平壌から 「今」を 伝える(2018・3・5〜)
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整理者:筆者の金圭蘭[東京朝鮮第三初級学校18期・東京朝鮮中高級学校21期卒業生]は、編者・金日宇の妹である。朝鮮大学校の工学部機械科に在学中の1972年春に帰国した。長年住み慣れたアパートの建て替えのため、仮住まいで長女夫婦と一緒に暮らしている。近く、新築のアパートへの転居するようだ。
原文は大方日本語で、一部単語は朝鮮語。書き手のニュアンスをそのまま伝えるため、誤字、脱字だけを直した。文中[ ]内と注釈は、整理者が付けくわえた。 (「記録する会」 キム・イルウ)
金圭蘭:第33信(2018・3・5/他)
■3月5日付
オモニ、お元気ですか?
すっかり春です。気温が低くても零下五度ぐらい、昼間は五~六℃まで上がって、厚い綿入れも脱いで…もう一か月もすると、花が咲き始めるでしょう。
今年の旧正月は2・16で、金正日大元帥のお誕生日とかち合いました。三日間の連休です。午後から近くのプールに遊びに行って、夕食は久しぶりの外食でした。
アヒルと豚、イカを焼き、冷麺でお腹が一杯に。
ウナ[キュラニの長女]は、翌日からお医者さんたちの軍事訓練、「軍診訓練」です。
チュウォニのアボジ[ウナの連れ合い]は、すぐ新義州に出張です。今年の冬はチュウォニがアボジと一緒に一か月あまり新義州に行っていました。出張を兼ねてハルモニの家で寝泊まりしていました。
四月にはチュウォニ[長男]は四年生、チュヨンイ[二男]は幼稚園です。二月の初めに大同門幼稚園の試験を受けましたが、結果は三月末にならないとわかりません。
新しい家の方は? まだ知らせがありません。今年は何とかなるでしょう。
オモニもお元気で! いつも楽しく…楽しいことだけを思って…。
そうそう三月の二日は정월대보름[旧一月一五日]の日です。。旧暦ではじめてのお月さまの日です。前日のお昼に冷麺を食べます。寿命が長くなりますようにと冷麺です。食堂は混んで大変でした。当日の朝は、耳を良くするという酒、귀밝기술を飲みます。それに五目飯と九種のナムルを食べました。ナス、カボチャ、唐辛子、キノコに…九種類も大変、市場に行くと、一つまみぐらいずつビニール袋に入れて売っています。それを煮たり、炒めたりします。夜はアパートの窓、ベランダからお月見です。
若者たちは、モランボンに上がって、月を見ながら願い事をするようです。
チュウォニは宿題をしてくれるロボットがあったら…コンピューターを買ってくれと願い、チュヨンイはお月さまに向かって、美味しいもの沢山ください! って。
なんといっても健康が一番! お元気を願っています。では、今日はこのへんで、アンニョンヒ。
二〇一八・三・五
■平壌3月17日付消印
今年の正月は、一二月三一日が日曜日なので、四日間の連休、定年退職して家にいる私は四日間も…何をして過ごすのやら? 心配でした。市場に肉と野菜、お菓子、果物を買いに行って、二~三日前から部屋の後片付けをして、正月の飾りをつくり…。
大晦日は、夕食は簡単に済ませて、鶏と豚肉を料理し、お汁粉も作っておこうと、練炭は大活躍です。一一時頃、年越しそば、今年は冷麺、美味しく食べました。チュヨンイ[同居している長女ウナの長男]は夢の中、大同江では新年の花火、金日成広場では氷の祭典です。
一月一日、まずはホヨントンム[キュラニの夫]の祭祀、お酒をついであいさつしました。
トック[朝鮮風お雑煮]と三色の野菜のあえ物、明太を味付けしていると、テハ[キュラニの長男]と嫁のヨンスン、孫のケヨンイ、ケソン、それに二男のチハが来ました。嫁のウンジュは仕事で、孫のケスンイは風邪気味で連れてきませんでした。皆でホヨントンムにお酒をついで、挨拶をして、お年玉…。
お正月の初コーヒーは、昨年、オッパ[兄、私]が持ってきた日本製のコーヒー、この日のためにとって置きました。部屋いっばいにコーヒーの香り。皆で写真を撮った後、食事です。
鶏のから揚げ、タラのてんぷら、三色の野菜和え、腸詰、焼き餅、内臓のスープにお汁粉、三時ごろ、チュウォニのアボジ[長女の連れ合い]は職場に向かいました。
テハの家族とチハは、万景台の親戚の家に行き、夜の一〇過ぎまでうたって、踊って、楽しい時間を過ごしたようです。
二日は、ウナが出勤、私はチュウォニとチュヨンイと留守番、三日の日曜日は、ルンラ人民遊園地に! 年末から風邪気味ですっきりしませんでしたが、チュウォニのアボジが気晴らしなるというので、同行しました。
大好きな立体映画を観て、電気自動車、空中ブランコ…寒かったせいか、並ばず乗り放題でした。グルグル回るのが多く、私は苦手で見ていましたが、四人は大喜び、歓声を上げていました。
植木で作った迷路は楽しかった。道に沿って行くととうせんぼう、行き止まりで、あっちだこっちだと言いながら同じ道を二回も三回も回って大笑い! 高い木があるあたりが出口だというので…五分位で行けるところを二〇~三〇分もかかりました。他の人も同じ、「また、会った」と、すっかり知り合いになっていました。それからミラーハウス。チュウォニは入らないと、昨年、アボジと来たとき何回か鏡にぶつかったようです。それでも皆で入って、無事出ることができました。楽しい時間でした。昼食はヤンコチ、チョチャルトク、オムライスに海苔巻き、ノットゥチヂミを。チュウォニアボジはお酒を飲み、私たちは久しぶりにコーラを飲みました。入り口まで観覧自動車に乗り、電子娯楽館ではチュヨンイとチュウォニは鉄砲を撃ち、車にも乗って、オートバイゲームとスキーゲーム…そこで二時間位遊んで帰ってきました。
いつも家に閉じこもり気味の私にとっても楽しいひと時でした。
チュウォニのアボジは五日から新義州に出張。実家があって、オモニと弟が暮らしているので、冬休み中のチュウォニを連れて行きました。医者のウナはチュヨンイを託児所に預けて職場に。今年の風邪はひどいみたいで…夜の九時、一〇時まで担当の人民班を一件ずつ訪ね検査、予防指導です。チュヨンイは託児所の先生に連れられて戻ってきました。
××
旧正月は二月一六日の「光明節」とかち合いました。
例年より寒い日がつづき、友達に電話をかけても寒いし、外出してすべって転んだら…また、最近は中国からの黄砂で、風が強い日はメガネにマスク、帰ってきたらうがい…。結局は「冬眠」が一番いいようです。
今日は久しぶりにマイナス一四℃、上は六℃との予報です。久しぶりに川向こうの郵便局まで行ってみようと思います。
そうそうお正月にパン・スミトンムから電話がありました。オッパから手紙来たよ…五~六枚なんだけど、字もよく読めないし、順序もバラバラだって。何時間もかけてようやく読んだと言っていました。友達に電話をかけると、やっぱり手紙は来たけれど…寒い冬、コーヒーでも飲みながら「研究」しながら読もうと、言うことみたいです。でも手紙は楽しみなようです。
オモニはお元気ですか? 寒いから注意するように伝えてください。オルケ[兄嫁]にもよろしく。
一月三日、ルンラ人民遊園地に行った時の写真と、いつもの思い出話を同封します。
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朝鮮の目まぐるしい科学技術の発展
今年は私が東京朝高に入学してから五〇年になります。一九六八年四月、運動場の一番奥にあった校舎で一年生の生活を始めました。当時、生徒数は二〇〇〇人を越えていました。一年生だけでも、一四クラス位ありました。東京都内と三多摩、埼玉、千葉だけではなく、群馬から来たトンムもいたようです。
三年間の朝高生活は、一言でいって楽しかった。勉強も、クラブ活動も…。
高三に上がって、進路についていろいろ考えました。アボジが総連のイルクン[専従活動家]だということもあって…。「無条件組織委託」の時代だったので、どこでもっていう感じだったのか? 朝大に決まったとき、学部の選択は自由でした。国語の先生は語文学部にと、数学、物理の先生は理学部を勧めてくださいましたが、私は一人で工学部に決めていました。トンムたちは皆、政治経済学部に行くと思っていたようです。
私は第一、二、三志望、すべて工学部機械科と書きました。先生は、第二、三はほかの学部にするよう言われましたが、私は絶対に合格できるという確信を持って、受験に臨みました。
もし、その時私が政経学部を志望していたら落ちたようです。理由はオモニがイルボンサラム[日本人]だから。その年はそうだったと、のちに聞きました。「キム・ピョンシクの指示」とのことでした。確かに、その年、朝大進学班にイルボンオモニの子どもは少なかったようです。朝大進学を希望したトンムの中で、関東学院の講習に行ったトンムも多かった。学院を終えて、その中で一人だけ、朝大の二次試験を受けて受かったとも聞いています。楽しかった朝大生活については、次の機会に書くことにします。
一九七二年に帰国が決まりました。「200人」のトンムと一緒に! 大学入学当時の私の希望は静かに去っていきました。
清津に着くと、希望大学の選択です。建設大学を志望し、平壌に行きました。建築学部、建築工学部、建材学部など、四つか五つの学部があり、私は工学部を選びました。学部長はとても厳しい先生でした。皆一年ずつ下げられ、一年生からだというのです。一年は済ませてきたというと、試験をするというのです。微積分の公式誘導の問題で、結局は二年生への編入が認められました。私が入ったクラスは、その年(一九七二年)の全国数学競技で金策工業大や数理工学大学を抑えて優勝したクラスでした。建設大学には帰国者が多く、特に建築学部に。工学部は少なく、学年に二人位? 先輩たちからは先生たちは帰国者嫌いが多いから注意しろと言われました。過去に何かのいきさつがあったようです。本当でした。
私はとにかく勉学に励みました。先生たちは素質をたかるための執筆や翻訳の課題が多かったようです。当時、建設大学には日本からの研究文献や、技術書、関連雑誌などがたくさん入ってきていました。ある先生が「手を貸してくれ」というので、書庫に行ったら、講座に翻訳を分担されたらしき書籍が机一杯に並べられていました。その中の一冊を選ぶと「訳してみなさい」と、言うので朝鮮語で訳しながら読み始めると、大喜びで。なんだかんだ在学中に二〇冊近い書籍と、数えきれないほどの文献を翻訳して、その半分以上は出版までされました。
建設大学の工学部は、理論力学からはじまって、材料力学、構造力学など、力学ばかりでした。
卒業後、「三大革命小組」を経て、三二年間の職場生活は本当に科学の目まぐるしい発展を目撃、体験する日々だったと言えます。最初、建築設計室に入った当時は電卓すらなく、ソロバンと計算尺での計算でした。当時、平壌火力発電所の四〇キロワット/時の設計が終わるころで、全国各地の火力発電所の設計で業務量は大変なものでした。
一つの発電所の主建造物の設計では、構造計算を五~六人の経験ある設計士たちが担当するのですが、五~六か月ほどかかりました。入所後、初めての設計は清津火力発電所の化学精精水所の設計でした。私の設計事務所は、計算課題が一番多いというので、ポートランド言語[注・一九五四年にIBMのジョン・バッカスによって考案された、 コンピューターにおいて広く使われた世界最初の高級言語]での計算プログラムが入ってきました。ところがその機械に任せて計算をしたところ、計算結果が間違って出たことがありました。所長や室長は誤計算を探せと。幅二~三センチのてーぷ、1と0しかない表示の中で、誤差を探し出すということは、草原に落ちた針を探すようなものです。一日中テープとにらめっこをして家に戻ると、夢の中でもテープと穴でした。何日か目にようやく探し出したことは忘れることができません。
平城にある国立科学院にようやく電気計算機が入ってきたのは一九八〇年度に入ってからです。
それから何年かして、祖国訪問に来た朴先生の部屋に行ったらテレビ位のパソコンで何かをしていました。このとき、パソコンというのをはじめて見ました。どこかの機関から頼まれた、建物の耐震計算をしていると、それも数時間で終わるというのです。すごく魅力的でした。
それからしばらくして、設計事務所にもパソコンが入ってきました。ベーシックでプログラムを作り、それまで五~六か月かかっていた計算が二~三日で、その二~三年後には一七~一八分で。それも平面上の計算を立体化させてです。すべての構造計算プログラムを自力で作り、建築だけではなく、電気、機械、関係の計算も処理することができるようになりました。二〇〇〇年度に入ってからは、図面もすべて手で書くことはなくなりました。
三〇年、この間に科学も技術も猛スピードで発展しました。今の若者に言わせれば、みな昔話です。時代は変わり、今は小学三年生がコンピューターと争い始めました。もっとも、宇宙空間にはロケットや、ミサイルがバンバン打ちあがっている時代ですね。
■3月20日付
会いたいオッパに。元気でしたか? 一二月に送ってくれた荷物を受け取りました。ありがとう。手紙と写真、送りましたが着きましたか?
カレールーとうどんは、ヨンスニが好きなのでテハ[キュラニの長男]の家に、チハ[二男]には鶏がらスープの素とお菓子をおすそ分けしました。
3・8の国際婦人デーの日は、テハとヨンスニ、チハたちが遊びに来ました。送ってくれたスパゲッティーに、みんなすごく満足、それにグラタンのようなものも作りました。次に集まるのは四月一五日か、ケスンイ[チハ長男]の一歳の誕生日[四月一〇日]か、今から楽しみです。
チハは引っ越しで大わらわです。壁紙を貼り、床にビニールレザーを敷き、洗面所とキッチンにタイルを…。チハの旧友、チュウォニのアボジと、テハとヨンスニの助けを借りてです。
ケスンイの誕生祝いを兼ねて、引っ越し祝いをするようです。四月の一〇日を目指して、皆で頑張っています。
オッパの誕生日はどう過ごしましたか? 焼肉でしたか?
四月からはチュウォニは四年生、チュヨンイとケヨンイは幼稚園に。
健康第一です。オモニも元気なようで。今年はアパートも完成し、引っ越しできるでしょう。
二〇一八年三月二〇日
キュラニが。
■4月22日付
イルウオッパ[兄]、スッチャオルケ[兄嫁]アンニョンハシムニカ。
オモニは元気にしていますか?
文さんを通じて本[『朝鮮学校のある風景』と『今どきの朝高生と朝鮮―2017年夏』]を受け取りました。パン・スミトンムには一九日に渡しました。感想文は何枚でも書くとのことです。
47号を見たら、折り紙チョゴリのことが載っていたので、私も折ってみました。[茨城初中高創立65周年を記念しての折り紙チョゴリでギネスチャレンジプロジェクトの記事 237~243頁]上手に折れたのやら? 六五個で一口だというので、×4=260個、折ったので送ります。一日平均六五、既定の折り紙があるという条件下で、三〇分で一〇個。
文トンムが日本に戻る時に託そうと思いますが、どうなるやら?[税関を通過できるのか] 大丈夫であるならば、東京朝高の校長先生の便でも送ってみようと思います。茨城朝高の修学旅行生も探してみようかと…。
『風景』の感想文を書こうと思いましたが、折り紙でチョゴリをつくっていたので…すぐ取り掛かります。
「私も朝鮮大学校の学生だった」というタイトルで、四月二七日、朝大工学部から同じく帰国したトンムと会うことになっているので、朝大時代のおもしろエピソードを書こうと思います。
それからチュヨンイの幼稚園生活についても。週幼稚園なので、月曜日に預けて土曜日に連れ帰ります。
この間、東京朝高の21期の同窓会も催され[前号に掲載]、動力設計年金受給者の集まりも予定されており、次々、書いて送ります。
今年の春は、天気が変わりやすく、気温が上がったり下がったり、強風も吹き、雨にもたたられ花見を逃してしまいました。四月一五日以降、気温が上昇し、一七~一八℃、二六℃まで上がり、二三日からは一五℃に…。
それでは今日はこれまで、文トンムによろしく。美味しいコーヒーももらい、一緒に食事もしたのに、お土産を渡すことができず…。
二〇一八・四・二二
明日はアボジの誕生日でしたね。キュラニから 49
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金日宇氏、私の2級先輩になられると思います。(私 朝大16期生です。)
私も朝大の工学部機械科卒業生です。金圭蘭トンムは1級後輩になります。昔の面影がよみがえりました。
文面を読ませていただき、生活感満載で、祖国での生活状況が良く分かり、大変貴重な内容だと思います。
私は今、大阪体育協会の仕事をしていますが、私もウリナラに行く時は、工学部の同窓生を探して逢っています。
ただ先輩たちの様に、同窓生を大勢集めての同窓会は出来ていません。
どういう철자を踏めば実現できるか教えて頂ければありがたいです。