奏楽を
私は二八年目の教員生活になります。父が勤めていた福岡の朝鮮学校幼小中高を経て、小倉にある九州中高朝鮮学校を優秀な成績で卒業はしていませんが、小中高校時代は吹奏楽に励みました。朝鮮学校で吹奏楽というと、男がするものではないと、そういうなかで、なぜすることになったかというと、ひとつは私はピアノを習っていました。なぜかというと、母が、日本の小中高でコーラス部をしていて、どうしてもピアノを習わせたいということで、そのときのことを今でも覚えています。吉住先生、小金丸先生と大変すばらしい先生に音楽を教わりました。もうひとつは私が一〇歳のとき、当時平壌から学生少年芸術団が来て、福岡で公演しました。全国を回りました。今はまったくといっていいほど来ることができませんが、当時は頻繁に朝鮮から日本にいろんな人が来て、私どもと交流する機会がありました。その影響もあって吹奏楽をしました。
私が高校のとき一九八四年、吹奏楽のコンクールに出ました。高校の部ではなく、朝鮮学校は学校として認められないということで、一般の部でした。大人の部に高校生が出て大人と一緒に競うという特異なコンクールになりましたが、吹奏楽連盟が次の年一九八五年から全国の朝鮮学校は出場していいということにっしてくれたので、日本の学校と同じステージで演奏することになりました。スポーツの世界はその一〇年後になります。音楽の世界は結構早く朝鮮学校を認めていたのです。
新任から一四年間は中級部の教員をしておりました。大学を卒業して初級部に配置になったのですが、中学に教員が足りないということで、一年目はまったくといっていいほど、今考えれば赤面するくらい未熟な教員だったと思います。中級部の教員として中三の担任を九年教えて、今その当時の教え子が、本校の保護者ということで、私をいろんな形で支えてくれて心強いばかりです。二年間だけ九州中高で勤めて、二〇〇六年から現職です。
訪朝七回、延べ日数にしますと朝鮮に九か月ほど滞在しています。よくテレビなどで、私たちが行くと見せたい所しか見せないといわれますが、私はいろんなところを見せていただきました。見ることもできました。訪中二回というのは、朝鮮に行くときに、必ず中国を経由していきますので二回、北京で降りて北京市内を観光していきます。
訪米一回というのは、かっこつけて書きましたが、新婚旅行でサイパン、グァムに行きました。新婚旅行で行ったとき、サイパンはまだ朝鮮籍でもすぐ入れたのですが、グァムはなぜ行ったかというと何の意味もありません。春休みが短く四泊しかできないので近くに行こうということで、グァムを選びましたけれども、グァムに入国手続きするのに一か月ほどかかりました。サイパンからグァムに入るときに、スムーズに入国できませんでした。屈強なアメリカ人が三名ほど私と妻を取り囲んで、このような部屋につれていかれて、ぽつんと二人で一時間半ほど待たされました。なぜ待たされたのかわかりません。一時間ほどたって「どうぞ入りなさい」と。九三年というと、朝鮮の核問題が浮上したときだと思います。私をスパイだと思ったのかどうかわかりませんが、一時間半ほど入国できませんでした。でも、サイパンもグァムもいいところでした。
父と恩師の影響で教員に
私が朝鮮学校の教員を志した理由ですが、父の影響があります。父は朝鮮学校の社会科の教員、そして校長をしましたので、知らず知らず教員にあこがれをもっていたのかもしれません。母方の叔父も教員でありました。私の親戚には、教員が何人かいます。大学の教員、あるいはヨーロッパのノルウエーの大学の教授をした者もいて、教育というものが、すぐそばにあったような気がします。テレビ番組の影響もあります。水谷豊の「熱中時代」とか「3年B組金八先生」とか、熱血教師、今では死語かもしれませんがあこがれがありました。次に、習い事、母が教育熱心というか、習字、ピアノ、そろばん、町内会のソフトボール、相撲をしろということで、大変でした。ただ習字もそろばんもピアノもソフトボールも、すべて日本の方と一緒の場所だったので、私は人生振り返ると、日本の方とのつきあいが大変貴重な出会いだったなと本当に思っています。
朝鮮高級学校時代、大学校時代の恩師の影響もあります。進路指導で、「君は教員になりなさい」と背中を押してくれた先生もいらっしゃいます。私は、朝鮮大学校、当時新設された三年制師範科というところに入学しました。なぜ三年制かというと、朝鮮学校に男性教員があまりに少なかったのです。八〇年代、女性ばかりだったんです。早く男性教員をということで、これは朝鮮民主主義人民共和国の支援金で設立された学科です。私は食費まで無償で、大学で学ぶことができました。朝鮮大学校時代の恩師の影響というのは、大学三年の一〇月から二月まで朝鮮で語学研修をした時のことです。北の冬はとても寒いのですが、研修が終わってちょっとはめをはずして、平壌市内で、飲食店で大酒飲んでやりたい放題しました。平壌の街は雪景色でとてもきれいで、大騒ぎして、酔いが早くて吐いてしまいました。そのとき私の恩師が、大学生を怒らずに、私どもの吐いたきたないものを手ですくって、掃除をしてました。零下一〇度二〇度、手も凍るようななかで。そのときに恩師が、「君たちが祖国を汚してどうするんだ」と、「見ろ」と、夜の一〇時一一時だったと思うのですが、朝鮮の人々が、除雪車などありません、手作業で雪かきをしています。「それが君らには見えないのか、そんな町を汚すなんてどういうことだ」と、静かにしかっていました。それで、私どもは目を覚ましたのですが、そんな恩師でした。
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福岡県での朝鮮学校のあゆみと現況
大浜から馬出(金平)へ移転
本校は一九六〇年四月に大浜に創立されました。当時、児童数は二一三名、教員が一〇人、校長の年齢が三三歳、びっくりしました。ほとんどの教員が二〇代でした、教員がやはりきちっと養成されておらず、朝鮮語を教えられる教員は多くはなかったそうです。そういう時代でありました。
その後、千代の都市計画で変わっていきます。「朝鮮学校、移転しろ」ということで、馬出三丁目に移転し今も建物はありますが、福岡市のものです。
福岡市と朝鮮総連福岡支部と日本人の方たちが、在日朝鮮人の帰国を助けようということで、心から助けようとした人もいれば、朝鮮人がじゃまだということで、帰国協力会という団体ができました。この三者が合意のもとで今の馬出三丁目にある建物を五〇〇万円で借りて、そこで一九六二年から一九七四年まで、本校初級学校が運営されました。ただしあまりに狭くて、運動場もなくてこれじゃ十分に教育ができないと、朝鮮からの援助費と同胞たちの寄付で、現在[和白]の校舎が立てられました。そして、福岡県以外の佐賀、大分、熊本、長崎、鹿児島、宮崎、でも沖縄はいません、対馬から在日同胞の子どもたちが来て寄宿舎生活を送るようになり、小中一貫校として再出発しました。
一九七四年から三〇年続きました、二〇〇四年までです。
和白にある現校舎が建設されている模様です。祖国と同胞の寄付によって、五億五千万円で建てた校舎です。当時1974年 4月・九州朝鮮中高級学校の校区内中学生を移籍、大牟田朝鮮初級学校を統合移転としては最新の設備でしたが、もう四五、六年経ちましたので校舎の老朽化は甚だしいです。このときの話をすると、本校の校舎のセメントは当初日本のものを使っていましたが、セメントが足りなくなります、すると朝鮮からセメントが送られて来ることになり、途中で建設が中断しました。ですからセメントのひび割れがたくさんあります。朝鮮と日本の関係ではありません。このひび割れはやがて修復されると思っています。
■同校の学校紹介より
1945年 | 9月 | 福岡市内4箇所で国語(朝鮮語)教習所設立(大黒町、博多駅前等) |
---|---|---|
1947年 | 4月 | 国語教習所を統合、福岡朝連学校創立 |
1949年 | 10月 | 朝鮮人学校閉鎖命令、弾圧 |
1949年 | 12月 | 市内の日本の学校に民族学級設置(千代小、大浜小、千代中等) |
1960年 | 4月 | 福岡朝鮮初級学校創立 |
1962年 | 4月 | 本校舎を金平(現馬出3丁目)に移転 |
1963年 | 10月 | 附属幼稚園併設 |
1966年 | 2月 | 学校法人認可(県知事) |
1973年 | 4月 | 中級部併設、福岡朝鮮初中級学校に改名、本校舎を和白に移転 |
1974年 | 4月 | 九州朝鮮中高級学校の校区内中学生を移 |
独自のカリキュラム
独自の教科書カリキュラムに基づいて教育を進めております。一九七七年、八三年に教科書、カリキュラムを改変しました。以前は帰国が前提でありました。何故かと言うとほとんどの対象が在日二世でありましたから。ただし、時代が変わって三世四世が登場していきます。一九九三年、二〇〇三年、二〇一三年と一〇年に一度、教科書を編纂していきます。カリキュラムも変えていきます。これは永住が前提であります。国際化に対応しようと言う教育になっていきます。在日四世が通っています。
私は在日二・五世です。教員たちはほとんど三世四世です。来年から本校に五世が通います。「朝鮮学校に通わせない」と言う同胞の中で、昔の教科書のイメージを持ってらっしゃる方がいらっしゃるんですが、今、朝鮮学校が使っている教科書は、日本の学校、文部科学省が教科書を変えた一年後にそれらを参考にして変えています。特に日本の学校が使っている教科書、理科・数学・英語はそれを大いに参考にしているところです。
アイデンティティの確立が主眼
教育目的ですがちょっと難しくなりますけれども、朝鮮人としてのアイデンティティ、正しい歴史認識、現代的な科学技術知識を身に付けさせる、そして健全な心身を育成すると言うことを目的としております。主体性、民族性、科学性、国際性、現実性を重要視しております。これが授業数です。小学校の社会ですが、以前に朝鮮学校に通っている同胞の中で「まだ金日成主席の幼少期のことを教えているだろう」と言う人がいますけれども、全くそうではなくて、六年生は日本の政治経済、選挙のことも教えます。政党のことも教えています。六年生の三学期のみ在日朝鮮人の歴史を教えます。日本の学校では六年生で日本史を教えていると思うんですが、朝鮮学校では五年生の一学期に北と南の朝鮮半島のことを教えます。大韓民国と教えています。
四年生では日本の地理、都道府県や山脈、川など日本の地理について教えています。日本の農業、工業、産業のことを教えています。三年生は日本の教科書とほとんど変わりません。地域を知ろうとか、いろんな職業の方と触れ合うとか、そういった内容になっています。
そして国語、朝鮮語の比重が多くとられています。 日本語の授業はもうちょっと増やしたい、週四時間ではちょっと少ない、もうちょっと増やせたらと思うんですけれども、やはり国語がありますのでどうしても日本語の授業を十分に取れないと言うところがあります。
次に英語、五年生と六年生で正科になっております。情報とありますがパソコンを三年生から週一時間正科としております。
安心して送れる学校を目指す
「すべては子ども達の幸せと成長のために」というスローガンを掲げております。「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」「ワンフォーオール、オールフォーワンの精神」のもとに、知徳体を兼ね備えた人材、バランス教育です。 目指す学校像ですが、子どもたちが通うのが楽しいと思う学校、これが一番だと思っております。 二番目は保護者が安心して送れる学校。この安心に、ふたつ意味があります。校舎が老朽化しております。耐震性とか非常に危ない状況であります。これは安心できる学校ではないと思っております。早く校舎をどうにかしないといけないと思っております。そのための努力を傾けております。
もう一つ安心して送れる学校。いわゆる「北朝鮮」バッシングの報道が流れるたびに、われわれは緊張を強いられます。ずっと集団登下校、そして教員が付いております。保護者にとっては気の休まらない日々が続いております。
次に卒業生が誇れる学校、そして地域の近隣住民から愛され、支持される学校。本校の一番近くにある和白の住民、あるいは美和台の住民から支持され愛される学校にならなくてはならないと思っております。
朝鮮半島に最も近い学校
本校は日本最南端、最西端にある朝鮮学校であります。ということは九州には福岡県にしかなく、地理的には朝鮮半島に最も近い朝鮮学校になります。 規模こそ小さい学校ですけれども、本校は面白いと思っております。なぜ面白いのか、本校はまず国際都市福岡市にあるということ、福岡市の姉妹都市である釜山に近いということ。やがていい時代が来れば、平壌までは、東京よりも近いです。北に行くと平壌、ソウル、東京よりも近い。西を見渡しますと、上海が近い。東を見渡しますと大阪、東京が近い。そして南に目を向けますと沖縄が近い。そう考えますと福岡にある小さな朝鮮学校は、今後ますます面白くなると、そう捉えております。
福岡市とその周辺の地域に在住する在日コリアンの数、福岡市の統計を見ています。朝鮮籍韓国籍のコリアンが五〇〇〇~六〇〇〇人といわれています。わが校は同胞の子どもを受け入れる幼小校併設校です。九州では朝鮮学校があるのは福岡県のみです。全国四七都道府県の中で、二八都道府県に朝鮮学校があります。福岡県には四校です。 北九州市八幡西区に九州朝鮮中高級学校。小倉北区に小倉幼稚園、飯塚市に筑豊朝鮮学校がありましたが二〇〇五年に休校になっております。
九州の民族教育の発祥は筑豊です。筑豊には田川、飯塚に朝鮮学校がありました。悲しいかなこれは時代の流れあるいは日本の政治経済の影響もあるかと思いますが、維持運営が大変厳しくなり、休校となりました。そこに通っていた筑豊からの子どもが今、北九州に通っております。
一〇〇人規模の学校でなくては
本校の児童園児の数は五四人です。福岡市の統計三歳児から一二歳児まで在日韓国朝鮮籍の子どもは二四〇人ぐらいです。約二割が朝鮮学校に通っている。ほんとにマイノリティーの超マイノリティーの学校だと思っております。教職員数ですが、教員一〇人、講師四人、事務員一人となっております。平均年齢は三四歳。日本の公立の小学校の先生の平均おそらく四三から四だと思いますが、一〇歳ほど若い顔ぶれです。もちろん教員は経験を積んだほうがいいと思っておりますが、三四歳もだいぶ上がってきました。ちょうど保護者と同じ位の年齢になっておりますので、保護者とのコミュニケーション、意思の疎通は、はかりやすいなとは思っております。
本校の子どもたちはほとんどが東区に在住しております。一番多いのが和白です。二番目がこの千早近辺、その他新宮町、津屋崎、志免、大野城、早良区、博多区。エリアが広がりました。以前は在日コリアンと言うのは密集して住んでいましたけれども、だんだんだんだん広域になってきましたので、登下校が大変になってきております。低学年や園児の登下校は乗用車、すべて教員が送迎しております。運転手を雇いたいですが財政上厳しいものがあります。ですから教員が送り迎えをして授業もしています。高学年は西鉄を利用しています。たまに会ったら声かけてください。安全で楽しい登下校が第一だと思っております。電車内で電車内のマナーが悪くて指導はしてますが、日本の方が声かけしてくれて子どもたちと楽しい話なんかしてると言う話も聞きます。よろしくお願いいたします。
児童園児数五四人ですがこの一〇数年は横ばいです。全国の朝鮮学校学生数、激減しています。現実です。一〇数年前と比べると半数を切ってると思います。私はこの現実を直視しています。その原因はここでは述べません。外的な要因、内的な要因あるかと思います。しかし福岡の本校は横ばいです。これは何故かと言うと、福岡市と言う政令指定都市で人口が伸びているという事情があると思います。福岡市に移住してきている在日コリアンもいると言うことなんです。ただ政令指定都市の規模、在日コリアンの数からしますと、本校も五四人では少ない。一〇〇人ぐらいの規模の学校でなくてはならないと思っております。
市からの教育補助金打ち切り
二〇一〇年に福岡市からの教育補助金は打ち切られました。それまで年間一九〇万円、支給されていましたが、教材教具に限り補助金を出すと言うことになりました。本校ではタブレットを購入しました。計画書も出しました。計画書も受理されました。しかし実績になりますといきなり「認められない」と。なぜかというとびっくりしました。教育委員会のとある課長が私に向かって「日本学校より先んじる事はならない。朝鮮学校が先にタブレットを使って教育をすると、市民からいろんな苦情が出る。だから朝鮮学校が先んじることはいけないのでこれは認めません」と言われました。ですから自前でやっています。
本校の学校後援団体ですが、「教育理事会」というのがあります。財政、施設設備の管理を担当しています。アボジ会、オモニ会があります。PTAと言うのはありません。分かれています。決して仲が悪いと言うことではないです。教員との連携を密に計ってやっております。本校にとっては、売りですね。アボジ会、オモニ会、教員、三位一体というか。連合同窓会、卒業生による学校支援を行っています。日本の方の朝鮮学校を支援する会がありますが、民族教育の権利擁護、朝鮮学校の広報に協力をいただいております。
学校の財政です。そのまま申し上げます。朝鮮からの援助費は、年間本校の収入の三パーセントです。いくらかとは申しませんが一九五七年より一六三回にわたって約四八〇億円が日本に送られてきています。日本政府はこれも制裁対象にしようとしていますが。本校が四八〇億円もらったわけではないんですね。全国の学校に振り分けられると言うことです。今も続いております。保護者の出す学費が収入の一八パーセント。公立の小学校と私立の小学校の間ぐらいだと思ってください。日本の公立の小学校は、一人当たり福岡県から年間約八〇万円、助成がなされます。私立小学校だと二〇数万円だと思います。本校の小学生には一人あたり数千円です。ですから保護者の負担、学園本部からの補助金が二九パーセントなんですが、これが何かといいますと、同胞やいろんな団体から寄付を募っています。本校は同胞卒業生から寄付を募っています。その他行事の収入これが四五パーセントです。年間数万円、数十万円、百万円寄付される方がいます。その方たちが裕福かと言うとけっしてそうではありません。皆さん「在日の方、裕福ですね」といいますけれども朝鮮学校に通わせている関係者は裕福ではありません。しかし学校のためならそれを優先すると言う方は、まだ多くいらっしゃいます。しかしこれに甘んじてはいけない。この負担をどうにかしてあげたいと思っております。
学校の運動場を貸し出ししています。日本のサッカークラブチームや近隣の皆さんが本校のたいしたことない、草がいっぱい生えている運動場、あるいは老朽化した体育館を使っています。安価で貸し出しをしています。
補助金、福岡県から年間約一四〇万円です。この一四〇万円は県内四校に分けられています。県内四校ですから一校あたりいくらかっていうのは察しがつくかと思います。全国の朝鮮学校は二八都道府県にありますが、朝鮮学校に補助金を出している都道府県は今一四と聞いています。二〇一六年、文科省が見直しを通告して六校への補助金が打ち切られ、減りました。今年二校が復活しました。で一四です。福岡県でも最近、小川知事が補助金を出すと明言されましたが、これもどうなるかわかりません。私どもは心配しております。かといってお金が欲しいから、これが先ではありません。これがなくても朝鮮学校は守り続けます。お金が欲しいと言っているわけではありません。朝鮮学校をきちんと認めてください。どう見ているかの問題です。
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朝鮮学校が日本社会を豊かにするのでは
差別と嫌がらせが日常化
今も朝鮮学校が受けている差別ですが、一言で言いますと法的地位が実態に合わないということです。「各種学校だから」という言い訳が常にきます。福岡市に言いますと北九州市が先に補助金を出したので、「北九州市に言ってください」、北九州市に言いますと「県に言ってください」、県に言いますと「国に言ってください」。「朝鮮学校は国が認めていないから」と言う、県市ともにに「習うしかありません」と言う答えが返ってきます。朝鮮学校だけが高校無償化から除外されています。補助金の廃止も同様です。ダークなイメージで見られがちです。朝鮮学校は閉鎖的な学校、危険な学校、北朝鮮=朝鮮総連=朝鮮学校。日本のマスメディアが映し出す、そういう図式です。そう見られがちと言う事ですね。誤解されているところが多々あります。「趙先生日本語上手ですね。いつ日本に渡ってきたんですか」とか、「朝鮮学校の子どもたち日本語上手ですね」とか、「いつ戻るんですか」とか。そういう質問がよくありますどれも誤解によるもので私どもの広報が足りないと反省しているところです。
以前に比べるとだいぶ減りましたが、依然無くならないいたずらや嫌がらせ。。メールでの嫌がらせは最近見なくなりましたが、電話での嫌がらせはいまも続いています。去年警察を呼んで調べてもらいました。福岡県内の日本の学校でもあったと言われていますが「お前の学校の子どもを殺す」と言う電話が、去年は五、六回ありました。正門の前にゴミが置かれていたりというようないたずらはしょっちゅうあります。。
屋台をしている保護者がいます。彼の屋台に韓国からも台湾からも中国からも、またちょっと嫌がらせでヘイトスピーチをする人も来ます。彼はいろんな人と話をしていますが、彼がこう言いました。「自分は朝鮮学校を取り巻く情勢、環境のいいも悪いも全部知っている、知ったうえで送っているんだ」と、「そこを日本の皆さんわかってください」と。抱える困難、不安なんですが、正直申しまして朝鮮学校がこれから存在できるのか、朝鮮人が朝鮮人として自分らしく生きていくうえで大変息苦しい世の中になっていっているなという感じがします。
統一コリアと日本の架け橋に
なぜ朝鮮学校で学び続けるのか。単純ですが朝鮮人だから朝鮮学校で学ぶのです。己を知って他者を知るのです。己を知らずして他者を深く理解する事はできないと、私はそう思っております。
自主性を尊び、主体性、民族性、科学性、現実性、国際性を朝鮮学校が育んでいるからです。「背骨」を作っています。「背骨」がないと生きていけません。あと「筋肉」にするのか「贅肉、脂肪」に変わるのかそれは個々人、本人にかかっていると思います。朝鮮学校では在日の子どもたちの「背骨」を作るという事です。
尊敬してやまないアボジ、オモニ、そして先輩たちが守ってきたからです。ですから私どもが受け継がなくてはいけない。負の遺産も受け継がなくてはならないと思っています。いい遺産だけ受け継いで、負の遺産は知らない、そういった事はしたくない、朝鮮学校にも負の遺産があります。これを私は直視しています。自分の問題として受け止めて、次の世代にはそれを少しでも減らしたい、無くしたいという気持ちで取り組んでおります。
さらに統一コリアと日本を結ぶ架け橋的な役割を果たしたいと思っています。私は統一コリアは近いと思っております。いい時代が必ず来ると確信しております。『南北コリアと福岡の友だち展』という絵画展が、毎年天神で行われております。少しばかり参加させていただいておりますけれど、この絵画展、貴重だと思っております。在日の朝鮮学校の子どもたちの絵があります。朝鮮半島の北と南の子どもたちの絵があります。中国朝鮮族の絵があります。福岡の公立小学校の子どもの絵があります。こういう絵画展ってなかなか無いと思います。これを福岡の市民の方々に大切にしていただきたい、みんなに見て頂きたいと思っております。
二度と不幸な歴史は繰り返されてはならないと思っております。そうならないために皆さんと一緒に手を取り合ってやっていきたいと思っております。
最後に、私、朝鮮学校で学んで朝鮮学校に携わっている者として、朝鮮学校に対して自負があります。ただ意固地になっているわけではありません。また日本の学校を蔑んでいるのでも、軽んじているわけでもありません。自分が通った学校、自分を頼っている同胞、子どもたちを、貴重な存在だと思っております。朝鮮学校が日本に存在してはいけないという風潮を、私は大変つらく悲しく思っております。朝鮮学校が存在するという事は、日本を豊かにする事だと思っております。いろんな人がいていいと思います。いろんな学校があっていいと思います。我々は、日本の方と常にいい社会づくりができればと思っております。私も福岡市を愛しております。福岡市がいい街になればと、そういう気持ちを常に持っております。ですので多くの人々、これは、同胞も日本の方も、「私たちの街の朝鮮学校」を、ウリハッキョ、「私たちの学校」と呼んで頂けるよう頑張っていきたいと思います。「朝・日」の次の世代のためにと思っております。49
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