ウリハッキョを発信の場にスタートした「坂道ぷろじぇくと」
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ハッキョ周辺の住民たちと一緒に
銀閣寺横という地の利生かして
金では「坂道ぷろじぇくと」について聞かせてください。始まりは何だったんですか?
金委員長「坂道ぷろじぇくと」の草案をまとめたのが、二〇一六年の今頃です。二年前です。いつも民族教育を守る方法についていろいろ考えているのですが、そんな中で今年迎える京都朝高の創立六五周年は、いいきっかけになると思っていました。イベントも重要ですが、今後卒業生が引き続きウリハッキョに関心を寄せて、同時にハッキョ支持者を増やすものにしたいと思っていました。長期的なものでないと、ウリハッキョを守るのは難しいと考えました。
机の前に座って考えてもしようがないので、何度もハッキョに行って、「通ったハッキョだけれど、自分はこのハッキョをどれくらい良く知っているんだろう」という視線で改めてハッキョを見てみました。そうすると「千里馬ってこうして建っていたんだ」とか、「ここで先生にしばかれたな」とか、「ここで恋愛ごっこをしたな」とか、そんなことを思い出しながら改めてハッキョを眺めていると、ハッキョに来る人が意外に多いことに気づきました。ウリハッキョの運動場を北白川の方から銀閣寺側への通り道として利用する地元の町内の人が多いことも知りました。銀閣寺に来た外国人観光客が間違えてハッキョまで上がってくる姿も見ました。ハッキョに通っている時も見ていたはずなのですが、改めて見ると、面白いなと思って。そういう人たちにウリハッキョを知らせる方法はないだろうかと。高校無償化の適用を求める街頭宣伝を京都駅とか四条河原町でしているんですが、関心のある人はごく一部ですがウリハッキョを訪ねてきます。だったら無意識でもウリハッキョに来ている人たちにアピールする方が早いのではないかと。ウリハッキョ自体が発進の場になれると思ったのです。
対外的にはまずそれで、卒業生たちを対象に考えたのは、「ハッキョに寄付するのはいいけれど何に使われているかわからない」という声をよく耳にするので、ハッキョの発展する姿を実際に見ればいいのではないかと。
そこで銀閣寺のすぐ上にあるウリハッキョの地の利を生かして、「坂道ぷろじぇくと」というのを考えました。通学路の象徴である坂道をネーミングすればインパクトもあるので。
金今のように寒い時期は凍ってしまって、上るのが大変なんですよね。
金委員長そうです。道に毛布を引いて、先生たちの車を後ろから押したりしながらようやく上がるんですよね。そんな思い出のある坂道です。
金具体的な内容は?
金委員長コンセプトは「地の利を生かしてウリハッキョを発信の場に」ということで、大きく三つです。
一つは坂道をアート化します。在校生たちの通学が楽しくなって、卒業生も「ハッキョが変わったらしいで、坂道きれいらしいで、行って見よう」となるような坂道を作ろうということで、凸凹した道を舗装し直して、周りに絵を描いたりして受け入れ態勢を作ります。
二つ目は、坂道を上がってきたところに発信がないといけないと思うのです、街頭でビラを配るように。「ご自由にお持ちください」というリーフレットを置いておくのもいいと思います。自分の足で上がってきて、自ら手に取ったリーフレットは読まれると思うので。もうひとつはウリハッキョの中に、京都の民族教育もしくは京都中高の歴史を展示した資料室を作りたいと思っています。こういう企画を提案すると「ウリハッキョらしさが失われる」という人もいますが、僕はこの資料室をウリハッキョの伝統の詰まったものにしたいと思っています。資料室を作ることで、在校生や卒業生がウリハッキョの歴史を知って、六十五年の中身を理解するきっかけになればと思います。ウリハッキョに関心を持ってくれる人たちに、今の生徒たちの姿だけでなく、ウリハッキョの歴史や伝統をもっと知ってもらう場にもなると思います。どんな過程を経て今のウリハッキョがあるのかを知ってもらうことで、これからウリハッキョを守っていく同行者になってもらえればと思います。
三つ目が、地域住民とのつながりを強めようというものです。京都第一初級学校に対する在特会の襲撃事件もありましたが、昔は地域住民たちとのつながりがあって、約束事として公園を運動場代わりに使わせてもらっていたけれど、それが希薄になったことが事件の背景にあったのではないかと思います。そうならないように、常にわたしたちへの理解を深めてもらうための働きかけをしていこうということです。京都朝高が今のところに移って今年で六〇年になるのですが、実際に地域の住民に会って話を聞くと「朝鮮学校が六十年前からここにあるのは知っていたし、通ったこともあるけど、中に入ったことはない」「たまにスピーカーの大きな音とか吹奏楽部の楽器の音が聞こえてきて、運動会しているのかなと思うけど、見に行ったことはない。私には関係のない事やから」ということでした。六十年間近くに住みながら、交流がないというのは寂しいことだなと思いました。長く同じ地域に住んでいれば、親しくはなくても、あいさつくらいは交わします。ところがウリハッキョ周辺の人たちとはあいさつを交わすことすらありませんでした。昔はそれでも親しいみたらしやの叔父さんとか、駄菓子屋とかよろず屋のおっちゃん、おばちゃんとかいましたが、今は参道の土産店や飲食店も企業化されて、そういうこともなくなりました。地域に住む人たちにウリハッキョを知ってもらって、「銀閣寺にある朝鮮学校」というイメージを持ってもらえればいいなと思います。私たちはただそのまま存在すればいい。それが楽しいことになればいい。そのためにまずは会おうと。
金日本の人たちを訪ねていくのは気後れしませんでしたか?
金委員長意外と簡単につながりました。ウリハッキョを支援してくれている「コッポンオリ」という団体があるんですが、その団体の同世代の人に相談したら、ウリハッキョの近くに住んでいる人を紹介してくれて、その人をつてに少しずつ広がっていきました。今からが肝心だと思います。
金陣営は整ったと聞いていますが。
金委員長まだ外にはそれほど発信していません。フェイスブックに挙げた程度です。実行委員会も発足して、坂道、資料室、地域連携、広報、財政の五つの部会がそれぞれ動きはじめました。まだ具体的な成果はありませんが、六十五周年なので、何か形にしたいなという気持ちはあります。でも地域とか、人の感情が行きかう問題なので、場合によっては間に合わないかもしれません。それでも十年、二十年という長期計画で築いていけばいいと思っています。
金雰囲気はどうですか?
金委員長なかなかいいと思います。でも短距離走ではないので。資料室のある各地のハッキョにも行ってみました。一方的に伝えようとするとうまくいかないと思います。何かを感じて、いろいろ考えて、帰る時に、何かしてみようかなと思えるような展示にしたいなと思っています。
以前高三の生徒にプロジェクトについて話して描いてもらった絵です。今、朝大美術科一年生です。造形大も近いので、一緒にできる企画があれば面白いなとも考えています。銀閣寺に年間五百万人の観光客が来るそうです。そのうち百万人が外国人観光客です。
金プロジェクトには朝青を卒業した後も引き続きかかわっていく?
金委員長はい、京都にいる限りずっとかかわっていきたいと思っています。
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