ウリハッキョは心のふるさと教育権獲得を決してあきらめない
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たった二行の言い渡しに唖然
金大きな希望だったんですね。大阪で勝って、東京もいけると思って。
金栄愛会長東京は本当にシンプルに戦っていたので、勝つと思っていました。なのにあんな一〇秒足らずの判決で裁判長が逃げるように退廷して。
金あの時も傍聴したんですか?
金栄愛会長抽選に当たって入っていました。中では「冒頭〇分間カメラ撮影があります、ご協力お願いします」とアナウンスが流れて、やはりこれはすごい裁判なんだなと思いました。終了して裁判長が入廷して「請求を棄却する。裁判費用は原告」みたいな、ホントそれだけ、文章二つくらいで終わって一つも説明もなくて、みんな「え?」という感じで。そしたら森本さんと何人かの方が、「不当判決だ!」って叫んで。本当にあっけなく。
金どんな気持ちでした。
金栄愛会長あの証人尋問とか、今までの十数回の裁判は何だったの? という感じでした。全然聞いていなかったんだなというか、四月に裁判長が替わって、一回更新弁論かなんかやって、それで判決が九月ですよってなって。異動があるとは聞いていたけど、そうして仕組まれていたの?と言いたくなりました。あの時は泣くに泣けませんでした。あとで動画を見ると、外で待っていた人たちは歌をうたったり、シュプレヒコールを上げたりしていたけれど、中にいた人たちは唖然としてしまって。
金狐につままれたような
金栄愛会長ええ、私も「えっ」という感じで。そのあと記者会見があると聞いていたので、原告の生徒二人と私と弁護士の先生たちは別室で急きょコピーされた分厚い判決文を手渡されて、こんなひどい結果を前にどうしたらいいか不安そうな顔をしていたんだと思います。そしたら弁護団の先生が、「この記者会見の時しかあなたたちの素直な気持ちは外に出せないんだから、原稿なんか考えないで、思った通りに話して下さい」と言われました。でも何を言ったらいいんだろう、オモニ会会長という立場もあるし、原告の親ではないし、でも原告のオモニたちも含めてこの裁判にたずさわったオモニたちの思いを考えると、第三者的なことは言えません。記者会見まで何をどう頭の中で整理したのか、今もわからないのですが、何しろ「絶対にあきらめない」ということ、そして「朝鮮」ということに対してすべて否定してきた日本政府に対して、それは許されないことなのだと、この二つだけは言おうと思って、言ったと思います。
あの一日も長い一日でした。朝起きると、今年のオモニ会と去年のオモニ会のLINEがひっきりなしに鳴っていました。「緊張しています」とか、「朝から汗ばかり出て、シャワーを何回もしました」とか。それがまさかのあの結果だったので。
事前に報告会での原稿を頼まれて、勝った場合のものと、まさかの不当な判決が出た場合のものを、十日くらい前から準備していました。勝った場合のものは、きっとこちらを読むんだろうと思っていたので、すごく気楽に書けました。でもまさかのこっちは、書きながらどんどん気持ちが入っちゃって、パソコン打ちながら泣いちゃっていたんです。これは使わないだろうなと思いまながらも、見直せば見直すほど、どんどん文章が長くなって泣けてくるし。でもこれは使わないからと思いながら、一応両方プリントして 持っていきました。
金それで使わないと思っていた原稿を使うことになった。
金栄愛会長そうなんですよね。記者会見の後、原告の生徒たちとオモニ会の相談役、佐野先生、中村一成さんと昼食をとって、タクシーで夜の報告会に行きました。中高オモニ会として常任委員のオモニたちと横断幕を持って舞台に上がることになっていたので、オモニたちが何人来ているのか気になって、確認してみると、敗訴のニュースを聞いて急きょ駆けつけてくれたオモニとか、用事をキャンセルしてきてくれたオモニたちがいて。自分一人じゃないんだなと思うと、胸が熱くなりました。
会長を引き受けた時は、自分のポリシーとして「ひっそり、こっそり」終わる予定でした。本来それが理想だと思います。誰がやっても同じように回るというのが。でも場面によっては長が必要な時があります。私ができるようなことではないけれども、まだスタートして三~四カ月だったけれども、それでも一緒に陰に日向に支えてくれるオモニたちがいて、責任者のオモニたちが来てくれたというそれだけで力が湧きました。あの日一日がどうやって終わったのか、思い出したら、集会の後の祝勝会だったはずの食事会が決起集会になって、そこにも参加して、韓国から孫美姫さんも参加してくれていて。ここにいる自分と、それを冷静に見ている自分がいたような気がします。
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