朝鮮学校オモニ会「ハン・ギョンフィ 統一平和賞」授賞式に参加して。受賞者の姿なく…
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金淑子(『朝鮮学校のある風景』編集人)
一九四八年の4・24教育闘争で、校門の前に寝そべり、「入るなら、わたしたちを殺してから入れ!」と押し寄せる警官隊から学校を守った大阪第四初級学校のオモニたち、
その伝統を受け継いで、高い学費を払うために忙しく働きながら、夜明けに子どもの弁当を作り、給料の少ない先生たちの健康を気遣って週に三回学校に駆けつけて先生たちの給食を準備する栃木ハッキョオモニたち、
老朽化した通学バスを買い替えるために、もう一つ職場に通うかのように合間を縫っては学校に通い、素敵なタンブラーやチョゴリノートを作って売って、資金作りをする長野ハッキョのオモニたち……。
国の「無償化」制度から排除され、自治体の助成金が打ち切られ、日本社会の朝鮮人への風当たりがますます厳しくなる中でも、胸を張って、自分のことをしっかり説明できる人に育ってほしいと、ルーツのある朝鮮半島の人たちともコミュニケーションをとっておおらかに生きてほしいと願い、子育てと仕事、そしてオモニ会活動に奔走する全国のオモニたちの日々は、体力的、精神的限界に挑むまさに闘いの日々だ。それでも笑顔を絶やさず、時には街頭でアピールもする、そんなオモニたちの姿を紹介したかった。
そして「よくぞ朝鮮学校のオモニ会を選んだ!」と、軍事政権下で「スパイの家族」と後ろ指をさされ、いわれのない差別で苦しんできたハン・ギョンフィさんの遺族たちに、この賞を設けたことを改めて誇りに思ってほしかった。
それができないことが悔しかった。
それでも、これまで母性愛として語られてきたオモニ会の活動が、人権運動として、統一平和運動として評価されたことはうれしかった。
来年の第四回授賞式には第三回受賞者として代表が参加できればと思う。49
もくじ
朝鮮学校の歴史はオモニたちの歴史そのもの、「賞」は私たちの一片の良心、最小限の尊敬
各地のオモニ会と一緒に「ハン・ギョンフィ統一平和賞」の授賞を喜び、来年の第四回授賞式には、歴代の受賞者とともに、多くの「オモニ会」のオモニたちが参加できる、そんな願いを込めて、授賞式の会場で配布された冊子の中から、審査の経緯と選定理由」、オモニ会の授賞辞、「ハン・ギョンフィ統一平和賞」の制定趣旨、故ハン・ギョンフィ女史はどんな人の訳を紹介する。(「記録する会」)
「ハン・ギョンフィ統一平和賞」審査の経緯と選定理由
「ハン・ギョンフィ統一平和賞」審査委員会は第三回受賞者として「朝鮮学校オモニ会」を選定した。選定後、審査委員たちの簡単な夕食の場が設けられた。食事の途中南北首脳会談を四月末に開くという喜ばしいニュースが発表された。
「ハン・ギョンフィ統一平和賞」は、平和統一運動の歴史と現場で、厳しい中、弾圧に抗して闘ったり、模範的な活動をしたりした団体や人たちを発掘して激励し、その活動を世に広く知らしめることを目的にしている。最終審査に残った団体や個人の中から審査委員が満場一位で「朝鮮学校オモニ会」を選んだものの、時期尚早という意見もあるのではないかという憂慮もあった。
ところが四月末の南北首脳会談開催の発表は、私たちの憂慮を吹き飛ばし、第三回受賞を通じて、ハン・ギョンフィ先生の志を継げ、平和統一の時代を切り開く礎になれるという喜びと希望を与えてくれた。
地球上に残った最後の分断国家!
この分断された地で、対決と戦争、離散家族の痛みや悲しみが続いているが、それは南や北に限ったものではなかった。日本に暮らす私たちの同胞もまた分断による痛みとともに生きてきたのだ。
植民地時代に日本に強制徴用された同胞たちが故国に戻れる日を夢見ながら、子どもたちに民族の言葉と文字、歴史を教えるために「国語教習所」を建て、日本の無慈悲な弾圧の中でも血と涙で「朝鮮学校」を守って来た。その重要な原動力の一つがまさに「朝鮮学校オモニ会」だ。「朝鮮学校」の歴史はオモニたちの歴史そのものであり、民族の魂を守るための闘争の歴史だと言っても過言ではない。
一九四五年に北海道から九州まで、日本全国に五百余りの国語講習所が建てられ、現在は幼稚班が三八、初級部が五三、中級部が三三、高級部が十、大学校が一校、全六四校(併設のため)が運営されている。日本社会で我々の民族性を守り、受け継いでいく唯一の場所であり、六〇万在日同胞社会の中心でもある。「朝鮮学校」と在日同胞は日本の差別や弾圧、右翼団体の絶え間ない脅迫や物理的暴力の中でも、しっかりと地に足つけて今日に至っている。
「朝鮮学校オモニ会」をはじめ同胞たちと日本の良心的な団体や人々の闘争で、二〇一三年五月には、国連社会人権委員会第五十回会議で、日本政府に送る「意見文」を採択し、「朝鮮学校への弾圧」に対して「明確な差別だ!」という宣言とともに高校授業料無償化プログラムを「朝鮮学校」に通うすべての子どもたちにも保障することを日本政府に求めた。しかし安倍政府は、朝鮮学校に対する弾圧を撤回せず、子どもたちは今も差別と排除の中で苦痛を強いられている。
「朝鮮学校オモニ会」の闘争が韓国に伝えられ、金明俊監督がドキュメント映画「ウリハッキョ」を全国で上映し、俳優クォン・ヘヒョさんの「モンダンヨンピル」が活躍することで、大衆的な関心事となって拡散している。韓国労総、民主労総、農民、女性、青年など大衆団体と宗教家、弁護士など各界が参与した「ウリハッキョと子どもたちを守る市民の会」が発足し、この四~五年間は日本大使館前での「金曜行動」をはじめ様々な活動を展開し、闘争は人権運動、教育運動、統一運動、国際連帯運動へと拡張している。
今日、ハン・ギョンフィ先生の志を継いで「朝鮮学校オモニ会」に遅ればせながら「ハン・ギョンフィ統一平和賞」を送ることは、分断された「南と北」が「一つの祖国」になるその日を夢見て生きてきた「オモニと子ども、先生たち」のこれまでの七〇年の歴史に捧げる私たちの一片の良心だ。これまで七〇年間、差別と弾圧の中でも民族の魂と自尊心を守って来た「オモニと子どもたち、先生たち」に我々が送る最小限の尊敬だ。
これからは私たちが「オモニと子どもたち、先生たち」の志を継いで、世界の良心とともに戦う時だ、この道こそは我が国の平和と統一につながる道だ。
二〇一八年四月六日
第三回ハン・ギョンフィ統一平和賞 審査委員会
イ・ヘドン(委員長)、イ・スンファン、チョン・ジンテ、ハン・チュンモク、ハン・ホング
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朝鮮学校オモニ会「ハン・ギョンフィ統一平和賞」を受賞して
民族教育のための私たちオモニの活動を、南の地で積極的に支持声援してくださる皆さまの熱い同胞愛に感謝し、いかなる差別や迫害にも屈することなく朝鮮学校を守っていく決心を新たにしています。
朝鮮学校は、祖国の解放を迎えて大きな喜びと興奮に包まれた在日同胞が、奪われた名前、踏みにじられた民族の尊厳を取り戻すために日本の地のあちこちに建てた学校です。
その時から七十年の歴史、私たちは異国の地で、植民地宗主国の昔の夢を捨てきれず過去の清算はおろか、歴史の証言者である我々の存在自体を抹殺しようと弾圧や迫害を加える日本で、朝鮮学校を守ってきました。
長屋や、同胞たちの家を間借りして始まったウリハッキョは白墨一本、紙一枚購入するのも大変で、先生が学校を終えて工事現場に出なくてはいけないような状況でした。米占領軍や日本の警察が警棒をかざして、いつでも日本の学校で受け入れてやる、その方が就職にも有利だし金も稼げると誘惑、脅迫し、日本の大学の受験資格や補助金対象から、そして高校無償化制度の適用対象からも除外してきました。
ウリハッキョはこれまで十万人の卒業生を出し、在日同胞三、四世たちが主役となった今日も民族性と愛国愛族の魂をしっかりと受け継いでいます。朝鮮学校はまさに私たち在日同胞の誇りであり、何者にも変え難い宝物です。
私たちオモニは民族の言葉と文字、歴史と地理を学び、胸を張って生きることこそが真の幸せであり、価値ある明日を約束するという固い信念、一つになった祖国の地で一つになった祖国のために働く人材を育てるという願いをもって朝鮮学校を守ってきました。
これからもさらに勇敢に戦っていきます。
今年に入って朝鮮半島で起こっている驚くべき変化は、私たちオモニに6・15新世代に対する信念と、統一祖国とともに開かれる子どもたちの希望に満ちた未来に対する確信を、感激と興奮の中で感じさせてくれます。
温かい祖国の懐があり、一心団結の伝統があり、南の同胞の支持声援がある以上、われわれの闘争は必ず勝利するでしょう。
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「ハン・ギョンフィ統一平和賞」の制定趣旨
私たちは今、分断の悲劇に全身で耐えるしかなく、死んだあとはスパイの濡れ衣までかぶせられたある女性を追悼して、小さなことを始めようと思う。故ハン・ギョンフィ女史、生きているときは越北者の妻として四人の子どもを一人で育て、死んだ後はスパイの頭目という濡れ衣を着せられて、子ども三人もスパイとされたまま歴史の裏側に追いやられた女性を、今ようやく私たちは日の当たる場所に呼び戻す。スパイとされた息子たちは再審で無罪となったが、死んで濡れ衣を着せられた者には再審もかなわず、永遠にスパイ団の頭目として残される女性ハン・ギョンフィ。骨髄炎を患い大人になっても足を引きずって歩く末の息子ソン・ギスをいつも心配していた母親。そんな母親ハン・ギョンフィは、一九七七年に急逝しながら、奇跡のように息子の病を持っていき、ソン・ギスの病は洗い流したようによくなった。末息子の病は持って行っても、息子たちを襲ったさらに大きな不幸を、母は防げなかった。一九八二年九月、国家安全企画部は、ソウルー忠清北道を拠点とする超大型スパイ団事件を発表して、故ハン・ギョンフィ女史の四人の子どものうち、上の三人をスパイとし、五年前に亡くなっていたハン・ギョンフィ女史をスパイ団の頭目とした。
世間を騒がしたハン・ソン一家スパイ事件関連者は、二〇〇七年に国家情報院の過去の事件の真相究明を通じた発展委員会の真実究明を経て、二〇〇九年八月二八日の再審ですべて無罪判決を受けた。故ハン・ギョンフィ女史の三人の息子は幸いにも二七年ぶりに再審で濡れ衣を晴らしたが、事件当時の一九八二年にすでに亡くなっていて再審に回付されていなかったハン・ギョンフィ女史は、再審を通じた名誉回復の道も閉ざされた。この不幸な女性の名誉をどうすれば回復できるのか。ハン・ギョンフィ女史の末の息子でスパイの濡れ衣を着せられたソン・ギスとその娘ソン・ユリ、息子ソン・ヒョンソクは、分断によって生きている間は耐え難い苦痛にさいなまれ、死んだあとはスパイ団の頭目というあり得ない濡れ衣をかけられた故ハン・ギョンフィ女史の名誉を回復して、彼女の報われなかった生涯を追悼しようとハン・ギョンフィ統一平和賞を制定した。また基金は国家情報院の過去事委員会で事件の真実究明に努力したハン・ホング教授が関係する聖公会大学校の民主資料館に寄付して、ハン・ギョンフィ統一平和賞を運営することにした。
分断によって苦労を強いられた母親たちは故ハン・ギョンフィ女史だけではない。分断はこの地に大小の無数のハン・ギョンフィを産んだ。「女スパイ」ハン・ギョンフィの名で与えるこの賞は、分断で苦痛を受けた数多くの母親たちを記憶するためのものだ。「女スパイ」ハン・ギョンフィの名で与えるこの賞は、無残な拷問によって自らを、母親を、愛する人をスパイだと虚偽の自白をするしかなかった数多くの「でっち上げられたスパイ」たちを共に記憶するためのものだ。「女スパイ」ハン・ギョンフィの名で与えるこの賞は、数多い人々を拷問してスパイを作り上げた者たちが、今もこの地で愛国者としてふるまっていることを忘れないためのものだ。
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故ハン・ギョンフィ女史はどんな人?
一九一九年一二月一八日(陰暦)忠清北道清州の裕福な家庭に生まれた故ハン・ギョンフィ女史は、清州女子高等学校と公州師範学校を卒業して教師をし、幼い子どもたちを教えた。声楽の素質のあった故ハン・ギョンフィ女史は、夢をかなえるために東京武蔵野音楽学校に留学し、そこで日本大学法学科に留学中だった同郷出身で一つ年上のソン・チャンソプと出会い、恋愛して一九四一年に故郷清州で結婚式を挙げた。
分断と戦争は、植民地当時、東京で声楽の勉強をするほど裕福だった新女性ハン・ギョンフィの人生を脅かした。当時数多くの青年たちがそうだったようにソン・チャンソプは社会主義に熱中し、戦争中に北に行ってしまった。故ハン・ギョンフィ女史は、越北者の妻として厳しい生活を送ることになった。彼女は四人の子どもを持つ三十代初めの未亡人同様だった。越北者の家族というレッテルに加えて、本人もまた戦争期間に賦役容疑で調査された前歴を持っていた。当時の女性としては稀なインテリだったが、戦争後彼女が韓国社会でできたのは喫茶店のマダムか闇ドル商がせいぜいだった。北に行った夫ソン・チャンソプは一九六〇年の四月革命後、親友のキム・ヨンソンが民主党政権の長官に就任すると、彼を通じて統一問題に対する立場を打診する目的で南に来た。この時に妻と当時高校生だった長女ソン・ギボクに会った。キム・ヨンソンはソン・チャンソプがきた事実を当局に申告した。当局は、ソン・チャンソプが夫人ら家族と会ったのではないかと、故ハン・ギョンフィ女史を数回連行して尋問したが、夫と会った事実が明らかになれば大変なことになると思い、そのたびに夫に会ったことはないと強く否定した。これが不幸の源になった。この秘密を胸に秘めたまま故ハン・ギョンフィ女史は一九七七年の陰暦二月二二日、高血圧で長女ソン・ギボクの家で突然倒れ息を引き取った。平素から血圧が高くて苦労していたが、少し前までエリート空軍中領の婿の空軍大学卒業論文を心配していた彼女が、五七歳で苦労の多かった生涯に幕を下ろした。
故ハン・ギョンフィ女史の苦労は、亡くなった後、さらに増幅された。一九八二年に国家安全企画部は、ソウルー忠清北道を拠点とした固定スパイ団二九人を一網打尽にしたと発表した。
スパイ団の頭目はすでに五年前に亡くなっていた故ハン・ギョンフィ女史で、長女ソン・ギボク、長男ソン・ギフン、末の息子ソン・ギスら四人の子どものうち三人にスパイの濡れ衣を着せたのだ。アカの子どもだと後ろ指を指されて育ったソン・ギボク、ソン・ギフン、ソン・ギスは、全斗煥煥軍事政権に捕まえられ、でっち上げスパイの歴史の中でも最長を記録する四か月の期間不法拘禁され、拷問によってスパイにされた。そしてその拷問は彼ら兄弟を女で一つで育てて大学まで卒業させた母親さえもスパイにしたのだ。49
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授賞式を共にして
〇백자>>>fb4・6
「朝鮮学校のオモニ会」をお祝いに行きます。
振り返ってみると、4・3抗争と在日朝鮮人の歴史は一つの根です。統一してこそ、済州の白碑は建ちあがり、ウリハッキョの子どもたちは統一の主役として輝くことでしょう。
四月末に行われるであろう首脳会談が待たれる所以です。
〇기준성>>>fb4・6
二〇一八年第三回「ハン・ギョンヒ統一平和賞」の受賞者に、満場一致で日本各地「朝鮮学校オモニ会」が選ばれました。
七〇余年間、長い歳月日本社会の差別に立ち向かってたたかい、長きにわたる苦難の時に耐え、朝鮮学校を守り、受け継いできた功労に対する賛辞であり、ここに感謝の気持ちを供すべきだというのが選定理由です。
「朝鮮学校オモニ会」は、オモニたちだけではなく共に守っているアボジと教員、学生、そして卒業生と日本市民社会の努力をすべて一つにする意味であり、今後韓国社会もその努力に連帯するとの意味でしょう。
ただ、授賞式を共にできない現状がとても惜しくもあるのですが、遠からず共にするときが多くなることを信じながら、今月末の頂上会談が待ち遠しいです。
心から受賞を祝い、感謝します。
〇정지욱>>>fb4・7
第三回「ハン・ギョンヒ統一平和賞」の受賞者は「朝鮮学校オモニ会」です。
授賞式を終え、金明俊監督とモンダンヨンピルの会員の皆さんの間に、参加することができなかったオモニたちに代わって写真を掲げて立ちました。
行事をつつがなく終えることができたことに感謝し、聖公会大の韓洪九教授とも一緒に写真を撮りました。
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